僕たちの思うようにならないモノ


前回エントリの補足やらなにやら

科学と宗教の機能的相同性

現代に生きる僕たちは、科学というものを総体として「信じる」のが多数派ではにゃーかと思いますにゃ。個々の科学者は確かに名誉欲や権力欲、金銭欲に駆られた存在かもしれにゃーが、客観的なる自然というものは厳として存在し、その自然を追求するほぼ唯一の方法が科学なのだから、科学を「信じる」しかにゃーわけだ。
代替医療ニセ科学を信じ込んで現代科学を否定するヒトタチは確かにいるけれど、彼らが現代科学を否定しているのは陰謀やら権力が科学に介在していると思いこんでいるからであって、実は科学そのものを否定しているわけではにゃー。むしろ彼らは科学が大好きといっていい。


僕たちの思うようにならにゃー自然というものは確かに存在し、それを探求するのが科学ですにゃ。僕たちニンゲンの思い通りにならにゃーものはある。自然の前で僕たちニンゲンはあまりにも矮小であるといえますにゃ。言い換えれば、僕たちニンゲンにとって思い通りにならにゃー絶対的な他者として、僕たちニンゲンが放り込まれた現実として、あるいは僕たちニンゲンがよって立つ足場として、「自然」があり、その自然からの【啓示】として科学があるわけにゃんね。


さてここで

  • 神がいる

と仮定してみますにゃ。
「神なんていない」とはなっから思いこんでいる現代人は、宗教的な言説のことを、「どうせ支配者や宗教指導者に都合の良いことをいっているだけ」という思いこみもしていますにゃ。
しかし
脳内で真面目にシミュレートしてみるとただちに明らかになることは、神はニンゲンなんぞの好き勝手にできる存在ではにゃーということですにゃ。神の前で僕たちは矮小な存在であり、僕たちの勝手な都合など神の知ったことではにゃーよな。


神の存在が措定されている社会において、聖職者は僕たちの社会における科学者のような存在でしょうにゃ。個々人は信用に値しにゃーかもしれにゃーが、客観的に神は存在しているという前提からは、聖職者の共同体の見解を「信じる」のがもっとも合理的な答えとなるはずですにゃ。
言い換えれば
神がいるといったん仮定すると、神こそは僕たちニンゲンにとって思い通りにならにゃー絶対的な他者として、僕たちニンゲンが放り込まれた現実として、あるいは僕たちニンゲンがよって立つ足場としてそこにあるということになりますにゃー。


そもそも僕たちのご先祖は、自らの意のままには決してならにゃー自然を神と見なしましたにゃ。日照りを、洪水を、落雷を、干ばつを、冷害を神の業とみなしましたにゃ。ニンゲン存在にとってもっとも思うようにならにゃーのは「死」だろうけれど、生まれたからには必ず死ななければならにゃーニンゲンの定めの起源は、ほとんどの場合は神話として民族に語られていますにゃ。
僕たちのご先祖は、生きるうえで知力と創意工夫のかぎりをつくし、それでも意のままにならにゃー何かを「神」と呼んできたのではにゃーだろうか? それが八百万の神であるか、唯一の創造神であるかはここでは関係にゃーだろう。僕たちが放り込まれたこの無慈悲にして豊饒なる世界のことを、僕たちが思うようにならにゃー現実を、僕たちが生きるうえでの前提となる基盤を、僕たちを規定する何かを、あるいは所与の条件を、僕たちは神と呼び、あるいは自然と呼ぶのですにゃ。


この意味合いにおいて、神のメディアである宗教と、自然の啓示である自然科学の役割は相同といっていいのではにゃーだろうか。


ただし
宗教においては事実と価値の切り分けが実に困難であるというところは認めていいと思われますにゃ。事実をそのまま追認する傾向が、確かに宗教にはありますからにゃー。もちろん、宗教からも現実を変革する行いが出てくるということもありえることは否定しにゃーけれど。

パンダの親指

グールドのエッセイに「パンダの親指」というのがありますにゃ。


パンダは両手で竹の茎を持ち、屈伸自在のように見える”親指”とその他の指との間に茎を通して葉をしごくようにしますが、実はその”親指”は親指ではなく、異常に大きくなった手首の骨の一つ(橈骨種子骨)なのです。そのため、外見上はパンダは6本の指を持っているように見えます。


http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/panda.html


パンダの「親指」に見えるものは、ニンゲンで言えば手首の骨の出っ張りの部分が発達したものだということですにゃ。ニンゲンなどの霊長類に見られる「対向指」、つまり他の指と向かい合わせになっている指は、ものをつかむのに便利ですよにゃ。パンダの場合、解剖学的な「親指」を対向指にすることができない事情があったので、手首の骨のでっぱりを「対向指」のごとく使うという進化があったわけにゃんね。

