勉強のできる子には犬神が憑く

これで学歴社会なの?


最近、電車の中で中学生がこんな会話を交わしていました。
「頑張って東大に入れたとしても、親が土地を持っている奴らにはどうせかなわない」
「そうだ。人生ってばからしいよな。」


中央公論編集部編「論争・中流崩壊」の冒頭で紹介されるエピソードですにゃ。

論争・中流崩壊 (中公新書ラクレ)

論争・中流崩壊 (中公新書ラクレ)


日本は学歴社会だとか言われることも多いけれど、ビンボー人のガキが東大でて官僚になるとか大企業に入社してそこそこ出世しても、都内に一軒家を構えることができるかどうかという社会が、本当に学歴社会といえるとは思えにゃー。
学歴社会ってのはさ、一発受かってしまえば、一族郎党どころか出身地まで潤ってしまうという科挙のような制度が広く採用されている社会のことなんでにゃーのかな?
 

勉強ができる VS スポーツができる

さて、「成り上がる」といえば、スポーツや芸能の世界でのサクセス・ストーリーがあるわけですにゃ。成功すれば、巨万の富と名声が手に入りますよにゃ。学問の世界で「成り上がり」、その最高峰のノーベル賞をもらったとして、賞金は1億円ちょっと。超一流の研究者が、一生に一度もらえるか、もらえないかのノーベル賞で1億ちょっと。イチローの年収は20億円くらい? ハリウッドの一流どころもそれくらい稼いでいたっけかにゃ?
フィールズ賞にいたっては、賞金100万円くらいだっけ?


つまりさ、社会的評価がそれに支払われる金銭で表されるものだと考えれば、学問なんてものはスポーツや芸能にくらべて、まーるで評価されてにゃーともいえるわけですにゃ。
単純に比較できるようなものでもにゃーが、ノーベル賞級の頭脳、メジャーリーグの超一流どころはともに人類の最高レベルの頭脳あるいは運動能力といっていいんだろうけど、そこに対するカネの支払いという数値化できる評価には雲泥の差がありますにゃー。


トップクラスになればスポーツはカネをとれるけど、そこまで行かないのであれば勉強していたほうがまだカネになる、という声が聞こえてきそうですにゃ。
そうかな?
例えば、企業に就職する際に学問的能力が求められるのは研究職くらいなものだろにゃ? 企業が欲しいのは問題解決能力だとかコミュニケーション能力であって、学問的能力そのものではにゃーだろ? もちろん、問題解決能力などは学問的訓練によって磨かれるものではあるだろうけれど、直接的に学問的能力が要求されているわけではにゃー。だから、体育会系が好んで企業に採用されたりするわけだよにゃ。


つまり、就職においては学歴が考慮されるとしても、それは学問的能力(勉強の能力)が評価されているということにはならにゃーわけだ。

  • 学問的能力(勉強の能力)は社会的に高い評価をされているとはとてもいえない

というのが実情なんではにゃーのかな?

学問が嫌い、だから「ガリ勉」が嫌い

  • 知識をDISるよくある言い草

「知識そのものなんて価値がない」、とかいう言い草は昔からありましたにゃ。「大事なのは思考力(or創造力・共感する力・協調性など適当にいれてください)だ」とかいった話には耳にタコですにゃ。

にゃんか、「塾通いで勉強はできるけど人間的にダメダメな秀才クン(メガネ)」というステロタイプの登場人物のごとき扱いだよにゃ、「知識」って。


体験によらない知識の重要さについて言っておく - 地下生活者の手遊び より


引用したエントリでは、「体験に基づく知識」が偏重されているけれども、実は「体験に拠らない知識」こそが科学的思考の基盤となるという趣旨のものでしたにゃー。そして、科学そのものがニンゲンにとってよそよそしいものであると述べていますにゃ。


体験に基づく知、を重視する者にとっては、労働やスポーツなどは崇高な知であるが、ガクモンなどというものは机上のもので薄っぺらで貧弱なものだという理屈になるんでしょうにゃ。ガクモンなどという頭でっかちで薄っぺらなものを好むガリ勉どもも、やはり薄っぺらで貧弱なものだということになるわけですにゃ。


http://d.hatena.ne.jp/pollyanna/20081224/p1に対して、ダンコーガイあたりが難癖つけているのも、お勉強の能力なんて薄っぺらで評価するに値するものではなく、体験に基づく、あるいはカネに直結するような能力でなければ評価しにゃーという、ステロタイプのものいいなんでにゃーの?*1


