僕は「あなた」に要求する

先にケンカを売ったのはこちらだし、まあ粗い書き方をしているのは認めざるをえにゃーので、「誤読」をされても仕方のにゃーところですにゃ。謝ってもらうようなことではにゃーです。
また、今回のsk-44の応答には感謝していますにゃ、おかげでこちらも先に進むことができそう。このエントリにおいては、いままで書いてきたことにいくつか重要な修正をしながら応答させていただきますにゃー。

被差別マイノリティのための表現の自由


「フィクションをエクスキューズに陵辱を楽しみたい」人々と、性犯罪被害者は、コミュニケートできますか。すべきと思いますか。できるしすべき、とお答えされるのであれば、議論は前に進みます。「フィクションをエクスキューズに陵辱を楽しみたい」人々にとって、現実の性犯罪被害者もまたエサたりうる。時に、性的な意味でも。口に出すのがDQNです。「これは討議である」をエクスキューズに。実例を、「性犯罪被害を受けたことのある方」のblogで、私たちは確認したばかりです。


できるし、すべき。
被差別マイノリティ、この場合では性犯罪被害者が声をあげることができ、その声を僕たちが直接に耳にするようになれたのは、まがりなりにも「表現の自由」の拡大のおかげですにゃ。それは、書籍においても、ネットの言論においても実現しつつある。性犯罪被害者の方が声をあげたことに対し、セカンドレイプのごとき言説が浴びせかけられたのは心底げんなりしたけれども、被害者が自らのメディアをもち発言を始めたということを、成果として評価しなければならにゃーと思いますにゃ。


せっかく低コストで自分のメディアを持てるようになり、被差別マイノリティが発信する機会が増大したのだから、それを存分に使い倒すべきですにゃ。むしろ、被差別マイノリティにとって表現の自由こそが最大の武器になりえる以上、表現の自由を確保しつつ、対抗言論を形成していくのが戦略的によいと思われますにゃ。
そして、
「フィクションをエクスキューズに陵辱を楽しみたい」人々とのコミュニケートの場こそは、被害者にとっての対抗言論の場のひとつではにゃーか。公開の場で対抗言論を発すればいい。


無論、戦えるヒトばかりではにゃー。戦うつもりのにゃーヒトもいるだろ。
今は戦うことのできにゃーヒトも、時間が経てば戦えるようになるかもしれにゃー。誇りをとりもどすために、言葉を発することが必要な場合もある。
その言葉は、「無力な公衆の一員として自らの人格において」紡ぎ出されるものとなるでしょうにゃ。その言葉が紡ぎ出されるためには、しばらくの猶予が、「見たくないものを見ない自由」を担保することが必要になってくる。
戦うことを強制することなど、誰にもできはしにゃー。だから避難場所は必要ですにゃ。公共圏におけるゾーニングの意義とはそのようなものではにゃーだろうか?


今は戦えないヒト、戦うつもりのにゃーヒトだけでなく、こどものことだって考えなければならにゃー。保護すべきものは必ずかかえているのだから、ゾーニングを撤廃するというのは無理とはいえますにゃ。「銃後」なしに戦いなんてできにゃーだろう。
何にしても、被差別者が、被害者が、声をあげることを、「無力な公衆の一員として自らの人格において」言葉が紡がれ発せられることを止めることはできにゃーのだから、そのための場所は確保していかにゃーとね。

とはいえ道は険し

岩波講座 現代社会学〈15〉差別と共生の社会学

岩波講座 現代社会学〈15〉差別と共生の社会学


表現の自由」が、あたかも差別的表現を行っても抗議されない権利になりかねない政治性を帯びてしまっていることが問題視されているのである。「表現の自由」は本来、解釈の多元性を保障する概念であったのだが、差別的表現に関しては社会的少数者の批判や抗議を少数意見であるがゆえに排除する機能を与えられてしまい、多様な考え方や意見を保障する場としての表現のメディアが同化を強いるベクトルをもつという事態に直面しているのである。「表現の自由」を絶対視することによって、その社会が社会的少数者に非寛容になるのであれば、民主主義の制度は異質な存在を排除することによって成り立つという程度のものになるだろう。ここに、「表現の自由」の抱える深刻な矛盾があると言えるのである。


