ニンゲンとは魔法が使える生き物である

魔法というものを

  • 呪文を唱えるほかに何もしないで、自分の希望を実現する方法

と定義するのなら、僕は魔法が使えるのですにゃ。
無論、呪文は正しい呪文でなければならず、正しい呪文を唱えられるようになるためにはそれなりの修業が必要ですにゃ。また、呪文を唱える際の心のもちようとか、普段の心がけなども魔法の成否に深くかかわってきますにゃー。また、魔法が成功するためには、他にもいくつかの条件がありますにゃ。それに、そもそも魔法でできることもたいしたことでもにゃーし。
しかし
僕の使う魔法は、科学者・懐疑論者・奇術師などの監視のもとにおいても、充分に実証的な効果をあげうるものであることは紛れもにゃー事実ですにゃ。
どうやら今日のこのエントリで僕も「はてな市民」とかになることだし、ここは出血大サービスで、読者のみにゃさまに僕の魔法の呪文と、成功させるためのコツをご披露いたしますにゃ。


例えば、のどの渇きを覚えてお茶が飲みたくなったとする。この場合の呪文は、生活をともにする僕の相棒にむかって
「のどが渇いたのでお茶を淹れてくれませんかにゃ」
この呪文に加えて
「チミの淹れるお茶は本当においしいにゃー」
と呪文を付け加えると、成功確率があがりますにゃ。僕はこの呪文を正確に唱えられるようになるために、十年以上も日本語の修業をしましたにゃ。声のトーンにあらわれるその時の精神状態や日ごろの心がけも、魔法が成功するためには重要にゃんな。
この魔法のいいところは、誰も気分を害することがにゃー点だ。ちゅうか、気分を害さずに呪文を唱えることこそ成功のコツにゃんな。
そう、もちろん僕だけでなく、ニンゲンという生き物は魔法が使える生き物なのですにゃ。


と、このあたりまでのことは僕が考えたことでなく、
岩波書店「貨幣の地域史---中世から近世へ」鈴木公雄編という論文集の第七論文「無縁・呪縛・貨幣」安冨歩 P289〜
で紹介されている、哲学者ハーバート・フィンガレットが孔子について論じている文章での議論ですにゃ*1
この論文において、魔法の別の例も述べられていますにゃ。


私が大学で歩いていると、向こうから学生がやってくる。向こうも私に気がつく。私が笑顔で頭を下げると、学生も一緒に頭を下げて、そのまま無言で通り過ぎる。このとき私は、適切なタイミングで適切な頭を下げるしぐさをすることで、なんらの強制力を使うことなく、学生の頭を下げさせることに成功している。しかも私の側に何かを強制した気分は残っておらず、学生の側にも何かを強制されたという気分は残っていない。


中略


フィンガレットは「論語」を読み解きつつ、人間の行為は本質的にこの魔法の要素を含んでいる、という主張を展開する。人間は神聖な儀礼を行う祭器のような存在であって、この神聖性を喪失すれば、人間は人間でなくなってしまう。フィンガレットは、そこに孔子の思想の先鋭性を見る。


実際、人間の行為における神聖性あるいは神秘性は、疑いようがない。それはさきほどの私と学生との挨拶の例を見れば十分である。日本人のお辞儀という挨拶のやり方を言葉で正確に書き下すことは不可能である。どのタイミングで、どの角度で、どういう風に頭を下げたら良いかが極めて難しいからである。


(挨拶のやり方が一義的に決まっておらず、状況に依存することが述べられる;引用者注)


こういう複雑で微妙な操作を、さまざまのレベルで動員してようやく、お辞儀が完成する。この複雑さは記述可能な範囲を超えており、プログラムとして書き下すことはできない。この精妙な操作に神聖性や神秘性を認めるのは道理に適っている。人間はこのような魔法を駆使して自分の望みを実現する生き物なのである。この神秘性は、論理ではなく、ダイナミクスに宿っている。

