僕が差別と戦えば、それで暴力は【減る】だろう


非常に問題のある議論だし、ブクマを見る限り受け取られ方にも問題がある。
彼の10月7日のエントリのコメント欄で少し話をしているということもあり、なんとなく乗りかかった船という感じもするので批判エントリをあげておく。なお、harutabeが「内臓」をさらしたとのことなので、僕もなるべく素の文体で書く。よって今回は猫かぶり文体は不使用。

在特会はクズ」?


僕が反省と自己批判と真剣な思考と実践をどれだけ繰り返そうが、どれだけ在特会を批判しようが、在特会は暴力を振るうことを止めはしません。もし仮に、僕の不断の実践によりいつの日か地上から構造的暴力が消え去ったとして、そこでも在特会は変わらず暴力を振るい続けるでしょう。なぜか。暴力はクズによって振るわれるからです。


この世にはクズがいます。クズはどうしたってクズです。僕がいくら自己批判と反省と真剣な思考と不断の実践にリソースを注ぎ込もうが、クズはクズのまま在り続け、クズとして暴力を振るい続けます。


僕も在特会のやっていることはいやだ。映像を見ると本当に胃がしくしくしてくる。
しかし
在特会の若い連中ひとりひとりがみな「クズ」と断言することは僕にはできない。ああした扇動にのってしまう10代から20代は、harutabeや僕、あるいはこれを読んでいるあなたたちとまったく隔絶した存在なのだろうか?
在特会の面々が、あのように平気で暴力をふるうのは、「不法滞在の外国人」を、あるいはid:toledを「クズ」だと信じていたからだ。誰かを、自分とは何も共通項のない「クズ」だと断じれば、その「クズ」がどんな目にあおうが自分には何の関係もないことになる。一種の欺瞞的な自己防衛だね。
こうした自己防衛は広く見られる。こうした自己防衛の思想から逃れられる者はなかなかいない。もちろん僕も無理だという自覚はしている。ナチのSSでもスターリンの秘密警察でもなんでもいいのだが、こうした冷酷な弾圧者もしばしばよき家庭人でありよき友人であったというのはよく指摘されるところだ。


無論、在特会の行動は限度を越えたものであり、懲罰に値するという話はわかる。僕もtoledには告発してほしかった旨の表明はしている。
しかし、躊躇もある。
日本社会というのは前科にひどく厳しい。扇動されて暴力をふるう彼らを愚かだとは思うし懲罰に値するとも思うが、警察のやっかいにさせたくはないという感情もある。まあ、これは僕が40を過ぎていて、自分の息子や娘になりえた年代の者を見ていて感じる感覚なのかもしれないが。それと、個人的に警察組織が嫌いだしね。
toledがどう考えて告発しなかったかはわからないが、当事者の決定は尊重すべきだろう。


では繰り返す。
在特会はクズ」でいいのだろうか?
harutabeも僕も、あるいはこれを見ているあなたも、もちろん彼らのような愚劣な暴力をふるってはいない。しかし、彼らと地続きであることもまた否定できないのではないだろうか? 特定の集団を「クズ」と見なす思考から逃れられないことは同じではないだろうか?

ALL or NOTHING


僕が構造的暴力と戦って、それでいつの日か直接的暴力が無くなるでしょうか? もちろんNOです。僕が反省と自己批判と真剣な思考と実践をどれだけ繰り返そうが、どれだけ在特会を批判しようが、在特会は暴力を振るうことを止めはしません。もし仮に、僕の不断の実践によりいつの日か地上から構造的暴力が消え去ったとして、そこでも在特会は変わらず暴力を振るい続けるでしょう。


僕が構造的暴力と戦ったら、クズが暴力を振るわなくなるでしょうか。断じて否です。


直接的暴力も構造的暴力も、犯罪も児童虐待もゼロになることはない。およそどんな手段を講じても、ゼロにはできない。「この世の中から暴力がなくなりますように」は神様への祈りならばよいが、現実の政治的理念としては駄目だろう。
現実に僕たちが考え、実践していくべきは、暴力や犯罪を「減らすこと」だ*1
「〜をしても暴力を【無くす】ことはできないのだから、拒否します」
という理路が通るのであれば、おおよそいかなる暴力削減への取り組みも拒否できることになる。警察や裁判所があっても犯罪は起こり続けるのだから、この理屈なら警察も裁判所もいらない。


「減らすこと」を目標にするのであれば、構造的暴力と直接の暴力との関連を検討する必要が出てくる。
たとえば
貧困というのは構造的な暴力の典型のひとつだ。そして、貧困と犯罪発生は有意に相関しているというのは否定できない*2
たとえば
ナチの排外主義と直接的暴力が、どういう経済的・社会的・文化的基盤(つまり構造的なもの)からもたらされたものかの研究は数多くある。


構造的なるものと直接的暴力の関連は一般的に否定できない。無論、論者によって力点の置き所は違ってよいし、いわゆる左翼は構造的なものに重点をおく傾向にあることも確かだ。僕もそうだしね。構造的暴力を問題にすることが、直接的暴力を減らすためにどれだけ有効かについて議論する余地はあるだろう。
しかし
直接的暴力を減らすために構造的暴力を考慮せよ、という主張は断じて詐術などではない。
むしろ
「僕が構造的暴力と戦ったら、クズが暴力を振るわなくなるでしょうか。断じて否です。」
と実践どころか、構造的なものを考えることまで拒否することこそ詐術ではないのか?


