これが啓蒙コミックショーだ

前回エントリにトラバがきたので見てみたが、こりゃヒデエ。

極端な話、性犯罪が完全にゼロの世の中であれば、陵辱表現(ある種のポルノ)は「完全なるフィクション」「思考実験」となり、誰も具体的な脅威を感じることもなくなり、何の問題もにゃーわけだ。


つまり、そうでない限り「問題がある」と言っているのだ。


引用部分冒頭にも「極端な話」と明示してあるんだけどにゃ。
さらに言えば、引用部分の直後にも
「これが理想。もちろん理想は理想。」
とそれが理想論にすぎにゃーことはこれ以上なくはっきりと明示してあるにゃ。

性犯罪が蔓延する社会において、純然たるフィクションとしての陵辱表現はありえない

(中略)

陵辱表現がフィクションでなくなってしまうから、陵辱表現が問題となるわけだにゃ。つまり、純然たるフィクションとして陵辱表現を楽しみたいのなら、陵辱表現が純然たるフィクションになる社会になればいい。


つまり、そうでない限り「それはフィクションではない」と言っているのだ


えーっと、ここも引用部分の直後に
「もちろん、性犯罪が根絶される社会などニンゲンがニンゲンである限りありえにゃーだろうけど」
と明示してあり、他の場所でも
「繰り返すけど、差別の根絶はまあ無理だろ。歴史的経緯もなかったことにはできにゃーしね。しかしやわらげることはできますにゃ。」
とそれが理想論で現実には不可能であることは、字が読めれば誰でも分かるように明示してありますにゃ。


で、いっていることはあくまで理想の話であり現実にはありえにゃー話であると、こちらが注意深く何度も明示しているところをガン無視した引用をしていることは、誰も否定のしようがにゃーよね?
で、その挙句のはてにこんなことを言い出す。


この「蔓延」を「存在」と言い換えてみたらどうだろう。


はあ?
「それが社会意識に多くを負う以上、性犯罪数を減らすことはできるし、二次被害・三次被害をなくすことだってできる。」
とやはり明示しているんだけどにゃ。
このようにわかりやすく明示して書いてあることをガン無視して「〜言い換えてみたらどうだろう」と言われてもこちらとしたらどうしてよいのか・・・・


結局、これは、現実社会においてフィクション表現と現実の区別を否定しているのと、実質的に同じではないだろうか。


「性犯罪被害者が陵辱表現に対して感じることは、「それは私にとってはフィクションではない。それは私が現にされたことだ」になると考えられますにゃ。」
と明示してあるのに、なんでそうなるの?
さらに、「表現の自由を脅すもの」を論じたときに、被差別マイノリティに最終発言権があるわけではにゃーということもはっきりと承認しているんだぜ。
つまり
性犯罪被害者の言を傾聴すべきだが、それをそのまま認めるわけではにゃーということなのに、どうやったらそんなねじ曲げた読み方というか、こちらがまったく言っても意図してもにゃーことを妄想できんの?


結局のところ、彼が要求しているのは、社会全体の努力をもってしても完全に実現することは極めて困難な、理想社会の実現だ。人類(個々人ではなく「類」)の邪悪さに責任を持てる個人なんていない。それを表現者個人の責として負わせるのは明らかに不当。表現の自由につけるこれ以上強力な「紐」はないだろう。実質全否定じゃないか。


誰が理想社会の要求を実現してるって?
「性差別が弱まり、性犯罪被害が抑えられ、二次被害・三次被害がほとんどない社会においては、陵辱ゲーはまっとうなフィクションとなり、表現するほうもやりたい放題やっていただいて構わにゃーと僕は考える。」
「差別が弱められるほど、表現の自由は原則的に増大していくのではにゃーのか? こういうものは、オール・オア・ナッシングではにゃーのさ。」
とやはりこれも明示してあるのだけれど、読めないの? 読むつもりがないの?
それにな
こうしたことに対して「個人」に責任を帰するようなことを誰が言ってるの?
僕の言っているのは「互恵的な」ものだにゃ。義務や責任ではにゃー。僕の言っている責任とは、「表現の自由は大切だ」を公言するものには、表現の自由をよりいっそう拡大していく責任があるだろうということだにゃ。表現の自由とは先人が血を流して獲得してきたものなのだから、僕たちにはそれをさらに大きなものとして後世に伝える責任があるということ。


さて、長いエントリではにゃーので、引用してほぼ全体に対して何も読めてない・読むつもりのない言いがかりであることを示しましたにゃ。
最初にもどると


どうも俺とは対話が成り立たなくなりつつあるし、sk-44氏の議論を待とうかなと思ってたんだけど、ブコメみてると、一部にこの無茶振りを真に受けてる人がいるようで、これは水を差しておかないと危ない、と思ったので取り急ぎ簡潔に問題点の指摘だけします。反応が無ければ、詳細な議論は他の人に任せます。


ここで論証したような、読めてない・読むつもりのない言いがかりをされてきたと認識しているので、当然ながら対話になるはずもにゃー*1
無視しようとも思っていたのだけれど、「一部にこの無茶振りを真に受けてる人がいるようで、これは水を差しておかないと危ない」などとどうしようもにゃー思い上がりをご開陳なさっているので、エントリにすることにしましたにゃ。
「社会全体の努力をもってしても完全に実現することは極めて困難な、理想社会の実現」を「表現者個人の責として負わせる」ようなことを僕が書いていたら、賛同の言をあげてくれるヒトなどまず出てこにゃーよ。読めてない・読むつもりのないのは自分のくせに、「一部にこの無茶振りを真に受けてる人がいるようで、これは水を差しておかないと危ない」と上から目線でとくとくと語る啓蒙コミックショー。


このエントリで僕が何度「明示」と書いただろうか?
こういう誤解があるだろうということが予測できたから*2、丁寧に何度も何度もわかりやすく書いたことをガン無視して、何か批判した気になっているってのは「字が読めない」ということだにゃ。そのうえ、まともに読んでいる人たちを見下しているかのごとき振る舞いはにゃーだろ。
よって、批判エントリを立てさせていただきましたにゃ。

*1:ブクマコメにも同様の言いがかりがいくつかあるけれど、まともに読めている他者を貶めているわけではないから、さらしあげるのは控えておく

*2:オール・オア・ナッシングでしかものを考えられないのを、僕は「1ビット馬鹿」と呼んでいる。実際に多いんだよね、1ビット馬鹿って。初代ファミコンですら8ビットあるというのに