暴力も責任も地続きなので線引きしましょう


前回エントリへのトラバなどへの応答。
逐語的にではなく、ざっくりと。

「よい暴力」と「すべての暴力に反対」


正当防衛のことを考えてみる。
ほとんどのヒトは正当防衛という行為を否定できないだろうし、僕もそうだ。
ここで、正当防衛を否定しないとして、正当防衛を暴力と呼ぶのか呼ばないのかが対立点になりうることを確認する。
「あらゆる暴力に反対する」というヒトタチは、たぶん正当防衛を暴力であるとは呼ばないだろう。しかし、正当防衛といえども物理的強制力を用いて他者の身体を傷つけたり、ことによると生命を奪うこともありえるわけで、これはやはり暴力であるとみなすこともできよう。正当防衛を暴力の一種と考えるのであれば、「やむをえない暴力」あるいは「よい暴力」という考え方も正当なものとなる。ここで「やむをえない」と「よい」は地続きだ。
明言しておくと、僕は正当防衛も暴力の一種と考えており、したがって「やむをえない暴力」はもちろん、状況しだいで「よい暴力」すらありうると認めている。ただし、革命やら戦争やらの党派的・集団的な暴力は「よい暴力」ではありえないし、「やむをえない暴力」だというのも認めない、個人的には。まあ、革命も戦争も、いったん起きたら暴力が避けえないものであるのは確かなので、そんなものは起きないほうがよい。だから僕は改良主義者なわけだ。とはいえ、恒久的に不正が続き、何の改善もされないよりは革命を支持するけれど。カムイ伝の終わりの方に「一揆で死ぬ百姓より、飢饉で死ぬ百姓のほうがはるかに多い」とあったっけ。ならば一揆という暴力を支持せざるをえない。


さて、次に。「あらゆる暴力に反対する」というヒトタチ、つまり正当防衛を暴力と認めないという立場のヒトタチが考えなくてはならないのは、過剰防衛のことだ。
当然のことながら、過剰防衛は暴力であり、正当防衛と過剰防衛は地続きとなる。そして、多くの侵略戦争は防衛の名のもとに行われたという事実もある。
過剰防衛と正当防衛は地続きなのだが、正当防衛を暴力ではないというのであれば暴力でないものと暴力が地続きであるということになる。連続したものに客観的な線引きをすることはムツカシイ。「これは正当防衛で暴力ではありません」といいながらヒトを殴り続けることだってありえる。


「「よい暴力」などは認められない。そんなもの、自分たちの党派のふるう暴力を正当化するだけの最悪のご都合主義だ。」
なるほどソノトオリ。そういう事例には事欠かない。
しかし
「「すべての暴力に反対」など認められない。そんなもの、自分たちの党派のふるう暴力を暴力だと認めないだけの最悪のご都合主義だ」
という事例にも事欠かない。


どんな考えだって欺瞞に通じている。「よい暴力」も「すべての暴力に反対」も欺瞞に通じる。一方のみが欺瞞であって、他方はそうではない、と断じるのが党派であり思考停止なのだ。
「よい暴力−やむをえない暴力−悪い暴力」も「暴力−非暴力」も両者ともに連続しており、地続きであるということだ。
ここでは正当防衛を出汁にして考えたわけだが、例えば政治的言論活動において特定の政治的勢力を支持し、それが直接的な暴力につながっていった場合などという、「非暴力と暴力」の地続きなんてものももちろんあり、ますます地続きの連続のアナログでわやくちゃとなる。


ところが話をここで終わりにしてはならない。地続きです、で終わってしまっては詐術と言われても仕方ない。


「線引き問題の歪曲」のほうは、去年mojimojiとケンカしたときのもの。白と黒(「よい暴力と悪い暴力」あるいは「非暴力と暴力」)が連続しているからといって、典型的な白や黒があることが一般的に合意されていることもまた固いところだ。


