表記と速度と身体性
書く書くと言いながら書いてにゃー宿題がたくさんあるのだけれど、その中のひとつに応答しますにゃ。下記エントリコメント欄で、「はんろん、というわけではなく、エントリをたてておこたえしたい。」と書きましたにゃ。
lever_building(以下やねごん)の、ひらがな分かち書きに対する反応には僕も興味深いと思っておりましたにゃー。「読みにくい」という否定的反応が目立ちますよにゃ。
で
このひらがな分かち書きとそれに対する反応を見ていて、僕が連想したのは詩の書き方と読み方なのですにゃ。
詩(ここでは散文詩をのぞく)というものの形式のひとつとして、改行と連というものがありますにゃ。改行や連というものがもつ効果はいろいろとあるんだけれど、一般的に
- 読む速度を落とす
という効果があるのではにゃーだろうか。
もっと正確に言えば、詩というテキストの要求する読む速度に落とすために、改行と連という表現形式が採用されていると考えるべきではにゃーだろうか。さらに一般化すると、表現内容と形式における速度との関連になるんだけどにゃ。
詩における改行と連という形式では、散文を読むときほどのスピードはでにゃー。日本語の散文における表記になれた読み手であれば、実際に音声で発音するよりもはるかに早い速度で読めるわけですにゃ。特に、腕のよい職人が組んだ版は読みやすくて速度がガンガンでますにゃ。これはこれですんごく気持ちイイ。僕はけっこう未来派なんだにゃ。
しかし、詩というテキストというのは、極論すると内容を伝えるのが目的ではにゃーわけだ*1。詩というのは「何が」書いてあったかということではなく、「どのように」書いてあったかということが問題となるわけで、しかも「何が」と「どのように」が相互に侵食し合うシロモノですにゃ。
改行された詩を読むときに、その速度は音声で発音する程度にまで落とされますにゃ。そして、発音する速度にまで落とされたとき、無意識にではあるけれど、読み手の声帯はかすかに反応しているのだにゃ。アタマのなかで音となった言葉は、身体に影響を及ぼしてしまうのではにゃーだろうか?
- このとき、テキストが身体性を獲得してしまう。
テキストに身体性を獲得させるのが詩の言葉のもくろみであるともいえるわけにゃんね。
で、
やねごんのひらがな分かち書きなんだけど、とりあえず本人の言うように馴れの問題はあるとしても、やはり漢字仮名交じり文よりは、読む速度が落ちるものであることは確かなことのように思えるのですにゃ。漢字のような表意文字における読み手の認識の速度の優位性はあるのではにゃーのか*2。
ひらがな分かち書きに馴れてにゃー人は、さらに読む速度が落ちるでしょうにゃ。で、読む速度が落ちると、どうしてもテキストが身体性を獲得してしまう。
やねごんの文に読みづらいと文句をいってくるヒトの多くは、この身体性にひっかかっているのではにゃーかと僕はヤブニラミしておりますにゃ。
というのも
まさに僕自身が、この身体性にひっかかってやねごんの文を読むにあたって抵抗(=よみにくさ)を感じているからなんだけどにゃ。
あえて失礼なことをいうと、やねごんのひらがな分かち書きの文があまり上達しにゃーのは、この速度の遅さというか身体性というか、そういう部分についてやねごんの親和性が高いからではにゃーかと思ったりしていますにゃ。酒が入っているのでさらに言えば、id:hituzinosanpoとかid:toledとか、ブログでひらがな分かち書きをしているヒトには共通してこの速度感覚というか身体性の感覚があるのではにゃーかと感じていますにゃ。
それを批判するつもりはカケラもにゃーのだが。
ついでにいうと、デリダの「音声中心主義批判」というのはこの身体性のことではにゃーかと読みもせずに勝手に思っているんだけどにゃー。
欧州の言語においても、単語ごとの分かち書きが確立したのはそんなに古いことではにゃーらしい。昔の英語では
I am he as you are he as you are me and we are all together.*3
を
Iamheasyouareheasyouaremeandwearealltogether.
と表記していたらしく、分かち書きをしにゃーということは声を出して読まにゃーと意味がとれにゃーということですにゃ。本当かウソかわかんにゃーけど、西欧近代までは、西欧には黙読という文化はなかったという話もありますからにゃ。
一方、漢字表記では黙読はアタリマエのこととも感じられますにゃ。なにせ、漢字においては音の前に意味があるわけですからにゃー。特に漢字を「輸入」して、訓読みなどというものを発明したり、漢詩の読み下しなんかを発明した日本人には、それが顕著なのではにゃーかと。
漢字文化圏には、「音声中心主義」などというものはにゃーような気がしますにゃ。
むしろ
漢字文化圏においては、文字そのものの身体性がやばいのではにゃーかと。