差別落書への対応について


承前


id:y_arimが渋谷駅での「視覚的ヘイトスピーチ」を塗りつぶした行為に対して、id:Thscが程度のひくいいちゃもんをつけましたにゃー。これがいかに程度が低くかつ矮小なものであるかを確認しつつ、差別落書への対処を考えてみますにゃー。

まるで的ハズレであることの確認


件の張り紙を「晒す」ことで得をしたのは誰で、損をしたのは誰か。
得をしたのは、まず、自分(たち?)の目論んだ方法よりはるかに広くメッセージを拡散してもらえた差別セクト。そして、「差別を許さない!」と自らの善性をアピールする機会を得た反差別セクトである。
一方損をしたのは、本来なら読まずに済んだ敵対的なメッセージを、ご丁寧に意訳付きで突き刺された中国・朝鮮(・韓国)人である。


http://d.hatena.ne.jp/Thsc/20110811


これがそもそもまったく駄目。
差別セクトと反差別セクトの結託を指摘し、本当の被害者である中国・朝鮮(・韓国)人の味方であると高らかに宣言したはずなのに、ブクマコメで当の在日や中国系の方にきついダメ出しをくらっておりますにゃー。

id:cyunchol
在日韓国人として言われせてもらえれば、「決然と無視」されて放置された方が、はるかに損。社会が差別を差別としてきちんと排除する姿勢を示すことは有益。解決する気もないくせに馬鹿言ってんじゃねぇって感じ。


id:sillyfish 差別, これはひどい
もともとこの「メッセージ」をいかなる意味でも向けられていないあなたなら、いくらでも「決然と無視」できるだろうよ。端からあなたには「無効」だからね。戯言けるな


http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/Thsc/20110811/p1


他にも当事者ほかからブクマコメでいろいろ適切にも批判されているわけにゃんが、批判に対して「悪意で歪曲」だの「はてサにとって反差別がファッション」だのと、わめきちらすってのはどうしようもにゃー。

  • 「これは差別セクトと反差別セクトの結託。損をしたのは中国・朝鮮(・韓国)人」

         ↓

  • 当の中国・朝鮮(・韓国)人からキツイ駄目だし

         ↓

  • 「はてサが悪意で歪曲した。はてサは反差別がファッション」


という、醜悪を絵に描いたがごとき流れるような豚言動を御開陳なさってますにゃー。
うっわー。
これだけで、id:Thscがなんのために、誰を利用して、この駄文を書いたのかはダダ漏れ。言っていることにハナも引っ掛ける必要がにゃーのは明らかにゃんね。ほとんどネット産業廃棄物なみの文章にゃんが、反面教師としてリサイクルを試みますにゃー。


差別落書はただの落書きではない


差別落書という言葉がある。
これに対し「差別犯罪たるべきものを落書きなどと軽い言葉で呼ぶのはけしからん」という議論もしばしば聞かれる。
が、的外れである。
差別落書は「落書き」でなければならない。
なぜか。
差別「落書き」を行った犯人は、内容が伝わることを期待しているからだ。
それを「落書き」と扱うことで、取り合うべき内容もないと烙印を押し、メッセージを無効化できる。これが犯人にとってはいちばん嫌なのだ。だから、差別「落書き」はただ何の意味もない「落書き」として管理者の手で撤去・消去されるべきなのだ。


http://d.hatena.ne.jp/Thsc/20110811


はい、駄目。
差別落書への対応は、単なる落書きへの対応と同じにしてはならにゃーんだ。

  • www.pref.tottori.lg.jp/secure/224574/02差別落書対応要領.pdf ※PDF注意

他にも地方自治体の差別落書対応マニュアルはネットで見られるけど、だいたい同じようなものですにゃ。
即ち

  • 事実確認⇒記録⇒現場処理・関係諸機関への報告⇒分析・対応

などは差別落書の対応としては必須にゃんね。


「差別「落書き」はただ何の意味もない「落書き」として管理者の手で撤去・消去され」てしまうと、記録も関係諸機関への報告も分析・対応もなされにゃーだろ? これらのことをちゃんとしなければ、差別落書なんてやり放題ではにゃーか。

記録の重要性

特に、差別落書を記録し、しかるべき機関にそれらの記録を集積しておくことは重要であると考えますにゃ。
なぜか?

  • 差別主義者は、都合の悪いことを【なかったこと】にするのが大好きだから


だいたい、歴史修正主義ってのも、都合の悪いことを【なかったこと】にする下衆な欲求のままに事実をねじ曲げた結果にゃんからねえ。事実の記録と集積なしには、声のでかいだけの恥知らずどもが大手をふるだけに終始するでしょうにゃ。
つまり、差別落書が「ただ何の意味もない「落書き」として管理者の手で撤去・消去され」るべきというのは、差別主義者をアシストすることにしかならにゃーわけ。恥知らずのウソツキの味方にゃんな。


