僕たちに課せられた逆説

上記エントリのコメント欄におけるid:kntkmの発言には非常に問題がありますにゃー。


にもかかわらず、コメント欄やブクマコメでは一定の支持をされているようですにゃ。

差別絡みでの典型的な詭弁論法と考えられるので、なるべく簡単に批判しておきますにゃ。


まず、元エントリ本文では

  • 朝鮮学校がサッカーの代表になったとして、それを応援しないのは差別か?

という問題設定がされていますにゃ。詳しくは元エントリをご覧あれ。


では、元エントリコメント欄kntkmの発言から引用しますにゃ。


差別というのは本当に辛いものです。共感します。


けれど差別というのには”権利の差別”と”好き嫌いの差別”の二つがあり、”権利の差別”は社会的に許されませんが、”好き嫌いの差別”は社会的に許されるものなのです。


例えば太っている人は恋愛において異性から嫌われることが多いですが、太っている人を好きになるかどうかは完全に個人の自由であり、太っている人も好きになってくれ、と頼むのはナンセンスです。これは好き嫌いの差別です。


朝鮮学校のサッカーチームの応援がなかったということですが、そのことで生徒の権利が否定されたと言えるでしょうか?


個人の好みの自由があるというのはアタリマエ。誰にだって好き嫌いはありますにゃ。僕だって嫌な奴は嫌だし、好きな相手は好き。これは個人の内心の問題であって、他者に干渉されるいわれのある話ではにゃー。
したがって、【個々人に対しては】「太っている人を好きになってくれ」も「朝鮮学校のサッカーの応援にいけ」も理不尽な要求となりますにゃ。


しかし、元エントリ本文には以下のような記述がありますにゃ。


もちろん、同じ日本人の通う高校でも、偶発的な事情で応援したりしなかったりもするはずです。でも、差別だという訴えがあったということは、そういう偶発的な事情では説明できないくらい、日本人の応援が少なかったということでしょうね。


つまり、地域代表に対して、全体として、言い換えれば統計的にみて明らかに、応援が少ないという話がされているわけですにゃ。
さらに言い換えると、朝鮮人学校が代表になった場合かどうかで地域としての態度が明らかに違うということですにゃ。
朝鮮人学校が代表になったら、応援には手を抜きます。これがこの地域の総意です」
で、これが差別じゃないというのが僕にはぜんぜんわかんにゃーのだが。


個々人に好き嫌いの自由があるってのはいいんだにゃ。
しかし
個々人が自由に判断した結果のはずの「総意」に明らかな偏りが見られるとき、そこでは何かが起こっていることは間違いにゃーよね?

  • 「個々人には好き嫌いの自由があるので、結果的にどのような偏りのある総意が帰結し、マイノリティを排除したとしても、それは差別ではありません。」

これがkntkmのいっていることですにゃ。お話にならにゃーな。


好きになってもらえないからと言って「差別だ!」と主張するのはナンセンスなのです。


私は決して白人に、「アジア人は差別されている。もっとアジア人を好きになってくれ」というお願いはしません。何故なら私は、どんな人種でも平等に学校に通う権利を与えられている、つまり社会的に“権利の差別“はないということを知っているからです。
白人にはアジア人を好きにならない権利があります。


好き嫌いの差別を乗り越えるためには、好きになってもらえるような努力をするしかありません。生まれつきのものは変えられませんが、自分が変わっていく努力をするしかないのです。


例えば2次大戦中のメリケンでは、今よりもさらに日本人に対する偏見がひどく、日本人を好きになってくださる白人様は希少だったろうけれど、これは日本人が白人様に好きになってもらうための努力をしなかったからか? 日本人が変わったから日系人メリケンの社会で受け入れられたんか?
バカ言うなよ。
変わったのは白人社会のほうだろが。
少なくとも人種差別を恥辱と感じる白人は、昔より今のほうが断然多いぜ。


