ニセ科学批判と科学批判と権威主義
ネット右翼とニセ科学批判者はまったく違う
前回のエントリにいくつか否定的トラバをもらったので、おいしくいただくことにしますにゃ。
にゃんといっても興味深かったのが、「ネット右翼と疑似科学批判は似ている」とかいうお話だにゃ。
今日の雑談 あたりからjura03によっていくつものエントリで展開されている(というか自壊している)お話にゃんね。そして、この与太を肯定するお方まででてきているわけですにゃ。
この場合だったらネット右翼や疑似科学者がどういう点でもっとも批判されているかという点が重要でしょう。それは罵倒コメントなど、正しさを指摘したいあまり過激になる点でしょ。その点が「似ている」のなら、ほかに違いがあっても一応批判にはなってるんだよ。それに反論したいなら、いや「その点は問題ない」というか、それをふっ飛ばすくらいのだめな点が、ネット右翼にはあって、疑似科学批判者はない、といわなきゃだめ。
反論の型がまったくわかってないね。
それじゃ、ここを粉砕しておこうにゃ。
1)ネット右翼は事実認定がまるでなってない*1が、疑似科学批判者は事実認定において正しい
2)疑似科学とは虚偽を用いた特定価値の押しつけであり、疑似科学批判はそれへの対抗言論ともいえる。ネット右翼の言論は特定価値の押しつけそのものである
つまり、(1)事実と(2)価値、という急所において疑似科学批判とネット右翼言論は異なるわけだにゃ。
だいたいね、「罵倒コメントなど、正しさを指摘したいあまり過激になる点」が同じなら味噌糞いっしょにしてよいのなら、反歴史修正主義とネット右翼がいっしょということになるよにゃ。それこそ、中身でなく態度のみで言論を否定することをよしとしているわけだにゃ。どんな立場の言論においても、一定数の罵倒屋がいてもおかしくにゃーわけで、それを理由に「似ている」と難癖をつけるなんざ、藁人形にもなってにゃーだろ。あらゆる言論を封殺可能な究極メタ兵器ですにゃ。
それではウソツキや人殺しのエサ以上のものにはなれにゃーよ、マジに。
ネット右翼とニセ科学批判者は似ている
にもかかわらず、ネット右翼とニセ科学批判者はその心性において重なる部分が見られることは無視してよいことではにゃーと考える。
所与のものに従うことに喜びを感じる、という心性がありますにゃ。フロムが「自由からの逃走」で明らかにした【権威主義的性格】というやつにゃんね。
【自然】が僕たちニンゲンにとって所与のものであること、自然は与えられたものであって、その中でなんとか生きていかなくてはならにゃーことだってのは自明ですよにゃ。ニンゲンに恵みを与えてくれ、時には非情にも奪っていく自然というものを愛し、怖れ、あるいは崇拝する心性というのは、現代人にとっても理解のできるものですにゃ。
ところが、そうやって僕たちにとって所与である【自然】の範囲が拡大してしまうといったことが往々にしておこりますにゃ。僕たちを規定しようとする権力というものを、愛し、怖れ、崇拝するという心性が広く見られるのですよにゃー。
所与の自然、として自らを位置づけることができれば、権力はなんでもやり放題となりますにゃ。現に、ナチのホロコーストは【自然の鉄則】に基づいたものであると主張されていましたにゃー*2。【自然】という大きな力に盲従し一体化することに喜びを見出すということにゃんね。
【現実】【自然】を重視しているつもりが、その実権威に弱いだけという、いわば理系的権威主義というのは実際にありえるでしょうにゃ。
また、自由民主主義政体において、科学はその有効性においてだけではなく、価値中立性のゆえに意思決定の判断基準として重視されざるをえず、権力システムに組み込まれているということも以前から再三述べていますにゃ*3。
所与の権威・権力への盲従と一体化という権威主義と理系の結びつきは確かにありえるのですにゃ*4。
つまり
ということは押さえておくべきことでしょうにゃ。
そして、科学至上主義(Scientism)とは、権威主義的な科学信奉のことであると考えてもよいのではにゃーだろうか。科学至上主義というのは、実は科学そのものを重視しているのではなく、科学という権威に盲従し一体化することにその眼目があるのだと考えますにゃ。
前回のおさらい
さてさて、前回エントリにおける論旨の要点は、
- ニセ科学は特定の考えを押しつけるために科学を擬装している
というところにありましたにゃ。明示的にそう書いてあるはず。ニセ科学でヒトが死ぬのはその帰結にゃんね。いくつかもらった批判的なトラバにおいては、論旨の肝腎なところを読まずに、その帰結である「煽り部分」にのみ反応したものばかりでしたにゃ。
インチキ、ウソ、擬装により、特定の考えを押しつけをニセ科学側がしているのだとあらためていっておきますにゃ。そして、ニセ科学側はニンゲンの生命や健康などを尊重しているのではにゃーのだ、彼らの大事にしているのはもっと別のものなのだということにゃんね。
疑似科学と理系的権威主義
ニセ科学・疑似科学は特定の考えを押しつけるために科学を擬装すると述べましたにゃ。では、なぜ科学を擬装すると特定の考えを押しつけるのに有効なのか?