そして、集積された記録(ある意味ではデータ)は分析や対応の役に立つわけにゃんね。特に、教育というのは差別落書への対応の核となるものでしょうにゃー。

反差別教育の有効性

反差別教育(=人権教育)については、その有効性を疑問視するどころか、かえって有害なんじゃねえのという意見があるようですにゃ。
しかし、


人権教育について市民意識調査を実施すると、自由記述欄によくこのような内容のことが書かれてきます。

「小中の同和教育で、初めて被差別部落について知った。同和教育があったから、被差別部落の存在も知ったし、差別される存在であるということも知っ た。それによって、自分との違いを意識するようになってしまった。いわば、同和教育によって、私の中に、ある種の差別感が芽生えていってしまった。同和教 育なんかないほうがいい」


 授業で人権教育について言及したときも、かなりの学生がミニッツペーパーにこういう趣旨の感想を書いてきますね。


 しかし、この意見はナンセンスです。なぜならば、「学校の同和教育によって被差別部落について初めて知った人」は、「近隣や親、友人、知人、先輩 などからインフォーマルな形で部落についての情報を初めて聞いた人」に比べて、被差別部落への差別的態度が明らかに弱い、ということが各種の調査からわ かっているからです。


 たとえて言えば、同和教育は生ワクチンのようなもの。受けることによって、自覚しない程度の軽い偏見に感染してしまう。けれども、そのおかげでひ どい差別意識を発症せずにすむわけです。だから、人権教育を《やるべきかどうか》という次元では、答えは明らかで、やるべきなのです。


人権教育の問題点 - Whoso is not expressly included


金明秀が「「学校の同和教育によって被差別部落について初めて知った人」は、「近隣や親、友人、知人、先輩 などからインフォーマルな形で部落についての情報を初めて聞いた人」に比べて、被差別部落への差別的態度が明らかに弱い、ということが各種の調査からわかっている」と断言しているんだから、これはちゃんと根拠のある話のはずですにゃ。


そして、これらの「 被差別部落への差別的態度が明らかに弱い」という状況へ導く人権教育の中身というのは、被差別部落の歴史と差別の実態がどのようなものであったか、そしてそれらは決して許されないものであるという明確なメッセージにゃんね。

  • それらは許されないというメッセージとともに、差別の実態を伝える反差別教育(=人権教育)は有効である

差別的メッセージを否定的に【上書き】が可能

実際に、部落解放同盟の主催する展示などで、記録済みのひどい差別落書が写真やテキストとともに公開展示されておりますにゃ。id:Thscの理屈では、これでは被差別部落民が損をすることになるはずにゃんねえ。


差別「落書き」を行った犯人は、内容が伝わることを期待しているからだ。

このカス理屈がThscの主張の主要要素にゃんが、彼の理屈が正しいのなら、部落解放同盟が部落差別主義者と結託していることになりますにゃー。
アホくさ。


部落解放同盟が差別落書などの記録を公開展示しているのは、先ほど述べた反差別教育、つまり「 それらは許されないというメッセージとともに、差別の実態を伝える反差別教育」の実践の一形態なのですにゃ。
しかるべき文脈に置けば、卑劣な差別落書もその持つ意味を転換することになるわけにゃんね。


「 差別「落書き」を行った犯人は、内容が伝わることを期待しているからだ。」などと抜かすThscのような馬鹿も現実にいるけど、善意に解釈しても差別的な言動についてまともに考えたことがまったくにゃーんだろ。差別落書にしろ、ネットへの差別的な書き込みにしろ、

  • 差別的言動を行う者が期待しているのは【自分たちのしている差別は正しい】という内容が伝わること

なのですにゃー。
少なくとも、差別的言動をしても誰にも反論されにゃーという状況。何の騒ぎにもならにゃーという状況は、差別言動をする者にとっては「自分たちの言っていることは正しい。この社会に受け容れられている」ということの確認にゃんね。
「これこれこういう差別的言動がありましたが、本当に差別発言をする奴は卑劣でどうしようもないですね」
という差別発言を否定的に上書きするメッセージの拡散こそ、ああいう馬鹿どもの嫌がることなのだにゃ。差別発言といえども、どういう文脈に乗せるかによってそれは反差別のメッセージになりえるという、ごくごくアタリマエもいいところの話ですにゃ。
文脈による意味の転換という基本的なことがわからにゃー輩は、字が読めにゃーのとほぼ同じだと思いますにゃ。で、こういう文盲が攻撃的ってのは救いがにゃーよな。

差別落書はなぜ速やかに隠されるべきなのか?

差別落書への対処マニュアルにおいて、差別落書をすみやかに人目にふれにゃーようにするのは重要ですにゃ。なぜなら、落書というのは「こういう落書をするのは卑劣であり許されない」というメッセージとともにそのままにしておくのが極めて困難だからですにゃー。
差別落書をそのまま放置することは、「こういう落書をすることは許される」というメッセージにしかならにゃーですね。差別落書の周囲に「こういうことをしてはいけない」などとさらに落書するわけにはいかにゃーからね。


言ってみれば、ここに【落書というメディアの特異性】があるといえるのではにゃーでしょうか?
落書にはこういう特異性があるので、差別落書は速やかに人目から隠されなければならにゃーわけだ。