胎児はいつからニンゲンとなるのか? - 地下生活者の手遊びでも論じたけれど、連続しているものの境界を定めるのは最終的にはヒトの恣意となる。

  • 白や黒の典型というものが広く合意されている

ということと、

  • 白と黒の線引きは結局は恣意

ということの2つとも必要。
ここで重要なのは、あなたとか僕の個人の存在において、線引きの恣意を引き受けるということ。


自らがバターの一部でしかないことを認識しそこから抜け出したいと願ったとき、グルグル回る暴力と暴力の円環に棹差し断ち切る「私」の主体的な「決断」を伴う判断と、それに伴う「不断の思考と実践」が要請されるということ。


とsk-44がいっていることの一端でもあるだろうね。
「すべての暴力に反対です」と呪文を唱えれば、ぐるぐる回る暴力と暴力の円環のそとにポジションを持てるかというと、そりゃまるで無理だ。無理無理うんこ。
いや別にharutabeがムリムリとウンコをしていると言いたいのではない。線引きすること自体を僕は否定しないし、円環の外にでられるともharutabeは思っていないだろうし。


何にしろ、「すべての暴力を否定」だろうが「よい暴力」だろうが、それを表明すれば欺瞞から逃れうる便利な立場などない。だから「「私」の主体的な「決断」を伴う判断と、それに伴う「不断の思考と実践」が要請される」というのはタテマエでもおためごかしでもなく、実にもって現実的なお話ということとなる。


しつこく確認しておくが、べつに「すべての暴力を否定」の立場を責めるつもりなどない。非暴力と暴力の連続性をちゃんと認識して、欺瞞に陥らないようにしていただければそれでよい。ムツカシイだろうけど。
さらにしつこく言っておくと、連続性を認識したうえで暴力と非暴力の線引きをすることは否定しないし。
僕が「よい暴力〜やむをえない暴力」の立場をとるのは、それが欺瞞に陥りやすいことがわかりやすいから。欺瞞の落とし穴が明示されていると思うので、そちらを採用しているというところも大きい。

無限責任」について


sionsuzukazeのつくった「反日上等派の主張俯瞰図(暫定版)」は面白いね。
で、実際にこれらの主張は絡み合い関係しているのではないのかな?


人が実際に引き受けることのできる責任は有限である。しかし、それに先行して、責任を引き受けられることを待っている責任が無限に存在する。というより、そのような責任があるからこそ、有限であれ、責任が記述され、制度化され、実際に引き受ける行為を支えていくのである。


道徳的詐術とは何か、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。


排他主義とか構造的暴力とかがいろいろと絡み合っているのも、「責任を引き受けられることを待っている責任が無限に存在する」のも確かなことだよね。
「責任を引き受けられることを待っている責任が無限に存在する」というのはもちろん無限責任ではない。無限責任とは個々人に負わされる責任が無限にあるということだから。


引用したmojimojiの前後のエントリとそのコメント欄、トラバのいくつかを見た範囲での感想なのだけれど、mojimojiは連続性に比重をおきすぎるきらいはあるように思われる。僕とケンカしたときもそうだった。
構造的暴力が多面的・多元的に連関し、引き受けられるべき責任が無限に存在しているのであれば、なおのこと「線引き」を言挙げする必要もあるだろう。


すべてが連続し絡み合っている、だけではかえって手の出しようがない。世界を救うしかなくなってしまう。
考えてみれば、「すべてが連関している」ということを、責任を回避しながらひっくりかえすと「正しいことなんてない」というダメポストモダン相対主義になるような気がする。ついでに言えば、「セカイ系」って、世界を救うために世界を矮小化・単純化することなのかなあ、と思ったり。


閑話休題
すべてがからみあっているからこそ
「確かに構造的暴力は複合的だ。やらなければならないことは無限にあるかもね。
 んー、でも、俺の守備範囲はこのあたりな」
と線引きすることが必要になってくる。地続きを地続きであると認めつつ、主体として恣意的に線引きしなければ、なーんにも動きがとれない。だから、本当に無限責任を主張しているものがいたら、鼻で笑っていればよい。あるいは安心していればよい。無限責任とは、「何もしなくていい」と同じことだからだ。
こうもいえるかな。
「すべてが連続し絡み合っている」というそれ自体は妥当な認識を「無限責任」に勝手に読み替えれば、指一本動かさずにすむ、と。これはあくまで一般論で、sionsuzukazeが指一本動かしたくない論者だということではまったくない。実際にsionsuzukazeは排外主義に否と主張しているし。


