道徳なき経済は犯罪、経済なき道徳は寝言(追記アリ


タイトルは二宮尊徳のことばとされていますにゃ。
今日はPHPっぽくいってみるかにゃー。


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あたりと関連し
幻影随想: 「ビタミンAがなければ、リンゴを食べればいいじゃない」byヴァンダナ・シヴァ
に刺激をうけて書いていますにゃー*1

経済学と倫理学

経済学*2の主要な取り扱い対象に、「生産と分配」がありますにゃ。これは伝統的に倫理学の取り扱い対象であったといえますにゃ。アリストテレスも倫理と分配について述べているし、近代経済学の祖であるアダム・スミスが当代一級の倫理哲学者であったことも当然のことなのでしょうにゃ。そのガクモンとしての実証性はともかくとして、マルクス主義哲学も、倫理哲学と経済学の結合であるといえるでしょうにゃ。
ハイエクにしろケインズにしろ、その経済学説の基盤に、かならず何らかの倫理的な立場があるのだというところまでは断言できるのではにゃーでしょうか。経済学ドシロウトの僕にゃんが、特定の経済学の学者を信用に足るか否かを判断する際に、自らの学説の基盤である倫理的な立場に自覚的であるかどうかというのは有効な指標なのではにゃーかと考えますにゃ。
まあ、このあたりの視点を経済オンチのサヨが振りまわしてもろくなことにならにゃーって事例もままあるものにゃんが。

経済思想家 二宮尊徳

さて、ここでは二宮尊徳二宮金次郎)の経済思想における、【五常講】という実践をとりあげてみますにゃ。二宮金次郎というと、刻苦勉励を旨とするその「報徳思想」が戦前の全体主義教育に利用されたという過去がありますにゃ。犯罪的寝言をふりまわす全体主義体制にその経済思想が利用されたのは皮肉としかいいようがにゃーが、尊徳の経済思想を全体主義的だと切り捨てるのももったいにゃーだろう。
資料とするテキストは

特に断りがなければ、以下の引用はここからですにゃー。
このエントリを読んで尊徳に興味がでた向きには一読をお奨めしますにゃ。オモチロイよ。

尊徳の金融政策

尊徳5歳のときに、近くの川が氾濫し家財も田畑も流失し、財産がなくなりますにゃ。14歳のときに父を、16歳で母を亡くし、二人の弟をかかえてイエを再興しなければならなかったということですにゃ。34歳になるまでに富農であった祖父の代のころとおなじほどの田畑を持つにいたりますにゃー。
この過程で尊徳が肝に銘じたことが

  • どんな事業にも元手がいる

ということですにゃ。


江戸時代の農村は、基本的に物々交換で経済がまわっていたけれど、新規に田畑を開墾するとか農機具を新しくするといった時には貨幣が必要となりますにゃ。高利でカネをかりて、気がつくと田畑もイエも取り上げられていたということが頻繁にあったようですにゃ。
これには、年貢が高くて農民側に余剰がなかったということも大きかったようにゃんね。年貢が高くて農民は労働のモチベーションを失い、事業を興す蓄えもなく、借金もリスクが大きすぎるということで、生産量は頭打ちでしたにゃ。


ここで尊徳が行ったのが乱暴にいえば以下のこと

  • 無利子無担保で貧農に融資
  • 融資返却については農民相互に連帯責任を負わせる
  • 年貢を下げさせる
  • 農民にも武士にも分度(予算計画)を求め、遵守させる


ここで、無利子無担保での融資と、融資返却の連帯責任が【五常講】(後の報徳社)の基本ですにゃ。


この無利息金、旋回貸附法は、極貧の者に対して、無利息で金を貸し与え、正業の基礎を築かせる。そしてその金は、極貧の間で順次旋回させるという方法をとる。その結果富裕になった者は、謝礼の意味で一年分の報酬金をつけて返却する。尊
徳はこの方法で多大の成果をもたらした。


ところで、この無利息金貸附は、生産力がつき、返済能力が生ずるまで、取り立てを待ってもらい、生産力が充分についた後に報徳謝思を表し礼金を納める。通常の複利計算による借金苦から農民を救うことになる。これは元金を出しあい、1年間にいくらと割り当てて貸し与える。この返還金を次々に繰り返し貸し与える。この貸付は循環しているので1人でも返還金を未納にしても成立しない。一見穏便な仕組みのようであるが、実は厳しいものである。


ここで、「報酬金」をつけることになっているのに注目ですにゃ。
尊徳は利息を否定していますにゃ。利息は貸し付けた側の儲けであり、それは「利心」だからだにゃ。しかし、富裕になった者はその恩を返さなければならにゃー。そこで、報酬金をつけるわけだにゃ。そして、この報酬金は他の貧農にカネを貸す原資となるわけにゃんね。


