虐殺をひとり生き延びるということ


下流の僕は新聞をとってにゃーので、行きつけの定食屋で昼飯食べながら新聞を読むのは楽しみのひとつですにゃ。で、6日(金)の朝日新聞朝刊(13版)には注目記事が多くて、ついつい買っちゃったにゃー。
まず

などなど、関心をひくところが多かったにゃ。

ここで取り上げたいのは国際面での以下の記事ですにゃ。
asahi.com にも見当たらにゃーし、ぐぐった限りでもこの記事に関して言及している記述もあまり見られにゃーので、手入力して全文引用しますにゃ。

記事引用

  • 41年前 比ミンダナオ紛争の発端 ジャビダ虐殺 遠い解明

フィリピン南部ミンダナオ島で40年近く続く政府軍とイスラム武装組織の紛争。そのきっかけとなったのが68年、マルコス独裁政権がマレーシア侵攻のために組織したイスラム教徒の特殊部隊「ジャビダ」を、国軍自らが虐殺した事件だった。ただ一人という生存者が歳月を経た思いを語った。(マニラ 松井健)

  • 「生き残って・・・つらい」

マニラ湾に浮かぶコレヒドール島。68年3月18日午前1時ごろ、まだ27歳だったジビン・アルーラさん(67)は兵舎で急にマニラに出発するように命令を受けた。仲間11人と軍用トラックで島の東端の飛行場へ。トラックを降りると、暗闇でキリスト教徒の兵士たちが銃を構えていた。
突然の発砲。仲間がばたばたと倒れた。左太ももを撃たれ、必死で逃げると、20メートルほどのがけを転げ落ち意識を失った。降り注ぐ銃弾が砕く岩の破片が顔に当たり、意識を取り戻した。長さ1メートルほどの丸太につかまって海に逃げ、朝方に漁師に助けられた。


アルーラさんは南部スールー諸島出身のイスラム教徒。当時のマルコス政権がひそかに作った特殊部隊の一員だった。部隊はイスラムの伝承に出てくる美女にちなんで「ジャビダ」と名付けられた。
マルコス政権は、隣国マレーシアに属するボルネオ島北東部サバ州の領有権を主張。かつてフィリピン南西部にあったイスラム王国「スールー王国」の一部だったとの理由からだ。政権と軍部は侵攻計画を練り、現地で破壊工作や住民の懐柔にあたるイスラム教徒中心の部隊を編成した。
アルーラさんも「サバは我々のもの」と信じていた。高給の約束にもひかれ、67年に入隊。当初、スールー諸島で訓練された部隊はコレヒドール島に移り、落下傘降下やゲリラ戦の訓練を繰り返した。
しかし、約束の給料は払われず、食事もひどく、上官たちは女性を連れ込んだ。兵士たちに次第に不満がたまっていった。上官の横暴を政府に直訴する手紙を書き、アルーラさんら87人が署名した。


待っていたのは一斉射撃だった。虐殺された数には諸説があるが、アルーラさんは3月18日に23人が射殺され、その前後も含め、ほかの署名者86人全員が死んだと話す。
軍の捜索が続いた。アルーラさんは政権に反感を持つ対岸の有力者にかくまわれた。アルーラさんの証言をもとに事件が報道され、イスラム教徒の怒りに火が付いた。
分離独立を求めるモロ民族解放戦線(MNLF)を2年後に設立することになるヌル・ミスリアム氏も訪ねてきて、「ムスリムイスラム教徒)がこの不正にどう復讐するか、マルコスと世界に見せてやる」と語ったという。


いまも紛争が続いていることについて尋ねると、アルーラさんの冷静な口調が乱れ、顔を歪めて涙した。
「私が生き残ったから事件がわかった。殺されていたら全員が行方不明で処理されただろう。その後の戦いで20万人ものムスリムが死んだことを思うと、本当につらい。」

SS隊員たちのあざけりに満ちた忠告のまね

ミンダナオ紛争については正直なところほとんど知らなかったにゃ。
もともとはムスリムが独自の文化を築いたきたけれど、二次大戦後にキリスト教徒が移住し、主導権をとられてしまったこと。フィリピン国内でも多くの最貧困層をかかえること、というだけでも複雑なのに、石油と天然ガス、ニッケル、金という地下資源があってメリケンや中国、OIC(イスラム諸国会議機構)、日本などがその権益をめぐって跳梁している状況のようですにゃ。
ジャビダは、このような状況の中で【生贄】にされたのでしょうにゃ。


さて、この記事が僕にとってことのほか強い印象をもたらしたのは、語りえないものを語るということ(予定) - 過ぎ去ろうとしない過去に引用されている以下の「SS隊員たちのあざけりに満ちた忠告のまね」が呼び起こされたからなのですにゃ。曾孫引きするにゃ。


この戦争がどのように終わろうと、おまえたちとの戦争に勝ったのはこのわれわれだ。おまえたちのうちのだれも、生き残って証言をすることはないだろう。が、たとえだれかうまく生き延びることができた者がいたとしても、世間はその者の言うことを信じないだろう。歴史家が疑ったり、検討したり、研究したりすることはあるかもしれないが、確証は見つからないだろう。われわれがおまえたちもろとも証拠を破壊してしまうからだ。なにか証拠が残ったとしても、そしておまえたちのうちのだれかが生き残ったとしても、人々はおまえたちの語ることが途方もないことなので信じられないと言うだろう。(…)収容所の歴史を書くのは、このわれわれなのだ。(Levi 2,p.3)


もしアルーラさんが殺されていたら?
「SS隊員たちのあざけりに満ちた忠告のまね」のとおりに、何もなかったことになったでしょうにゃ。もちろん、ミンダナオには火種はたくさんあるし、なんらかの紛争の種が爆発していただろうとは考えられるので、このジャビダ事件が表ざたにならなければミンダナオ紛争がなかったということにはならにゃーだろう。
でも、
そういう「客観的」な情勢分析で事が済むのであれば、過去の事実を冷静に語りうる67になった爺さんが人前で涙を流したりはしにゃーさ。


アルーラさんが生き残り、証言は仲間に信じてもらえたにゃ。「SS隊員たちのあざけりに満ちた忠告のまね」のとおりにはならなかった。
そしてこの爺さんは、いま、そのことに苦しまなければならにゃー。


無論、「全員が行方不明で処理されていた」ことにもアルーラさんは耐えられにゃーだろうと思いますにゃ。彼が民間人ではなかったし、利用されていたことも事実だろうけれど、だからといって何もなかったかのように、最初からいなかったかのように「処理」されることを、「SS隊員たちのあざけりに満ちた忠告のまね」のとおりに歴史が書かれることを人は拒否しなければならにゃー。
ヒトが歴史を紡ぐ生き物である以上、それは拒否しなければならにゃーだろう、たくさんの抹殺された歴史を思いつつ。


しかし
自分たちの歴史を紡ぐという役割を果たし、それがゆえに同胞の死を背負わなければならにゃーってのは、いったいどういうことなのだろうか?