答えはすでにでていて、【自然の鉄則】に従いたいという、権威主義的な心性に訴えるためですにゃ。
つまり、
のではにゃーかと考えますにゃ。
さて
「ニセ科学・疑似科学信奉者と、ニセ科学・疑似科学批判者って、似てるんじゃね?」
という、けっこうありがちなニセ科学批判・批判がありますにゃ。だいたいはただの難癖レベルなんだけど、理がまるでにゃーってこともにゃーのよ。というのも、科学の権威主義的利用(=科学至上主義)という心性において、ニセ科学・疑似科学信奉者と、ニセ科学・疑似科学批判者のある部分に通底するものがある、ってのは理屈としてありえることだし、観察例もあるわけですにゃ。
「権威主義は気にくわねえ」
という気持ちもよーくわかるしね。
権威主義的でないニセ科学批判とは?
科学という権威に盲従し一体化することが科学至上主義ですにゃ。これを避けるというのは、ズバリ
- 科学に対し批判的な視点を持つこと。人間の幸福のための科学、という視点を忘れないこと
ということが重要だと考えますにゃ。なに、思慮深いニセ科学批判者は、僕などに言われなくてもみなこういう視点を大切にしているものですにゃ。
そして、この【科学に対し批判的な視点を持つ】ことは、ニセ科学批判者にとっても大きなメリットになるのですにゃ。
なぜか?
科学批判と疑似科学批判
特定の科学(・技術)を批判あるいは評価しようとするのであれば、例えば
- 1)その科学(・技術)は本当に効率的か? 安全性は? 経済性はあるのか?
といった、いわばその科学(・技術)そのものの評価の側面
- 2)その科学(・技術)は誰の役に立つのか? 誰が儲け、誰がリスクを負うのか?
といった、いわばその社会的影響の評価の側面
などの視点は必須かと思われますにゃ。原子力にしろ、地球温暖化論にしろ、遺伝子工学にしろ、科学(・技術)を批判あるいは評価するためには、この二つの視点は必要不可欠といえるでしょうにゃ。
科学技術文明を批判するという大きな話をするにしても、個別の科学技術を評価することが望ましいのはもちろんですよにゃ。そうでなければ、なんら具体的な話をすることができにゃーからね。
現代の科学技術を評価し、現実的な批判をするための2つの視点を上げたのだけれど、この2つの視点はニセ科学・疑似科学を批判するための視点であるともいえるわけですにゃ。
科学批判は疑似科学批判を鍛えるはずだにゃ。現代の科学(・技術)を批判的に検討することができるだけの目からみれば、ニセ科学・疑似科学は本当にとんでもにゃーヘタレにうつるでしょうにゃ。
ニセ科学・疑似科学批判者は、科学批判の視点を持つことで、疑似科学を批判する力をいっそう強力にしよう!
そして
現代に科学技術に対して批判的なヒトたちは、まずニセ科学・疑似科学のどこがどうだめかの実証的な批判の理路を身に付けることをオススメしたいのですにゃ。
ニセ科学のような明らかなヘタレの問題点がわからにゃーようでは、現代の科学技術なんてとうてい批判できにゃーですよ。練習問題にはちょうど手ごろでにゃーかな?
おわりに
前回エントリのタイトル「ニセ科学でヒトは死ぬ」を精確に言い換えれば「科学の権威主義的利用でヒトは死ぬ」となるでしょうにゃ。
科学の権威主義的利用を避けること、科学技術に対して批判的な視点を持つこと、ニセ科学・疑似科学を批判すること、これらは本来ならひとつのものであり、これらをひとつにするものこそ、【人間の幸福のための科学】という立ち位置の愚直な確認なのではにゃーだろうか。
*1:国籍法関連の騒ぎにおいて、ネット右翼の現実認識とやらがでたらめであったことは記憶に新しい
*2:詳しくは http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080824/1219506145 あるいは http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080825/1219651707 を参照
*3:科学がその価値中立性のゆえに、【無徴】の権力と親和性が高いことは http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20081219/1229670656 を参照
*4:ここでは言及を避けるけど、具体例も挙げられますにゃー