P165  第八論文  差別的表現と「表現の自由」論  湯浅俊彦 より


この書籍が発行されたのは1996年ですにゃ。
表現の自由をエクスキューズに社会的少数者を排除」といういかにもネット的な事態はこのときにすでに現実になっており、現在に至ってその病弊は膏肓に入っておりますにゃ。
木で鼻をくくったように「表現の自由」を連呼するお歴々というのは、「表現の自由をエクスキューズに社会的少数者を排除」という事態の存在を理解しているのか? 「表現の自由」の抱える深刻な矛盾の存在が目に入っているのか? 多分見たくにゃーものを見てにゃーんだろうな、などといろいろと疑問なのだけれど、まあいいや。


基本方針として、表現の自由が被差別マイノリティにとってもっとも頼りがいのある武器のひとつであるといっても、「表現の自由をエクスキューズに社会的少数者を排除」という事態がまかりとおっている以上、被差別マイノリティが発言する際のコストがあまりにもでかすぎるように思われますにゃー。
なんとかならにゃーものだろうか?

妥当性とは何か?

ここでハーバーマスのいう「妥当性」を検討してみますにゃ。ネタ本は

ハーバーマス (〈1冊でわかる〉シリーズ)

ハーバーマス (〈1冊でわかる〉シリーズ)

いやね、「1冊でわかる」とかいう挑発的なシリーズにゃんが、これはけっこうよかったにゃ*1


他人に言うことを聞いてもらうやり方に、「戦略行為」と「コミュニケーション的行為」の2つがあるとハーバーマスは言いますにゃ。
例えば、目の前でタバコを吸っているヒトに、タバコを消してもらいたいときにどうするのか? 法や条例を振りかざす、あるいは「タバコを消さないとバケツの水をぶっかけるぞ」と血走った目で叫んでやめさせるというのが「戦略行為」ですにゃ。要するに何らかの強制ですにゃ。「禁煙始めたのでタバコを遠慮してもらえませんか」「ぜんそくがあるんです」「妊婦がそばにいますので」などと、相手に納得してタバコを消してもらうのが「コミュニケーション的行為」ですにゃ。


そして、このコミュニケーション的行為においてなされているのは「妥当性要求」なのですにゃ。「禁煙始めたので」「ぜんそくがあるので」「妊婦がそばにいるので」タバコを消してほしいという要求が妥当であるといっているのですにゃ。タバコを消せと批判されたほうは、その妥当性に対して批判する権利がありますにゃ。しかし、相手の発言の妥当性を認めたら、つまり「合理的に動機付けられたコンセンサス」*2が得られたら、その要求に従うことになりますにゃ。
ここには原則的に権力も強制もありませんにゃー*3


(妥当性要求は道徳的地位があるのと別に)妥当性要求はまたある種の合理性にもとづくという地位ももっている。というのも、それらはしっかりした理由に結びつけられているからである。妥当性要求とは、一人の人間がみずからの行為や発言をほかの人に対して正当化するという言質を与えることなのである。


中略


社会的行為者がやがてみずからの行為の導きを発話行為としっかりした理由の相互承認とに置くことに慣れていくにつれて、刑罰という確かな威嚇とか、共有された宗教伝統とか、昔からの道徳的な価値観に直接依存しない、比較的安定した社会秩序のパターンがかたちづくられはじめる。


P44〜45


そして、妥当性には「真理*4」「正しさ*5」「誠実さ*6」の3つのタイプがあるとハーバーマスはいいますにゃ。
で、
もしも要求した妥当性が相手によって否認された場合、討議に入って互いに自らの主張する妥当性を立証するということになるわけですにゃ。


つまり、僕たちが討議する、議論する、話しあうことにおいて

  • 討議の結果、妥当な要求には従う

という前提があり、そこには強制も権力もにゃーということなんだにゃ。
「何のために話しあうか」
「合意をえてそれにしたがうため」
という、アッタリマエダの師匠はカール・ゴッチというお話にゃんね。

要請の「人称」

さて、ハーバーマスのいう妥当性を踏まえて、ここから俺用語ですにゃ。
要請には「人称」があるのではにゃーだろうか?