なんで、お勉強ができることに対する軽蔑が広く見られるんだろ?
という問いに対しては

  • そもそも学問(特に自然科学)の方法論は、万人にとって異物・他者であり、親しみのもてるものではないから

という答えをまず用意しますにゃ。もちろん、これだけではにゃー。

orderをめぐって

この話題に関しては、歯車と自尊心 - 地を這う難破船の整理が僕には参考になりましたにゃ。


orderを自ら設定することと、他人が設定したorderに従うことは違う。後者を「頭がいい」と呼ぶわけがない、というのが小飼弾さんの最初のエントリの趣旨、というか弾さんが一貫して表明している価値観です。その「弾言」に対して、「勉強」とは「他人が設定したorderに従う」ことに尽きるものではまったくない、と指摘したのがpollyannaさんのエントリで、それはまったくその通りと思う。


ふむふむ、勉強ができる、なんてことは所詮は他者のorderに従う能力にすぎにゃー、よってそんな能力は薄っぺらでたいしたことがにゃーのだという意見とそれへの反論という整理ですにゃ。
この整理そのものには異論がにゃーのだが、orderを出す者とorderに従う者という整理に、権力論があるのではにゃーかと感じていろいろと興味深いのですにゃ。

学校という権威への反抗

エゲレスの初等〜中等教育において、70年代後半から今にいたるまで、特に労働者階級男子生徒の学力が下がって問題になっていますにゃ。
エゲレスの学力事情については以下のリンク先を参考に


アンソニー・ギデンズ社会学」より脂っこいところを引用

社会学

社会学


ウィリスは、調査対象となった学校のある少年グループに焦点を当て、その少年たちと長い時間を一緒に過ごした。この連中は「野郎ども(ラッズ)」と自称する白人グループであった。この学校には、黒人やアジア系の子どもも数多く通っていた。ウィリスは、連中が、この学校の権威システムについて、鋭い、洞察力に富んだ認識をもっていること-----しかし、そうした認識を権威システムと協調するためではなく、権威システムと闘うためにもちいている。
P625


マッチョな連中にとって、中等学校は、へこたれない男になることを学ぶ「見習い期間」であった。学校は、読み書きや算数ではなく、喧嘩とナンパ、サッカーを学ぶための場であった。「仲間の面倒をみること」と「互いに仲良くすること」は、マッチョな連中の社会的世界で最も重要な価値である。学校は、街頭とほとんど同じく、縄張り争いの舞台となった。マッチョな連中は、教師を警察官と同じような(公然と軽蔑すべき)存在とみなし、教師が学校内で生ずる葛藤の主たる原因であると確信していた。マッチョな連中は、校内での教師の権威を認めようとせず、自分たちに懲罰や屈辱を与えるために、教師たちがつねに「画策している」と信じて疑わなかった。


ウィリスの描写した「野郎ども」と同じように、マッチョな連中も、学校の勉強や成績を、下らない女々しいものとみなしていた。学業成績のよい生徒に「点取り虫」のレッテルを貼った。学校の勉強は、男たちにふさわしくないとして、はなから見向きもされなかった。マッチョな連中のひとり、レオンが述べるように、
「学校でやる勉強なんて女の子がすることさ。そんなのは本当の仕事じゃない。そんなの子どもの仕事だよ。やつら「教師」は、俺たちが思ったことについて何か書かせようとする。そんなのは余計なお世話だ。
P626〜627


おお、レオンとダンコーガイが重なって見える(w*2
こうした「野郎ども」「マッチョな連中」*3は典型的な労働者階級の出身ですにゃ。彼らは、肉体労働に就ける確実な将来の見込みがなくなった社会で、肉体労働者の「男性性」を守り、発達させようとしているわけですにゃー。
彼らは労働者階級の【男】として、orderを受けることを潔しとしにゃーのだ。
さて、彼らを単純に愚かといってしまっていいのでしょうかにゃ?

社会的流動性


アメリカ合衆国ではアメリカの夢(アメリカン・ドリーム)が確かにその名を残している。低所得の家庭に生まれた子供が最も裕福なアメリカ人になる機会は 100に1つしかない。反対に、豊かなアメリカ人の「後継者」の22%は豊かなままに留まる。中流階級の子供たちは、両親の生活水準よりも下の水準になる方が(39.5%)、収入段階が上昇する(36.5%)場合よりも少し多い。現在の危機の前、1年の間に所得が有意に低下する経験をしたアメリカ人の数は増えていた(1990年の13%に対し、2003年には16.6%)。


2005年、London School of Economicsがカナダ、ドイツ、スウェーデンノルウェーデンマークフィンランド、英国と米国で実施した調査は、社会的流動性が最も低いのが最後の2カ国(英米)であることを証明してさえいた。