 夫無利息金貸付の道は、元金の増加するを徳とせず、貸付高の増加するを徳とするなり。是利を以て利とせず、義を以て利とするの意なり。元金の増加を喜ぶは利心なり。貸付高の増加を喜ぶは善心なり。


二宮翁夜話 より

とあるように、貸付高が増加していく、つまりは貧農が少なくなっていく。


ここで注目すべきは、貸付によって富んだ者からの「報酬金」の額は利息としては安いとはいえにゃーこと。および、何らかの理由で富むことのできなかった者からは報酬金をとらにゃーことですにゃ。
また
元金の返済については、連帯責任という厳しい方法を用いたことにも注意を向けにゃーとならにゃーでしょう。
貸付高が増えながら貧農の間を巡り、結果として各々に生産力がついて貧農が減っていくことが目的ですにゃ。このシステムでは元金返済が滞ると融資も止まってしまうわけで、そんな真似はもっとも忌むべき事態だということなのでしょうにゃ。

  • 元金回収については、連帯責任という強力なペナルティを科す
  • 成功者からのみ余剰分を徴集し、融資枠を増やす

これさ、リスクの共同管理としては見事だし、不当に儲ける奴も怠ける奴ももいにゃーよな。


また、武士にも予算生活を強い(尊徳は財政建て直しで請われる立場にあった)、年貢を安くし、農民に経済的余剰を作らせて、それを回転させていく仕組みを作ったわけですにゃ。

グラミン銀行

さて、尊徳が作り出したこれらの仕組みとグラミン銀行って似ていると思いませんかにゃ?


非常に貧しい地域。生活するのがやっと。お金を融資しても、ほとんどの場合かえって来ない。

誠実な借り手と、最初から逃げるつもりの借り手。

それを見分ける術はなかったから、お金を貸す側にできるのは、金利を高く設定して、数少ない誠実な借り手から、より多く儲けることだけ。

バングラディシュの年金利は100から200%近く。そんな状況だから、誰もお金なんか返せないし、借りたところで踏み倒して逃げてしまう。お金が回らないから、いつまでたっても貧困がなくならない。

  • 誰が誠実な借り手で、誰が違うのか?

グラミン銀行は、「相互選抜」というルールを導入して、両者を見分けようとした。


1. お金の借りるには、まず責任を連帯するグループを組む必要がある
2. 連帯グループは、3人から10人くらいの借り手でグループを結成し、支払いを連帯保証することを条件にお金を借りる
3. 借り逃げをたくらむような危険な相手とは誰も組まないので、安全な借り手が銀行にくる可能性は高まる


銀行側の安全を確保するルールはもう一つ。それは、「繰り返し」。


1. グループができたら、最初に7日間のコースで銀行のルールを覚えてもらい、まずはグループのうち2人に12〜15ドル程度を貸し出す
2. はじめの融資が6週間以内にきちんと返済されてから、次の二人に融資する
3. グループの代表は、最後にお金を借りられる。


不誠実な連中が口裏を合わせてグループを作っても、銀行に何度も来ないと、グループは満額を受け取れない。これは「繰り返し囚人のジレンマ」ルールそのものだから、裏切りは双方に不利益になる。


相互選抜と、繰り返しルール。ネットワーク科学とゲーム理論のいいとこ取りをしたようなこの制度はうまくいった。グラミン銀行の融資返済率は90%にも達し、年利も20%と、この地域にしては画期的に低く抑えることが可能となった。


http://medt00lz.s59.xrea.com/blog/archives/2006/10/3_2.html


おどろくほど尊徳の五常講と似てますよにゃ。封建時代の村落共同体では基本的に逃げようがにゃーし、元金返済は全員に連帯責任なので、相互選抜は特に不要ですにゃ。
とすると「無担保融資」「繰り返し」が五常講とグラミン銀行に共通するキモとなりますにゃ。双方ともに、融資が大きくなりながら巡り、貧者をなくし、しかも不当な利益をあげるものがない、というシステムにゃんね。両者の考え方と実践のありようは基本的に同じなのではにゃーかと考えますにゃ。


興味のある向きは、リンクした「二宮尊徳の経済思想」を読んだ上で、Wikipedia:グラミン銀行にある「16の決意」と突き合わせて見てくださいにゃ。基本思想は同じにゃんぜ。
ただ、「16の決意」には「こども」が特に強く意識されているところが違うといえば違いますかにゃ。