あと、好き嫌いなんてのは教育やメディアによってだいぶ操作できるものですよにゃ。
偏見を植え付ける教育や報道をさせておいて、「好き嫌いの自由」なんてことが通るのであれば、権力者様は大ラッキーにゃんねえ。


「”権利の差別”と”好き嫌いの差別”の二つがあり、”権利の差別”は社会的に許されませんが、”好き嫌いの差別”は社会的に許されるものなのです。」
だとか抜かしているけれど、「好き嫌い」において「好き」とされたマイノリティが「権利の差別」を受けることなんてほとんどにゃーだろ? 「嫌い」と「権利の剥奪」はほとんど二人三脚ってのが実情だろが。


個々人の内心の自由としての「好き嫌い」を認めることからは、マジョリティがマイノリティに「嫌い」とヘイトを垂れ流すことを認めることが導けるわけにゃーだろが。
「私の知事としての公約は、朝鮮人学校には何の支援もしないことです。朝鮮人が嫌いな方々は個人の自由において私に投票してください」
知事選におけるこんな公約があったとして、これが差別ではにゃーとでも?


このブログでたびたび言っていることなんだけど、個人に自由があるということは、愚行をする権利があるということですにゃ。愚かなこと、ことによると醜悪なことでも、他者危害を為さない限りは私的領域において好きにしてよいという権利が保障されなければ、個々人に自由があるとは言いがたいわけですにゃ。
僕は好き嫌いで動く感情の生き物ですにゃ。読んでいる君もそうだろ?
僕は馬鹿なのでよく馬鹿なことをしでかしますにゃ。読んでいる君もそうだろ?

僕に好き嫌いの偏りがあることも僕が馬鹿であることも、もうなおしようがにゃー。
僕個人は死ぬまで粛々と愚行をし続けるしかにゃーのだよ。


でも、社会がそれじゃまずいだろ?
愚行権というのは、あくまで個々人の私的領域におけるものですにゃ。
この愚行権の理屈を社会的な意思決定に適用しちゃ駄目なんだにゃー。社会的意思決定や政治的意思決定を愚行権の理屈(=個人の意思決定の自由の理屈)で擁護するってのは、はっきりいって自殺行為にゃんぞ。
ブクマコメでid:tari-Gが「コメント欄kntkm氏のはヘイト肯定論になってしまう」といっているけれど、これはまったくソノトオリなんだにゃ。tari-Gも僕に誉められるのは不快だろうけれど、kntkmのコメントに対する評価として適切なものは彼のものくらいなので(ほかにも見落としはあるかもしれんけど)、これはお互いに我慢するしかにゃーよな。

  • 個人に愚行は許されるが(というか仕方ない)が、社会・政治に愚行は許されない

これは多分、古今東西普遍的にあてはまる社会・政治への考え方なのではにゃーかな? だからこそプラトン哲人政治を理想とし、あるいは王権神授説が主張され、あるいはマルクスが前衛による独裁を説いたわけだにゃ。しかし、それらはことごとく愚行におわり、結局は自由民主主義がまだマシということになっていますにゃ。

  • 個々人は愚行をまぬかれないが、個々人をみんな政治参加させることによって社会レベル・政治レベルの愚行を避ける

というのが自由民主主義の逆説的なキモの部分ではにゃーだろうか? この逆説を成り立たせるための装置が、自由民主主義政体には実装されている(ということになっている)わけですにゃ。


政治体制に実装、とかいっても、これは結局のところ理念の問題なんだけどにゃ。
まあ、何にしても、個人の私的領域における意思決定の自由、つまり愚行権の論理をもって、社会レベル・政治レベルでの意思決定の自由を説くkntkmのロジックは、自由主義でもなければ民主主義でもにゃーですよ。
個々人としてはどうしようもなく愚行を為しつつ、社会レベル・政治レベルでは愚行を避けるという逆説を楽しもうよ>みなさま