  • 個人的な信念、自らの言動に対する要請⇒一人称の要請
  • 目の前の具体的な他者に妥当性要求を行い、その承認による行動の要請⇒二人称の要請
  • 社会全体、あるいは特定集団にという抽象的なものに対する、法や規範などによってなされる要請⇒三人称の要請


自由を守ることは他者の自由を守ることだと私は思います。その私の自由観はあくまで私自身に対する倫理的要求として発するものです。他人にそれを要求するなら、私の自由観とは反する。清く正しく美しくということではない、自分自身に対する倫理的要求は時に十字架と見分けがつかない。


ここでは一人称の要請があり、それゆえに三人称の要請を避けると語られていますにゃ。それはわかる。だが大きな欠落がここにはにゃーかな?
「自由を守ることは他者の自由を守ることだ」と思うのであれば、目の前の具体的な他者に対して、その妥当性を要求しなければならにゃーだろう。そうでにゃーのなら、いったい何のために公開の場所で手間と時間つっこんで口角泡を飛ばしてんのよ? 
sk-44の自由観を「他人」に要求しろといっているんじゃにゃーんだぜ。目の前で話をしている相手である僕を信頼して僕に要求しろということであり、議論を見ている人たちを信頼して要求しろということだにゃ。
読者に対して語りかけているんだろ? だったら読者に自らの信じるところの妥当性を要求しにゃーことこそ不誠実なんでにゃーのか? そのための討議であり公共圏だろ?


そして、他人の背負う十字架に対して、なんびとたりとも干渉してはならない。それが、ethicsという言葉の、意味です。そして性と欲望と暴力に規定された現代の人間にとって自由とは、ethicsの問題としてしかありえません。


表現の自由の核心に「蹂躙の自由」があると主張していたのはsk-44だにゃ。十字架を踏みにじることこそ蹂躙なのではないのかにゃ?



陵辱表現が問題とならない社会を - 地下生活者の手遊びのコメ欄において僕は
表現の自由の交換条件として、【個々の】表現者に対して「配慮」を要求したことはにゃー。」
と確かに発言しましたにゃ。
差別問題へのコミットメントを、「交換条件として」要求もしていなければ、「個々の表現者」などという第三者への要求をするつもりもにゃー。
しかし
これを読んでいる「あなた」へ対し、無力な公衆のひとりとして、自らの人格をかけて、以下の言明が妥当であり実行すべきことを僕は要求する。

  • 自由を守ることは他者の自由を守ることだ。他者の自由を守るべきである
  • 表現の自由を守るために、差別問題へコミットメントすべきである
  • 被差別マイノリティにとってこそ、表現の自由は有効な武器となる。表現の自由を守るべきである
  • 今ある自由を鍛え上げ、次世代に手渡すべきである

とりあえず具体的には、「被差別マイノリティの発言コストをへらして、表現の自由を機能させようよ」と。

いろいろ

えーっと、だいぶしぼった反論となり、つまりはぜんぜん包括的な反論をしてにゃーので、短く答えられるところは答えておきますにゃ。


結論から先に申し上げますと、陵辱が満ち溢れている世の中に住んでいるから陵辱表現には需要があるし、性犯罪が完全にゼロの世の中であれば、陵辱表現に需要はありません――少なくとも、現在のような規模の需要は。この場合、陵辱表現とは、エロゲに限定されるものではまったくありません。

そりゃそうだよにゃ。
もちろん、社会のあり方によって「需要」が変化することはわかっていて書きましたにゃ。たださー、現実の犯罪が抑えられるほど、表現の方はよりいっそうぐちゃぐちゃげろげろしてくるんではにゃーかと、何となく思っているんだよにゃ。そっちのほうがきっと面白いものが見られるのではにゃーだろうか、と。もちろんこれは根拠にゃーけど。
で、
「その需要をいかに位置付けるか」を考えるための公共圏、という見解は一致ということでおけ。