社会的流動性に関するル・モンドの記事 | PAGES D'ECRITUREより


英米は社会的流動性、つまり貧乏から金持ちにはい上がれるという期待値が欧米の自由主義社会において非常に低いようですにゃ。つまり、努力が報われにゃー社会。勉強したって無駄になりがちなんだよにゃ。
努力が報われにゃー社会において、学校の権威主義なんて敵でしかにゃーだろ。
「マッチョな野郎ども」が愚かだとはとても思えにゃーな。


そして、「アメリカン・ドリーム」などというお題目と裏腹に、メリケンというのは実に社会的流動性の低い社会であるようですにゃ*4
にゃるほど、2008-12-29にあるように、メリケンのガキ社会で勉強のできる子への【点取り虫】というレッテル貼りとイジメがおきるわけだにゃ*5


また、http://www.yhlee.org/diary/?date=20081225で紹介されているメリケンの黒人社会における【白人の真似】というレッテルもこれなんではにゃーだろうか。
また、リンク先で在日社会では「勉強ができる子」を馬鹿にしたりしにゃーとあるけれど、これは在日社会の文化と、日本社会の流動性あたりが理由のような気がしますにゃ*6


社会的流動性が低いために、学校側の権威主義が空虚なものとなり、それに反抗する者が出てくるのは当然なんだけど、その反抗が別タイプの権威主義(=男らしさ)をもってきたものでしかにゃーわけだ。

  • 社会的流動性が低いというのは、本当は「社会がずるい」、もっと正確にいえば「支配層がずるい」はず。ところが、その「ずるい」という怒りが勉強のできる子へと向けられてしまう。

犬神憑きという説明

このエントリと同時に、ゼロサムゲームの社会における成り上がりへの社会的制裁として【犬神憑き】が機能していたことを述べたエントリをあげていますにゃ。
流動性の少ない社会における、固定化された各階層というのは、まさにゼロサムゲームの場であり、呪術思考が発動しやすいのではにゃーだろうか?
社会階層が固定している状態で、勉強をして「成り上がる」といっても、たいていは「マッチョな野郎ども」の少しうえ、具体的には労働者階級を直接管理する下層官吏とか学校の教師ってパターンが多いだろうと思われますにゃ。
これはまさに【裏切り者】として制裁しにゃーとな。


日本は確かに英米よりは社会的流動性がだいぶ高いようですにゃ。
しかし、それも過去のことなんでにゃーのかな。東大を出ても親が土地を持っている奴にはかなうわけにゃーし、政治家は二世ばっかりだし、這い上がろうにも派遣の首は切り放題だしにゃー。下流社会はイス取りゲームのゼロサムゲームですわ。少なくとも、そう思わせて派遣などの労働条件を切り下げ放題にゃんからな。


つまりはこういうことだにゃ。
身近な村社会、ゼロサムゲームの村社会で成り上がったものは、不正をしているに違いにゃーのだ。つまり、犬神が憑いているに違いにゃー。
狭く固定された学校という社会で、成り上がりを画策するなんて、そんな卑劣で女々しい裏切り者【点取り虫】【白人の真似】にも、犬神が憑いているに違いにゃーのだ。
よって、差別して制裁しなければならにゃー。

スポーツや芸術で成り上がるのはいいよね、ザシキワラシが憑いていてうらやましいにゃー


ジェンダー

というわけで、主に社会的流動性と勉強ができる子のイジメというお題で思いつきを垂れ流してきたんだけど、ジェンダーについてほとんどまるまる回避しちゃっていますにゃ。勉強の出来不出来とジェンダー・バイアスの関連は明らかなんだろうけれど、それを論じる材料が手もとににゃーです。
ま、宿題ということで

*1:まあ、ダンコーガイのエントリを直接読んでいるわけではにゃーんだけど

*2:ここには反知性主義陰謀論も性差別主義もある! すてき!!

*3:日本では「硬派」とか「ツッパリ」と自称してたよにゃ。僕も地方都市の公立中学だったから、こういう連中がたくさんいたのをおぼえていますにゃ。僕はけっこう仲良くやってたけどにゃ

*4:「ある社会で美徳とされることは、実はその社会の欠点を表している」というユングの指摘を地で行っているよにゃ、アメリカン・ドリームって

*5:リンク先にあるように、韓国社会で科学者がヒーローでありえるのは、儒教的な学問に対する敬意と、学歴社会が機能していることなどに求められるかもしれにゃー。つまり、韓国社会では学問が外部から押しつけられたorderだという捉え方がされていにゃーのかも

*6:日本が在日に公平でフレンドリーな社会だなどと言うつもりはさらさらにゃーけどな