てんかん患者運転問題に思う科学性と公正さ

宿題をやらなきゃならにゃーのだが、さきにこちらを。


承前

および、上記記事へのはてぶ


このあたりの議論において、てんかん患者への自動車運転免許取得を一律に禁ずる対策には根拠がなく、社会的な公正性を考慮しない愚策であることを簡単に論証しますにゃ。

定量的議論の欠如

リスクは定量化されなければ議論をすることはできにゃー。定量化すればそれで十分というわけではにゃーのだが*1定量化は議論の前提として必須ですにゃ。
特に、特定の疾病を持つ集団の自由を制限しようというのだから、制限を主張する側が定量的な根拠をだし、社会的な公正さを考慮する必要があるのは絶対的に必要な話ですにゃ。


ところが
ブコメを見るに、「てんかん患者を車に乗せるな」という立場のお方で、定量的な議論をしているヒトが見当たらにゃー。

  • 「危険だから乗せるな」

しかし、
急に意識を失うとか、運転不能な状態になってしまう疾病はてんかんに限ったことではにゃー。僕のような医学のシロウトが思いつくだけでも、高血圧症から派生する脳梗塞脳卒中ならびに心筋梗塞、糖尿病などが母数の大きなものとしてはあり、そもそも疾病ですらにゃーが老化も大きなリスク要因ですにゃ。
これらと事故発生率などを定量的に比較したうえで、なおかつてんかん患者の事故が有意に高くなっているかどうかの議論は必須なんでにゃーの?

公正性の欠如

他の疾病との比較だけではまるで不十分ですにゃ。
比較対象として、重大な自動車事故を過去に起こした、あるいは運転するのに不適格と考えられるようなこと、例えば 飲酒運転や過度のスピード違反などの危険運転行為、あるいは救護義務・危険防止措置義務などを怠るような行為を過去にした悪質なドライバーを考えてみますにゃ。もちろん、それらの行為をすれば運転免許は取消をくらいますにゃ。
しかし

  • 最長5年の欠格期間を経れば、危険運転で他人を殺していても運転免許の再取得は可能

id:nekora
普通自動車運転免許とは、時速100kmで街中を動き回る1t超の鉄塊を連続数時間に渡り充分コントロールできる身体機能と技能を有する事を特に認められた者にだけ与えられる特殊資格。身分証明書では無い。


http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/thir/20120415/p1


上記コメントにはスターが48もついてますにゃ。コメントの内容は一面の事実であることに異存はにゃーのだが、その一方で、酒のんでヒトを何人轢き殺して交通刑務所から出てきても、また運転免許って交付されるものなんですにゃー。


特定の疾患【だけ】に【予防的】に運転免許の制限を求め、実際に危険運転や深刻な事故をおこした健常者は欠格期間をおけば運転免許を取り放題、っておかしくにゃーかな?
また
先ほどの定量性の議論とも関わるけど、危険運転を過去に行った運転者が深刻な事故を起こすリスクというのは、相当に高いと予想されますにゃ。

中間まとめ

というわけで、てんかん患者の自動車運転を一律に認めるべきではない、という立場のお歴々の議論は

  • 他の疾患などとの定量的なリスク比較がされていない
  • 健常者は欠格期間さえおけば、悪質な運転者でも免許がとれることと比べて不公正

これでは、他者の権利を制限するには話にならにゃーほどお粗末なんでにゃーの?
定量性(つまり事実)をきちんと考慮せず、公正性(つまり社会規範)もぶっとばして、「やつらに運転をさせるな」と権利制限を求めるのが差別でなかったら何なんでしょうにゃ。

運転免許の必要性

冒頭にリンクしたThirの議論では、運転免許の重要性を説いた記事ですにゃ。これに対して

  • いや、別に俺は運転免許がなくてもちゃんと生活できてるよ

という趣旨のコメントがつけられていますにゃー。複数あるのでリンクはしにゃー。


「俺は私はダイジョブだった」
という言明にいったいどーゆー意味があると思っているのかよくわかんにゃーんだな。
ワタミのシャチョさんが、佐川急便ドライバーで寝る間も惜しんで働いて開業資金をためて、「俺はこういう働き方をしてダイジョブだった。」などとのたまうのを連想してしまいますにゃー。
数字を出して議論してほしいにゃー。