このあたりの記述については、人工知能とかフレーム問題とか認知系の諸学問がいろいろと絡むことだろうし、将来にわたってもプログラム化ができにゃーことかどうかは僕にはわからにゃー。
しかし、少なくとも自然言語における完璧な記述が不可能であることは僕にもわかるし、極めて精妙な操作がなされていることに異論はにゃー。そして、このような「魔法」とでもいうべき精妙な操作なくしては、ニンゲンは生きることができにゃーことにも異論はにゃーのだ。


うちの三歳児は、気にくわにゃーことがあると「ぎゃーっ!」と叫ぶことがまだ多いにゃ。そういう叫びを聞くと、僕も僕の相棒も「おサルさんじゃないんだから、お話してください。言うことを聞いてほしかったら、ちゃんとお話しなければいけません」とさとしますにゃ。そしてTPOをわきまえて「・・・・してください」とちゃんと言えたら、誉めた上にその希望を叶えることにしていますにゃ。どこでもやっていることだよにゃ。

これってさ、希望を叶えたかったら呪文(=言葉)を正しく唱えろ、と教えていることなわけにゃんね。そして、呪文を正しく使えれば、希望が叶えられること、自らの生存にとってこの魔法は必要不可欠であることをガキは理解していく。
言葉を操ることに習熟し社会化されていく過程とは、魔法の習熟そのものといえるでしょうにゃ。僕たちはみな、魔法の圧倒的な成功体験を基盤に社会化されていくのですにゃ。多分このことは、時代や地域を問わず、人類に普遍的といえるのではにゃーだろうか?


さて、ここでフィンガレットのいう魔法についてちょっとまとめてみるにゃ

  • 魔法においては言葉あるいは行為による働きかけによって希望をかなえる
  • 魔法においては操作主体の「心のありよう」がその成否に影響を与える

おお、にゃんとも見事に疑似科学の核心にある信念ではにゃーか!
例えば典型的な疑似科学である「水からの伝言」を考えてみればいいにゃ。心のありようが言葉によって表され、それによって「水」を操作して「きれいな結晶」を得ることができる! うむ、フィンガレットのいう魔法の典型だにゃ。


疑似科学スピリチュアリズム、超能力、霊の世界などを信じるのは、頭が悪いんじゃないか? 現代科学の圧倒的な成功に対して、ああいう時代遅れのオカルトはまるで成功してないじゃないか、成功のデータが見当たらないじゃないか。オカルト信者はまったく非合理的で、経験を重視していない」
などという意見は、合理主義者や懐疑論者と自称したがる者*2がオカルト信者に対するときの感想として典型的なものの1つだと思いますにゃ。
しかし
実のところ、僕たちひとりひとりの心の奥底に刻みつけられているのは、フィンガレットのいう魔法(僕は呪術思考とよぶ)の圧倒的な成功体験であり、魔法なくば生存すらかなわにゃーことの自覚なのではにゃーだろうか? ニンゲンならばみんな肝に銘じて知っているんだにゃ。魔法は実在し、魔法なしでは生きていけにゃーのだと。
魔法や呪術思考のこの圧倒的な成功に比べ、自然科学の成功などは屁のようなものだろにゃ。実際に、自然科学なんてなくても、人類は何万年も生きてきたにゃ。魔法や呪術がなければ、ニンゲンなんざとっくに滅んでるんでにゃーのか?


ちゅうわけで、中二病っぽくしめくくりますにゃ。
その成功体験の強烈さにおいて
魔法・呪術>>>>>(越えられない壁)>>>>>自然科学

貨幣の地域史―中世から近世へ

貨幣の地域史―中世から近世へ

*1:なぜ貨幣に関する論文で、孔子だの魔法だのという話がでてくるかについては、多分おいおいとネタにする

*2:Chromeplated RatからのTBの指摘により「と自称したがる者」という部分を追記