harutabeのエントリへの批判は、以上2点。

ブクマコメで特に気になったこと

id:maroon_lance
告訴しないのは利敵行為。結局その言い訳

先ほども書いたが、toledには告発してほしかったが当事者の判断を尊重したいと僕は考える。「利敵行為」などという党派丸出しの発言は理解に苦しむ。

id:tari-G
うん、この"概念の無限拡張"、特に無限責任論は、はてサがほんとに得意とするところだよなぁ。でもそれが近代責任概念の全否定で全体主義そのものだって気付かないんだよね。/やっぱApemanhokusyu等はてサすごいわ(笑)


id:inukorori 犬のメモ
気持ちのいい読み物。//無限責任概念を支持する方々がどのように責任と行為を切断しているかに興味が出てきた。


id:enemyoffreedom 思想, 倫理, ウヨサヨ
"汝の無限責任"を言いつのる人々の群れ / そういうものを背負ってしまった人々は自分ひとりで背負いきれるものではないから脅したりすかしたりして他者にも背負わせるしかないのかな。原罪的思想は呪術に通ずる、か


id:Yagokoro
無限連帯責任はマジではてサどもの常套手段だよな。奴らの不愉快さの根本的な理由。たぶん、自分達だけ罪を背負ってる(つもりに過ぎんけど)のは不公平だと思ってるんじゃねえかなあ。


id:sionsuzukaze 犯罪, 差別, 思想, 日本, 社会
コメ欄の冒頭2つでフイタ。/それはそれとして、無制限に責任論を拡大して考えるのは、考える当事者にとって無益ではないとは言え、その踏み絵を全員に踏ませようと迫るのは結局ファッショの鏡でしかない。


無限責任とやらに言及しているブクマコメを時系列順に並べた。
ところが、ここ最近のid:mojimojiのエントリにしても、id:hokusyuのエントリにしても、無限責任を主張しているものなどどこにもありはしない。もちろん、僕の目が節穴だということもありえるので、上記に引用した方々、ならびに上記に引用したブクマコメに星をつけた方々は、「はてさ」とやらがこの問題で無限責任を主張しているというその主張部分を明示していただきたい。
僕が目にしたのは、mojimojiが「応能責任応能負担」と断言した部分だけなので。


僕の目には、無根拠なことをひとりが言い出し、あとは伝言ゲームで無根拠なことの思い込みを強めていっただけのように思えるのだが。根拠のない流言で特定集団(ここでは「はてさ」)を決めつけていくのは、実にこう「在特会」的なことに思えるんだけど、どうなのよ?
もしも、この問題において無限責任を主張するものが「はてさ」とやらにいたら、その主張に対して僕は明確に反対するし、上記に引用した方々に対する謝罪もするつもりだ。もし、自らの主張の根拠を明示できず、訂正もしないというのであれば、まあそういう論者であるというだけのことだ。好きにしてくれてよい。

おまけ:背広の黒幕と民主主義のお話

以下は小説あるいはアニメのお話。最近、銀河英雄伝説アニメ版に再びはまっているので*3


銀河英雄伝説において、ヨブ・トリューニヒトと憂国騎士団は一体的な存在だ。実行部隊として暴虐をふるっているのは確かに憂国騎士団だが、あの小説を読むなりアニメを見た人は、憂国騎士団【だけ】を取り締まればよいとは考えないだろう。
不公正な社会にしておいて不満をたまらせておけば、あとはちょっとした扇動の技術さえあれば実行部隊の補充などいくらでもできる。
ここで、実行部隊である憂国騎士団が取り締まられることがあったとしても、背広とネクタイをしめたトリューニヒトが法的に罰せられることはない。そして、繰り返すがトリューニヒトと憂国騎士団は一体だ。


この作品においてトリューニヒトはいわば「衆愚政治を擬人化したもの」といえる。「民主主義」を擬人化したヤン・ウェンリー衆愚政治を擬人化したトリューニヒトを心底から嫌悪しつつ、実力で排除することはできないわけだ。もちろん、トリューニヒトが法で弾劾されるわけでもない。というのもトリューニヒトは、民主主義の手続きにのっとってその地位を得ているから。
つまり、
トリューニヒトには市民の支持があるということだ。


トリューニヒトに象徴される(戯画化される、というべきか)衆愚政治は、市民の支持を得て憂国騎士団のような直接的暴力を作動させる。銀河連邦自由惑星同盟の市民は、なるほど憂国騎士団を嫌悪していたかもしれない。しかし、トリューニヒトを支持するということは、結果的に憂国騎士団の暴力を支持することになってしまうことは、小説やアニメを見ている者にはわかることだよね。


民主主義というのは、ある意味で苛烈な政治体制であるといえる。僕たちひとりひとりが「主権者」としての責任を負わなければならない。
もちろん、僕たちの「公権力」に対する責任は限定されている。国民の三大義務を守っていればよい。国家権力に対する国民ひとりひとりの責任は、極小化していったほうがよい。
しかし
主権者のひとりとして、隣人に対する応分の責任はある。その責任において、考えなければならないことはある。やらなければならないことも少しはあるだろう。
と、まあそういうことを銀河英雄伝説を見ながら思ったりしたわけだ。

*1:この意味合いにおいて、僕は明らかに「改良主義者」だ

*2:それどころか、貧困を減らすことは犯罪発生をおさえる最有力手段のひとつといえる。構造的なものをかえることで、暴力を減らすことのできるよい例だ

*3:うちの5歳児はビッテンフェルトが好き。「プンプンしているからおもしろい」のだそうだ