例えば、広島県ハローワーク求人で調べてみると*2
ハローワークインターネットサービスで「一般フルタイム、広島県」で検索すると結果11038件。「普通自動車免許」を追加して検索すると3309件、大型一種281件、大型二種26件、普通二種120件があり、ちょっとガテン系のクレーンなどの要資格の求人は玉掛67件、クレーン類56件などざっと150件以上。普通免許も駄目となると、他にも制限されるべき資格は多くなると思われますにゃ。
自動車運転が駄目となると、どうみても3分の1以上の仕事に就労ができにゃーですね。地方の場合は、通勤に自動車が事実上必要なところも多いことは考慮しなければならにゃー。


運転手はもちろんとして、営業職とか、ある程度危険な工場勤務なんかも駄目ということになっちまいますにゃー。ワーキングクラスにはそーとーキツイにゃー。暮らしが成り立たん事例もでてくるでしょうにゃ。

  • 居住地域、職種などによっては、運転免許制限で就労ができなくなる可能性がある


「僕は免許なくてもダイジョブ」とか言う前に、これくらいのことは考えてほしいものですにゃー。


先ほど、危険運転で他人を轢き殺しても欠格期間を経れば免許がとれるという制度的な事実に触れましたにゃ。これは、居住地域や職種によっては運転免許が生活のために必須ということにも関わっていると僕は思うのですにゃ。加害者にも家族がおり生活があり、それを破壊してはならにゃーでしょう。
まあ、危険運転についての罰則が甘いという話はあるかもしれにゃーが。

疑似科学の臭い

てんかん患者も個々の病態は様々であり、どうみても運転はまずいだろうという病態もあれば、過去の病歴はあってもほとんど問題ないとかんがえられる病態もあるでしょうにゃ。
そもそも、「健常者」であっても運転は絶対ダイジョウブということはにゃーわけだ。僕は本日免許更新をしてきてゴールド免許2度目の更新だけど、「まあ多分ダイジョウブ」で自動車を運転してますしにゃ。
危険と「まあ多分ダイジョウブ」との間に明確な「線引き」はできなくとも、明らかに真っ黒に危ない事例と、「まあ多分ダイジョウブ」と判断できる事例の区別はできるものですにゃ。


これは、疑似科学批判界隈ではおなじみの論法でしてにゃ。定量的な議論を拒否して、明確な線引きを求めたり、あるいはゼロリスクを求めるってのは実に疑似科学っぽい臭いがプンプンなのよ。
特に、先ほど述べたように他のリスクとの比較をせずに、てんかん患者だけにゼロリスクを求める、つまり【選択的】にゼロリスクを求めるというのは、差別であると同時に疑似科学でもあるのではにゃーだろうか?

おわりに

まとめると
てんかん患者だけに一律運転免許を制限せよという議論は、

  • 特定の患者集団の権利制限という重大な問題であるにもかかわらず、定量的な議論がなく、危険運転をしても免許取得できることと比べて公正性がなく、さらに運転免許のもつ社会的な意味を考慮していない暴論である。さらに選択的にリスク・コスト負担を求めるという意味では、疑似科学的であり差別でもある。


以上の議論に対して
「車社会・自動車文明の存続を前提とした議論で駄目だ。」
という反論もあると思いますにゃー。


長期的には自動車文明はやめたほうがいいという意見には僕も賛成。【脱・車社会】大いに結構。
しかし、それにはそれなりにカネも手間も時間もかかりますにゃ。例えば地方の公共交通網を再整備してつかいものになるようにしなければならにゃーが、これひとつとってもどれだけのカネと手間がかかるか・・・


脱・車社会に向かって進むとこの社会が決意したとして、その目的を達成するために特定の社会集団(ここでは、てんかん患者という特定の患者集団)にリスクやコストを押し付けるのは許される話ではにゃー。


てんかん患者は、車社会の矛盾のスケープゴートにされているのではにゃーだろうか?
社会を変革するにしても保守するにしても、特定の集団を犠牲にしてはならにゃー。

*1:例えば、低線量被曝関連での「正しく怖がれ」は問題を定量性に還元しているように思える

*2:ツイッターでの議論でたまたま広島県の数値がでてきたのでこれを出すというだけ。地方のモデルとしてはそんなに悪くないと思うので