しかし、差別落書を含む差別的言動を言論で取り上げることはこの限りではにゃーよね。なぜなら、言論においては「差別を否定的に上書きする」ことが可能だからですにゃ。
もちろん、差別を否定的に上書きするってのはなかなかにムツカシイことではあるので、それなりに気をつけてやる必要はありますにゃ。

今回のありむーの行動にゃんが、はてブでの反応も含めて「差別を否定的に上書きする」ことに、少なくとも失敗はしてにゃーと僕は判断していますにゃー。むしろ、ありむーのキャラもあいまって、この事例についてはそこそこ成功してるんでにゃーの? まあ、ネットでこういう行動をすることには危うさもあるし、異論もあるかもしれにゃーが、僕は支持する。

差別落書への対処

差別落書については、被差別部落関連で多くの事例があり、部落差別落書については西日本を中心にそれなりの対応が公的になされるようになっておりますにゃ


しかし、東日本で、しかも外国人差別の落書という事態に対し、「確認・記録・報告・分析・対応」というマニュアルはまだまだ徹底されてにゃーように思えますにゃー。JRにしても、差別落書にそういう対応をしてくれるとは思えにゃー。
まあ、各都道府県の人権センターでは外国人差別落書へも対応してくれるようではありますにゃ。ありむーもまずそのあたりの機関に申し入れるのが本筋ではあったのかもしれませんにゃ。
僕も差別落書をみたらその手の機関にまず通報するつもり。で、どういう動きをしてくれるかを確認するってところかにゃー?


とはいえ、差別落書を含む差別的言動を、ネットで否定的に上書きして拡散する、という手法を僕は否定できにゃーんだな。落書については特異性があるとはいえ、言論の俎上にのせた上で否定的に上書きってのはアリだと考えますにゃ。
なるべく言論でやるべきだと思っているし、言論の自由を支持する身としては、こうでにゃーと整合性がとれませんにゃー。
ま、いまの状況を考えると言論でやっていられる余裕があるか、という話もなくはにゃーのだが。

おまけ ヘイトスピーチとは暴力のこと

Thscのタワゴトについて、主なところは潰しましたにゃ。その上、細かいところまで突っ込んでいたらいくらでも突っ込む箇所があってやってられにゃー。とはいえ、どうしても見逃せにゃーところをひとつだけ突っ込んでおきましょうかにゃ。


さて、ここまで執拗に「ヘイトスピーチ」と鍵カッコに括ってきたのは「ヘイトスピーチ」なる語を認めないからである。
ヘイトスピーチ」なる語は、相手を絶対悪とする完全な決め付けを行うためだけに用意された語だ。自分の思いのままに相手を一方的に糾弾するやり方を正当化するための術語であり、非常に悪質なレッテルである。
裁けば差別は消えてなくなるのか?なくなるわけがない。第二第三の差別が無限に引きも切らず現れる。差別との戦いは殲滅戦ではない。撃破して も弥縫策でしかない。対立する者の主張をまずもって把握し、しかるのち軋轢を解体し、差別の根源から解消していかねばならない。相手を差別主義者と断ずる にせよ、差別主義者として生まれついたわけではない者の、差別主義以前の心情の表明をも読まねば解決はない。
ヘイトスピーチ」なる語は、そんな理想を捨てたことを意味する。対立者の訴えの全てを一顧だにする価値無きものと切り捨て、自らの立場を絶 対とし、問答無用で圧し潰す横暴極まりない処断主義に堕したことを意味する。極めて浅く一面的だ。正義を掲げて敵を排撃するという心地良い一面に傾倒する 者はナチスでありポルポトである。


http://d.hatena.ne.jp/Thsc/20110811

あのな>馬鹿
「一顧だにする価値無き」ものってのはあるんだよ>馬鹿
大人が大勢で小学生のところにでかけて「ゴキブリは出ていけ」とわめきちらすことのどこに「一顧だにする価値」があるんだ?
この手の連中の心情をいちいち考慮しなきゃならにゃーのか?
大切なのは被害者の心情なのではにゃーのか?
必要なことは、まず連中を黙らせることだ。
子供のところに押しかけてゴキブリ呼ばわりするような連中を、「問答無用で圧し潰し」黙らせることが、最低限必要なんだにゃ。
まず暴力をやめさせる。
暴力をやめたら、その心情でもなんでも考慮してやる、というのが順序というものだにゃ。


以上。
Thscは差別についてまともに考えたことはまったくにゃーと断じる。
何も考えてにゃーカスがタワゴトをいったので、少しでもものを考えたヒトタチが批判したら、「はてサがー」「反差別セクトがー」と、これまた的ハズレでな泣き言をたれ流しているだけ。具体的・論理的な反論がまったくできにゃーので、属人的・党派的に誤魔化すだけ、醜悪で矮小なカス。
ここで挙げた以下の論点にまともな反論はできにゃーことも予言しておく。たぶん「反差別セクトがー」「はてサがー」くらいしかいえにゃーだろ。

  • 在日や中国人から駄目だしくらってもそこはシカトではてサのせい
  • 差別的言動を否定的に上書きできることを考慮していない
  • 一顧だに値しない言動はある