「純然たるフィクションとして陵辱表現を楽しみたい」のではなく「フィクションをエクスキューズに陵辱を楽しみたい」から需要があるんです。少なくとも、この国における需給の規模に照らす限り。これはまったくエロゲに限った話ではない。

にゃるほど。
ところで

id:ymScott レイプレイ問題, ジェンダー, オタク <例えば、飲み屋で(中略)が現実の危機としてある世界> 食い違いの根底はそこ。二次元愛好家はそういう「そういうつもりだったんだろがー」という発言と一番対極にある人。DQNの責任をオタクが取らされる構図。
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090724/1248440858

とあり、僕も「二次元愛好家はそういう「そういうつもりだったんだろがー」という発言と一番対極にある人」というイメージがあったんだけれどにゃ。
「フィクションをエクスキューズに陵辱を楽しみたい」と「その対極にある」「二次元愛好家」の切断は無理か・・・・ま、そういわれればそうだろにゃ。
ただ、ハーバーマスによれば美的・芸術的なものの妥当性は「誠実さ」なんだよね、といっておきたくはありますにゃ。
また、だからこそ
確かにここのところと在特会との結びつけは筋がよくにゃーね。妥当性の種類がちがう。


しかし、SMや明白な性的搾取と異なる、他者の身体を伴わない脳内で完結する陵辱は「それはフィクション」です。「それはフィクションではない」はいいがかりです。私はそのことを指摘するためにSMと売買春に再三言及しています。

あくまで【被害者にとって】「それはフィクションではない」と限定させていただきますにゃ。


戦争と平和をエクスキューズに殺戮を楽しみたい」映画ファンが『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』で随喜の涙にむせんだことはよく知られています。そしてスピルバーグは「純然たるフィクション」というエクスキューズにおいて『宇宙戦争』を撮りました。最大規模の、リアルさに満ちた、殺戮を。

かつて「サルまん」でも「戦争とてえま」というお題でネタにされていましたよにゃ。


実在の人物を扱うものでない「二次元」の陵辱表現は人権侵害でも他者危害でもない。それはフィクションです。

「人権侵害」「他者危害」については、「三人称の要請」で対応されるべきもの、とさせていただきますにゃ。つまり、二次元の陵辱表現を人権侵害または他者危害とみなすことは放棄しますにゃ。


えーっと、ここ以下は手短に答えられるものでもにゃーので、次回に回すことにしますにゃ。特に、社会とか公序良俗とかいったあたりのことを書かにゃーとね。
とりあえずはボールを投げ返しておきますにゃ。


最後に
表現の自由へのただのりの主張は豚の鳴き声だ」なんだけれど、これは基本的に二人称の要請とご理解いただければ、と。
フリーライドは別に自由主義に限ったことではにゃーよね。身分制社会においてノーブレス・オブリージュにただ乗りしたカス貴族なんざいくらでもいたわけで。
強制されているか否かにしか興味のにゃー自律とは無縁な自称自由主義者が、ただのりを自由主義における容認事項のごとく口にするのには怖気がしますにゃ。にゃるほど地下に潜れともいいたくなる気持ちは分かる。

*1:ハーバーマスの入門書としては、「現代思想冒険者たちselect ハーバーマス―コミュニケーション行為」もおすすめできるけれど、ハーバーマスが討議というものをどう捉えているかについてのざっくりとした解説としてはこの本のほうが優れていると思う。ハーバーマス本人の記述ってすっごく手強いし、そちらをまともに参照しようとするとレスが遅れまくってしまうので、入門書の参照で勘弁してくださーい。ぶっちゃけいうと、「コミュニケーション行為の理論」は昔読もうとして放り出したし手もとにないし、「事実性と妥当性」は積ん読状態だし

*2:ハーバーマスの用語の定訳

*3:ニンゲンとは魔法が使える生き物である - 地下生活者の手遊びで書いた「魔法」のことをこれを書きながら思い出した。人類にとって普遍的な意思決定のありかたのひとつと考える

*4:科学に対応する。ローチによれば妥当性はここに限定されるべき、となるかな

*5:法や規範に対応

*6:美的、芸術的なものに対応