万物照応

ニンゲンとは魔法が使える生き物であるに寄せられたprotein_crystal_boyのコメントに
「言葉の魔法に関しては、人間関係の知識というかそういう思考パターンの自然を含む世界への投影という面もあるんだろうね。」というのがありましたにゃ。
また、受信したトラバでもそのあたりの疑義が表されておりましたにゃ。
これは、投影とひと言でいえば簡単なんだけど、投影ってのがどういうものなのか、続きをかねてハッタリ的に試論を述べてみますにゃ。


ニンゲンちゅう生き物はイロイロと変な生き物だと思うにゃ。例えば、まったく同一の種のくせに、世界中に分布していて、しかも寒冷地から熱帯、乾燥地帯から湿潤な地域、山岳から海辺までといった多様な環境に生息している生物って、基本的にニンゲンくらいなものなんでにゃーのかな。
ホッキョクグマのいる寒冷地にもニンゲンはいるし、マレーグマのいる熱帯にもニンゲンはいるにゃ。ホッキョクグマとマレーグマはもちろん別種であり、大きさも、暑さや寒さに対する耐性も、いろいろとまるでぜんぜん違うわけにゃんね。ところが、イヌイットとマレー人はもちろん同一種であり、大きさもおんなじようなものだし、全裸の状態における暑さや寒さに対する耐性だってたいしてかわりはにゃーわけだ。イヌイットだって裸でブリザードの中に放り出されればすぐに凍死にゃんよ。
なんでヒトちゅうやつは同一種のくせに多様な環境に適応できるのかというと、これは文化のおかげですにゃ。イヌイットは保温性に極めてすぐれた住宅や衣服を作る文化をもっているから極寒の地で生きることができるわけですにゃ。
ニンゲンにとって文化とは、むきだしの自然に抗して、生存するために環境に働きかけ、または環境を作り出すことといえるでしょうにゃ。イヌイットは住居の中、あるいは衣服の中に、自分たちの生息できる環境を作り出しているといえるわけだにゃ。あるいは、乾燥地帯で農業を行う環境を作るために自然を改変して灌漑をするのですにゃ。文化というものには、自然という現実を否認し、抗し、あるいは自然という現実を改変・操作し、自分たちにとって都合のよい何かを創出しようという呪術的な方向性があるんですよにゃ。
しかし、
例えばホッキョクグマの先祖が極寒の地で生息できるようになるためには、自然を改変するのではなく、自らの肉体と行動パターンを変えて適応しなくてはならなかったわけだにゃ。この変化のプロセスを「進化」と呼ぶわけですよにゃ。


現代進化論において、一般的に自然環境に適応する主体は各個体、もっといえば遺伝子だと広く合意されていますにゃ。しかし、これはヒトに機械的にあてはめることはちょいと難しそうですにゃ。ヒトは文化によって自然環境に適応しているわけで、自然環境に直接的に適応しているのはヒトの各個体ではなく文化であるということができるからですにゃ。ではヒトの各個体はなにに適応しているかというと、直接には各々が属する文化に適応するわけですにゃ。

  • 一般的な生物:個体が直接に自然環境に適応する
  • ヒト:自然環境に直接に適応するのは文化であり、各個体はそれぞれの文化に適応することによって間接的に自然環境に適応する

てな感じになると思いますにゃ。
さて
ヒト個体は文化に適応することによって間接的に自然環境に適応するわけですにゃ。文化に適応すれば、自然環境にも適応することになるのだから、文化を習熟するプロセスにおいて、ヒト個体は文化環境と自然環境を区別する必要はにゃーわけだ。
つまり、文化に対するように自然に対すればいいことになる。文化を理解すれば、おのずと自然も理解できるのだということになるんだにゃ。文化を通じて自然も統一的に理解できるのだと。文化への理解と自然への理解が連動してしまう。
(そしてその文化そのものに、現実を都合よく改変したいという欲求がへばりついているのがややこしい。)


由緒正しいオカルト思想の基本原理に「万物照応」というものがありますにゃ。万物すべてが連動するのだという照応の理論を唱えた高名な19世紀フランスの魔術師が、エリファス・レヴィ。このレヴィが万物照応を詩にしていますにゃ。


「コレスポンダンス(万物照応)」*1
             エリファス・レヴィ  澁澤龍彦・訳

  目に見える言語で形づくられた
  この世は神の夢だ。
  神の言葉は、この世のもろもろの象徴をえらび、
  聖霊は、この世を神の火で満たしたもうたのだ。
  愛の、栄光の、はたまた恐怖の
  この生きた書物を
  イエスが我らのためにふたたび見出し給うた。
  それというのも、あらゆる秘密の学問は
  エホバの聖なる名前から
  発した文字にほかならないからだ。

  自然の法則を解しうる者にとって、
  自然の一切は決して沈黙してはいない。
  星々には文字があり、
  野の花々には声がある。
  闇夜に輝く言葉、
  数のように厳正な語句、
  すべての音が一つの反響でしかない声、
  かつて祭司たちの叫び声が
  エリコの城壁を震動させたように
  ありとあらゆるものを動かす声。


これは万物が互いに連動しているものとして統一的に捉えるものの見方にゃんね。特に「ことば(=4月24日エントリにおける呪文)」があらゆる連動を引きおこしていることに注目だにゃ。
このものの見方について、レヴィ=ストロースがわかりやすく説明しているのではにゃーかと思う。


レヴィ=ストロース「神話と意味」P23


(野生の思考が科学的思考とは別種の思考であると述べた後に続く箇所:引用者注)
別種の思考法だというのは、可能な限り最短の手段で宇宙の一般的理解に達することを目的とするからです。そして、一般的であるのみならず、全的理解に達することを目指すからです。つまりそれは、すべてを理解しなければ何一つ説明したことにはならない、という思考法です。これは科学的思考のやり方とはまったくちがいます。科学的思考は一歩一歩と進みます。ごく限られた現象だけを考えてその説明を試み、つぎに別種の現象へ、さらにそのつぎへと進むのです。科学的思考は、デカルトがすでに言っているように、問題を解くとき、それを必要なだけ多くの部分に分割しようとします。


ですから、野生の思考がもつこの全体的把握の大望は科学的思考の手順とはまったく異なるものです。最大の相違は、もとよりその野心が成功しないという点でしょう。私たちは科学的思考によって自然を征服することができます。わかりきったことですから、これは多言をようしますまい。ところが、言うまでもなく神話には、人間が環境を克服するための実質的な力を増強することはできません。しかしながら、神話が人間に与える重要なものがあります。自分が宇宙を理解できるという幻想、宇宙を理解しているという幻想です。もちろん、それは幻想にすぎないのですけれども。

*1:この詩のモチーフをボードレールが再構成して同名の詩をつくり、それが象徴主義の支柱となった