したがって、ガルトゥングを持ち出すのであれば、自身の主張として表明することはいささかも否定はされませんし、立派な行為だと思いますが、それをしない人に「強要」することはあってはなりません。(なぜなら、彼らの言により強要・脅迫・威嚇行為そのものが暴力であるからです)

しかしながら、それを強要し、意見表明を求める彼らの言説に必ずしも同調できない人は、永遠に糾弾され続けることになります。

これを無限責任と呼ばずして何と呼びましょう。


中略


「自分で判断しろ」と言いながら、「判断の結果」を糾弾するのであれば、それは「思想統制」に結び付く危険性があるでしょう。


「判断の結果」が言説として公開された場合、それが批判されることもありうるのは当然のこと。公開された言説は何であれ批判の対象になりうるのは基本中の基本だよね。言説への批判が思想統制に結びつく、なんて話はおかしくないか? 批判者が権力者というわけでもなし。
政治的に立場の異なる者が、対立する政治的見解を否定し続けるのはおかしくもなんともないわけで、それ自体はファッショとは別の話ではなかろうか? 左も右も中立も、それぞれファッショと親和性をもつというのは当然のこと。


そもそも、規範をとく文章であれば、その多くは「〜せよ」という形式を持つことになるよね。「〜せよ」と説き、かつその実行を拒絶するものに強制力をもっていうことを聞かせるのであれば確かに「強要」といえるだろう。しかし、強制力の裏付けのない「〜せよ」なんて強要でもなんでもなかろうに。
僕だって命令調の文章は概してキライだし、命令調の文の多くはまるで感心しない。とはいえ、正しいものがないわけじゃない。人間は自らの良心に従い、正しいと信じる言葉を受け入れるべきだ。だから「〜せよ」という形式を一律に否定することはいかんよ。「〜せよ」という文を見たら、その中身を検討して、鼻で笑うなり考え込むなり従うなりすればよい。あるいは反論すればよい。それだけのこと。
ある形式なり立場なりがただちにダメということにはならず、中身の検討が必要になるという、アタリマエといえばアタリマエのお話。


何にしても、誰も無限責任などというゼロ責任につながるような主張をしていないと思うのだけれど。

まとめと独り言と蛇足

  • 何もかも地続きです。よって主体として線引きしましょう。
  • 無限責任はゼロ責任
  • あらゆる立場も形式も欺瞞に通ず。考えるしかなさそう。


有限存在たる僕たちにとって、現実の事象のからみあいはおよそ無限とすらいいうる複雑さをみせる。地球の裏側での1匹の蝶の羽ばたきが、こちらでの嵐になっているかもしれない。何気ない言動が誰かを殺すことになるかもしれない。パラメーターもその関連もすべて把握することはできず、そして多分すべては関連している。
だから、パラメーターを取捨選択したり、暫定的な線引きをしていくしかない。
大事なことは、現実は連続していることと線引きはあくまで暫定的なものであることを常に意識していることだろうと思う。
線引きが恣意的であるというのは、好き放題に適当に線引きしてよいということではない。最終的には自らの主体をかけて線引きをしなければならないということであり、暫定的な線をひくにあたって、科学なり学問なりを参照していくことは当然である。そして、線引きは暫定なのだから、常に補正をかけていくことだろう。
・・・ああ、めんどくせ。
手抜きせずに生きるって、めんどくせえ。なんとかならんかな。


以下さらに蛇足。
えー、銀河英雄伝説では、ハイドリッヒ・ラング と ジョアン・レベロ が好きですな。ああいう、良心の発露が明後日を向いてしまって破滅した人物はよいです。有能な若いイケメンはすべて逝ってよし。こいつら俺には関係ねえ。切断処理だ。
それにしても、フレデリカとヒルダが内面的にも外面的にもぜんぜん区別がつきませんわ。ヤンとラインハルトは同じニョーボをもらっているとしか思えん。
なお
5歳児はアニメ版「じゃりん子チエ」でさらに洗脳中。高畑勲とはしらなんだ、面白いわけだ。これでテツがかっこよく見えてくればしめたもの。それと、「ふたりはプリキュア MaxHeart」の映画版が面白くて40♂も洗脳中。