自分の手を汚せ
昨日の続きをあげようかと思っていたけど予定変更。
例の光市事件差し戻し判決についてネットでぶらぶらしていたら、いろいろと頭にきたにゃ。きっかけはamakiblog.com - このウェブサイトは販売用です! - 政治活動 リソースおよび情報。以前の選挙でいろいろ考えた末に9条ネットに投票したことがあるのは痛恨にゃんな。
ここから引用すると
「きっこの日記」や、「世に倦む日々」を書いているブロガーの意見は、私の意見そのものだ。
9.11陰謀説とか - good2ndでは天木氏が9.11陰謀論にはまっていることについて
社会的な影響はまだごく限られているとは思いますが。けどこういうのにハマってる人って、アメリカ政府に批判的な人たち、他の面では非常にリベラルであったりする人達とかなので、ちょっと気になりますよ。あれじゃホントに「お花畑」だもんね…。なんかイヤだなあ。
といっているけれども、本当に「「きっこの日記」や、「世に倦む日日」を書いているブロガーの意見」が天木氏の意見そのものなのであれば、天木氏はリベラルどころかただの「お花畑」そのものだろにゃ。
まず、「きっこの日記」と「世に倦む日々」に共通する弁護団バッシングについては、その意味不明ぶりを僕がいちいち言うまでもにゃー。ブログもたくさん書かれているにゃ。例えば、妄想日記などを見てもらえばいいだろ。
次に、「きっこの日記」については命でしか償えないこと: きっこのブログの内容のむごさからしても、僕としては今のところはまとめサイト「きっこの日記」まとめサイト - PAXnMyNEeqFvEGdにとりあえずの信を置いていますにゃ。事実判断として僕が間違っていたら、もちろんすぐに訂正して謝罪いたしますにゃ。
で
ここで取り上げるのは「世に倦む日日」のthessalonike4氏のデタラメぶりだにゃ。
thessalonike4氏は、何度も何度も凶悪犯罪が日本で増えているかのようなことをいいますにゃ。例えば厳罰化の流れは必然だ - 道徳教育で日本の社会が変わるまで : 世に倦む日日
凶悪犯罪はどうしてこれほど日本の社会で増えたのか。無論、経済不況で人心が荒廃したことも一因ではある。しかし、一言で言えば人間が変わったからである。日本人が変わったのだ。簡単に人を殺せる人間ばかりが増えた。冷酷で残忍な心を持った人間が増え、人を傷つける衝動を理性で抑制できなくなった。それは教育に原因がある。例えば教室でのいじめ自殺、これは集団による殺人行為だが、80年代の初めからこの国で頻繁に起きるようになり、現在では珍しい問題ではなくなり、人の心にすっかり免疫ができてしまった。日本人が変わっている。変わったから司法判断を変えなくてはいけなくなった。最高裁が光市母子殺害事件で死刑の適用基準を転換したのには意味がある。
ところが、「凶悪犯罪が日本の社会で増えた」というのがそもそもウソ。人前でものをしゃべるのなら、まず事前に調べものくらいしろよ(凶悪犯罪、特に殺人は増えていないことを明白に示す資料を追加しますにゃ。http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/anzen/hanzai-zenkoku.html。4月25日10:03追記)
いや、意識的にウソぶっこいているのかもしれにゃーけどな。
法務省を見て、どのクチで「凶悪犯罪が増えた」と言えるのか知りたいものですにゃ。
さらにいえば
教育問題と絡めて犯罪の増加を憂えてみせる氏のポーズからすると、少年犯罪が増えていなければならにゃーはずだ。ところが少年犯罪統計データを見れば一目瞭然で、ガキの犯罪も減少しているにゃ。特に、少年犯罪データベース 少年によるレイプ統計や少年犯罪データベース 少年による殺人統計といった凶悪犯罪における統計において、ガキのそれが増えているという事実はにゃー。
凶悪犯罪が増えているという主張が事実無根で、教育問題と絡めるにしても少年の凶悪犯罪発生率が極めて低いまま推移しているということからして、少なくともこの問題に関して
- 「世に倦む日日」のthessalonike4氏は性質の悪いウソツキ
と断言してよいでしょうにゃ。
thessalonike4氏は道徳教育を強化して、刑法においては厳罰化して、凶悪犯罪が増えた日本をなんとかしたいらしいけど、そもそもの事実認識がまるでデタラメなのでお話にならにゃー。ウソを垂れ流すことをなんとも思ってにゃーのだろうか?
他にもやたらに統制主義的なことを言っているんだけど、当の自分がウソツキじゃあねえ・・・・
しかしまあ、こういう実証的な話はまあいいや。
僕はもっとちがう部分でこの辺の連中が気にくわにゃー。
そう、「気にくわない」という話なのだにゃ。
例えば「きっこのブログ」でこの判決を論じたエントリのタイトルは「命でしか償えないこと」だにゃ。
にゃるほど、命は命でしか償えにゃーし、血を洗えるのは血だけだろ。僕は認める。
で、おまえら、そのセリフをどこから言っているんだ? パーフェクト安全圏で血の復讐の思想を語ってんの?
たとえ相手がブタのような奴であれ、ヒト1人の命を奪うことを望むのなら、自分の手を汚す覚悟をしろよ。
このゲロのでそうな強姦魔の幼児殺人者を殺すのはいいとして、殺す主体は誰だ?
公権力なの? 国民ひとりひとりなの? 刑務官なの?
刑務官ってのは、そもそも教育者にゃんぜ。犯罪者の更生を担当することを望んで職についたものに殺しをやらせるのかい? 僕には拷問にしか思えにゃーね。
国民ひとりひとりといわれても、僕は殺したくにゃーんだけどな。どんなブタ野郎だとしても、自分の手を汚すような強い情動は持てにゃーね。自分か家族の命がかからないかぎり、僕は誰も殺さにゃー。
公権力が、「国民ひとりひとりの代理としてではなく」、個人の生命を奪うことを認めるのかい? 親方日の丸などというチンケなものが、命のやり取りという場に介入していいんか?
飛躍を承知で言わせてもらうけど、公権力による死刑というシステムを受け入れるものは、結局のところ戦争という死のシステムを受け入れるのではにゃーのか?
公権力によって自らの復讐感情を満たしてもらおうとする奴隷根性は、命令一下で唯唯諾々と他人の命を奪いに出かけるのではにゃーのか?
「世に倦む日日」にしろ「きっこのブログ」にしろ、この手の輩は普段は威勢のいいことを言っていても、つまるところ自分の死を国家に委ねちゃっているんだにゃ。だからどこかで自らの生も国家に差し出すのだろうにゃ。
デタラメを平気で垂れ流すこととは別の意味で、絶対に信用できにゃー*1。
ヨーロッパ諸国が死刑制度を放棄し、メリケンや日本や中国が死刑制度を維持しているのは明示的なことではにゃーだろうか。戦争と死刑制度は、国家が死を独占的にかつシステマティックに取り扱うことの象徴だにゃ。国家が自らの呪術的神聖性を放棄したとき、死刑制度を放棄するのだと僕は思う。
そして、僕たちが国家に呪術的神聖性を求めなくなったとき、死刑制度を求めなくなるのだろうにゃ。そのときには、また別の殺しのルールが確立されるのかもしれにゃーが。
自らの感情を他者に委ねるのは最悪の意味での奴隷だにゃ。感情を委ねるものは他者に呪縛されている。
ましてや、復讐は根源的な感情であるというのに。