  • 科学は宗教である

と前回エントリで主張したけれど、それをこの「パンダの親指」に即して説明するのなら、

  • パンダの手首の骨は、親指のような対向指の【機能的な役割】を果たしている

ということであって、「パンダの親指」は解剖学的な意味での親指だといっているわけではにゃーのだ。

「これが現実だ」という主張

先ほど僕は「僕たちが思うようにならない現実」「僕たちが生きるうえでの前提となる基盤」「僕たちを規定する何か」「所与の条件」などという言葉をつかい、それらを「自然」あるいは「神」と言いましたにゃ。
これらは、一般的にいって左派が嫌い抜く言葉にゃんね。
実際に、保守とか右派のヒトタチは、「現実」を振りまわして「左派はお花畑だ」と冷笑するのが常ですからにゃ。
もちろん僕も「現実はね・・・・」などというお説教はダイキライですにゃ。しかし、いくら「現実云々」というお説教を嫌っていても、思うようにならにゃー現実は存在するってのも確かなことでしてにゃー。


以前にも書いたけれど、ナチスが標榜したのは「自然の鉄則」ですにゃ。自分たちの主張する人種政策こそが「自然の鉄則」であると主張したわけにゃんね。ここでナチスは、「われわれの主張こそが現実である」といったわけですにゃ。これはいってしまえば神を僭称しているにひとしい。
ナチが「僕たちが思うようにならない現実」「僕たちが生きるうえでの前提となる基盤」「僕たちを規定する何か」「所与の条件」などという言葉をつかったという指摘は正しい!
しかしもちろん、
ナチスがAという言葉をつかった」
からは
「Aという言葉を使うのはナチス
を導くことは論理的にできにゃーですね。

では相対主義はどうよ?

客観的な現実なんて存在しない、という、ある種の左派に受けのよい主張がありますにゃ。これはナチス的な「現実主義」へのカウンターになりえるものでしょうかにゃ?


君は現実とは客観的なもの、外在的なもの、自律的に存在するものだと信じている。君はまた、現実の特性とは自明の理だと信じている。自分には何か見えると思いこむような幻覚に取り憑かれたら、ほかの人たちも自分と同じように見えるだろうと想定することになる。しかしはっきりいって置くが、ウィンストン、現実というものは外在的なものではないのだよ。現実は人間の、頭の中にだけ存在するものであって、それ以外のところでは見つからないのだ。それは過ちを犯しがちな、ともかくやがては消え失せるような人間の頭の中には存在しないのだよ。集団主義体制の下、不滅である党の精神の内部にしか存在しえないのだ。


ジョージ・オーウェル「一九八四年」 ハヤカワ文庫版より


上記引用部は、主人公のスミスに党のイデオロギーを説明するオブライエンのセリフですにゃ。「客観」が「現実」が「足場」が、つまりは「事実」が存在しにゃーなら、参照すべき「外部」が存在しにゃーなら、すべてが相対であり、すべてはニンゲンのなかにあり、現実などは構築されるだけということになりますにゃ。ならばすべてはビッグブラザーの意のままになるはず。
これこそが独裁者のパラダイス!
神を僭称するナチスのほうが、まだ戦いやすいというのが個にゃん的な感想。
腐れポストモダンの行き着く先は、結局のところここらへんだろ。

きょうの乱暴な結論と放言

  • 神も自然も僕たちの思うようにはなりません
  • 思いのままにならない現実、を提示しそこに働きかけることにおいて、宗教と科学は同じような働きをします
  • 宗教が「親指」なら、科学は「パンダの親指」です
  • ナチスは「俺が現実(=自然=神)」だといいました*1
  • 1984」のビッグブラザーは「現実などない」といいました*2
  • 現実の僭称は確かに問題だけど、「現実はない」はカウンターになるどころか最悪のものを招くんでないでしょうか?
  • 「○○が現実だ」というナチ論法へのカウンターは、「それが本当に現実なの?」という懐疑と検証、さらには「現実を参照する必要はあるが、従う必要はない」という原則だととりあえず思います


このあたりの話はまだ続いてしまうような気がしますにゃー

*1:疑似科学的ファッショ、あるいは疑似宗教的ファッショとかいってみる

*2:認識論的相対主義的ファッショとかいってみる