尊徳の先見性

タイトルの「道徳なき経済は犯罪、経済なき道徳は寝言」というのは尊徳のコトバとされてはいるけれど、確実なところはわからにゃーそうだ。しかし、尊徳らしいセリフですにゃ。
まさに、犯罪も寝言も廃して、勤勉と倹約が自分のためでもあり共同体のためでもあるようなシステムを部分的といえども実践し、成果をあげたのですからにゃ。しかも、不当な利益は否定しても、市場も個々の農民のインセンティブも否定してにゃーんだよね。まあ、だからこそ成果をあげたのだろうけれど。
以下にもあるように


我々は市場原理の欠点、例えば「Only the fittest should survive」というネオリベラリズムのキャッチワードに現れているような、敗者を作り出してしまう主張に注目している。
だが、ユヌス氏に言わせれば、これは市場に問題があるからではなく、それを使う人間自身に問題があるから発生するのである。市場機構は、我々自身がうまく使おうという主体的な意思をもてばよく機能する。それぞれが自分の利益を求めるのではなく、みんなが環境や人権を考 えるようになると、市場機構を用いて社会をこうした方向に変えていけるのである。


http://econgeog.misc.hit-u.ac.jp/excursion/00bengal/grameen/grameen.html

そして、尊徳の実践の約300年後に、グラミン銀行が同じような思想と実践において、ノーベル賞を受賞したわけですにゃ。
ここに経済と倫理の分離はにゃーよな。


あと、リンクした「二宮尊徳の経済思想」から、こんなエピソードも紹介しておきましょうかにゃ。


天保の大飢饉
 天捕4年(1833)初夏に、宇都宮で食した茄子が「秋茄子の味」と、尊徳は天候の不順から、飢饉の到来を予感した。そこで桜町に帰ると、さっそく畑の作物を引き上げさせて、そこに粟・稗・大豆等を植えさせた。桜町の農民は不本意ながら従った。翌5年、尊徳は、再び命令を出した。(『夜話』巻の五、196天保両度の凶歳に付て用意件々)


 尊徳は、「天体の運行には周期があり、飢饉は遅くて5,60年、早くて3,40年に1度必ず来る。天明の大飢饉(1782〜87)後の大凶作の年が、近いうちに来る。凶作に備え、今年から3年間、畑の年貢を免除するので、稗類を植えよ。1軒、1反歩、3か村(物井・横田・東沼)の稗は、3年後には数千石となる」と考えたのである。彼の予感したように、大飢饉が到来、多くの餓死者が出たが、稗の収穫のあった桜町領からは、1人の餓死者も出ず、困った隣村のために稗を貸出しすることさえだきた。


尊徳は緻密な現場主義者であり、科学的といってよいほどの合理主義者であり、数字に強いといったことに加えて、人文的教養を修め、人の心理にも通じた苦労人でしたにゃ。
鬼平もそうだったんだけど、日本にこういう先進的で合理的かつ人道的な人物がいたということは、民族派としては慶賀の至りですにゃ。

追記 経済成長を支持する 5日 10:25ごろ

http://d.hatena.ne.jp/demian/20090202/p1
2009-02-01
2009-02-02
あたりの、経済成長の話ですにゃ。


尊徳の五常講やグラミン銀行においても、貧困から脱出するためには【余剰】の存在が必要不可欠ですにゃ。たとえ搾取者も怠け者もいなくても、【余剰】がなければ貧困から抜け出ることはできにゃー。
そして、

  • 経済成長とは、余剰が出ることである*4
  • 余剰を回転させなければ、貧困はなくせない

のではにゃーだろうか?
つまり、経済成長は貧困撲滅のための必要条件であるということになりますにゃ。
そして、その余剰をうまく回すのが金融の役割ということにゃんね。
経済成長と金融は、貧困をなくすための必須の条件であると、シロウトながら考えますにゃ。
無論、それは必要条件であって十分条件はにゃーということにゃんね。経済成長と金融だけでは貧困はなくせにゃーことは、90年代に飢餓人口が増加し続けたことで証明済みですからにゃ。


市場も経済成長も支持しますにゃ。
だが、サヨとしてはそれだけでは足りにゃーとも言わにゃーとね。

*1:タイトルの「道徳なき経済は犯罪、経済なき道徳は寝言」を「道徳なき科学は犯罪、科学を否定する道徳も犯罪」とパロったりして

*2:経済タグ、つくりましたにゃー

*3:放送大学の卒研のようですにゃ。探した限りではこれが1番役に立ちました。ご立派な研究だと思います>大花幸子様

*4:という理解でいいんですよね? 間違ってたらご指摘ください >経済学に詳しいヒト