憑きものというスティグマ
小松和彦「憑霊信仰論」をテキストにして、呪術思考で富の偏在などを説明するという例を以下に示しますにゃ。
- 作者: 小松和彦
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1994/03/04
- メディア: 文庫
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マナ
マナについての日本大百科の記述を引用
- mana
オセアニアに起源をもつ語で、超現実的で不可思議な力の観念とされるが、最近では地域や脈絡によってさまざまな意味を示すことが明らかになってきた。すなわち、マナは、超自然力、影響力、呪力(じゅりょく)、心力、非人格力、神(聖)力、効力、奇蹟(きせき)、権威、威信などの意味をもつとされる。
特質
マナは人間のもつ通常の力を超えて、あらゆる方法であらゆるものに作用する超自然力で、それ自体としては非人格的であるが、つねにそれを行使する人間と結び付いており、それを所有し支配すると、最大の利益を得ることができるとされる。マナは本来特定の人物や事物に固有のものではなく、付け加えたり取り除いたりできる転移性、および自発的にあるものから他のものに伝わる伝染性を有する。
事例
メラネシアでは、マナは個人に結び付けてとらえられる。ある戦士が戦いに勝ったのは、彼の実力によるのではなく、彼がマナを得ていたからとされる。また豚が多くの子を生み、農作物のできがよいのは、その所有主が勤勉であるとか、財産管理に留意したためではなく、彼が豚や芋に効力のあるマナの充満した石を所有しているからとされる。
これに対しポリネシアでは、マナは階層や集団に関係づけて把握されることが多い。王族や貴族は神々の子孫とされ、一般民衆よりも圧倒的に多量のマナを身につけている。男性は女性よりも多くのマナを有している。ときに支配者は強力なマナをもっているため、思うように身体を動かせない。少量のマナを所有する下層民に触れると、強力なマナの発動で彼らを危険に陥れることを恐れたからである。このようにマナはタブーと強く結び付いているのである。
学説
マナの観念を初めて学界に発表したのはR・H・コドリントンであり、彼はマナを転移・感染可能な超自然力・影響力であるとした。マナの観念は宗教の本質や始源にかかわる問題とされ、多くの論議をよんだ。R・R・マレットはこれを呪力・心力とし、・デュルケームは非人格的な力とし、トーテム原理と同一視した。H・ユベール、マルセル・モースらはマナをもって呪術的信念と儀礼・慣行の基礎とみなした。A・M・ホカートは、マナがポリネシアでは共同体の指導者の属性を示す語で、繁栄と成功を意味するとした。
A・キアペルはマナの語源研究から、その原初的な意味は「効力」であり、日常性を超えた有効性が認められるとき、この語が使用されるとした。彼はまたマナとまったく類似の観念がアメリカ・インディアンのワカンwakanやオレンダorendaにみられるとした。E・ノーベックは、さまざまな人物、事物、自然物に憑依(ひょうい)して威力を発揮させる日本のカミ(神)の観念はマナに酷似すると述べている。
[佐々木宏幹]
ここで注目すべきなのは、
1)富の偏りを説明するために「マナ」が持ちだされているということ
2)転移性をもつものであること。
3)日常性を超えた有効性が認められるとき使用される語であり、日本のカミの観念に酷似しているということ
また、ポリネシアにおいては神聖な存在である王侯貴族は多量のマナを身に付けていると解されていることも重要ですにゃ。
ザシキワラシ
さて、日本の民俗社会において「富の偏りを説明するもの」「転移性をもつもの」「カミの観念」というキーワードをみたすメジャーなものがありますにゃ。
「ザシキワラシ」にゃんね。
小松和彦「憑霊信仰論」から、ザシキワラシの特性をテキトーに抜き出してみると
- 1)富貴自在
- 2)不可視性
- 3)人に姿をたまたま見せるときは童子
- 4)特定の家屋敷・倉にすみつく
- 5)1時的な富の獲得と関係してかたられ、長期的・永続的な富や家柄と結びつかない
- 6)神出鬼没、敏速。顔が赤い。
- 7)屋敷にすむものを安眠させず、枕返しをしたり、床にはいり、おしつけ、おしだすなどをする(遠野近隣ではこれはザシキワラシの特性だが、他の地方ではこれらは「もの」に憑かれることを意味する)
- 8)1面では残酷な性格もある
- 9)小豆や小豆飯をこのむ
- 10)夜に出現、活動することがおおい
- 11)多くは1人または1対という形で出現する
5)の「1時的な富の獲得と関係してかたられ、長期的・永続的な富や家柄と結びつかない」は重要だにゃ。ザシキワラシの憑く家ちゅうのは、昔からある豪農などではなかったちゅうことらしい。「せいぜい近郷のものもちとして評判される程の家にすぎない」ちゅうことですにゃ。いってしまえば、成り金とか、成り金の没落にかかわっているのがザシキワラシちゅうことになる。
ここで、ザシキワラシという存在は「富の急速な獲得あるいは喪失」に関する説明のためのツールとして使われているのだと考えることは無理ではにゃーと思われますにゃ。中世においては、富というものは異界・他界からもたらされるものであったという話もあり、ザシキワラシは来訪神(マレビト)の性格も持ちあわせているような気がいたしますにゃ。
ところでこのザシキワラシというのは、中世の修験・高僧の使役霊であった「護法童子」とよく似ているということですにゃ。もとはオニの眷族で高僧の使役霊となったもので、髪が赤く敏速で小豆を好み、残酷な1面を有する霊だそうですにゃ。
犬神憑き
で、犬神憑きの話になりますにゃ。
現在でも四国には犬神だのクダ狐だのイズナだのという動物霊を使役するとされる人々がいるちゅうことにゃんね。こうした動物霊の特性をテキトーに抜き出すと
- 1)富貴自在
- 2)不可視性
- 3)人に姿をたまたま見せるときはイタチやネズミとかくらいの大きさ
- 4)特定の家屋敷・倉にすみつく。あるいは家筋にとりつく。
- 5)1時的な富の獲得と関係してかたられ、長期的・永続的な富や家柄と結びつかない
- 6)神出鬼没、敏速。
- 7) 1面では残酷な性格もあり、病気や死の原因となる
- 8) その家のお初を要求する。味噌・豆腐・小豆飯をこのむ
- 9) 夜中に活動する
- 10) 1匹又は雄雌1対、あるいは75匹などと飼っている霊の数をかぞえる
てな感じで、ほとんどザシキワラシと重なる部分にゃんね。
でも、こうした動物霊の使役とザシキワラシには大きな違いがあって
- 動物霊の使役は外法だとされる
- 動物霊は術者(家筋)によって使役されるが、ザシキワラシは使役されるものではない
- ザシキワラシは家屋敷にすむが、動物霊は家筋(つまり家系)に憑く
- 犬神憑きなどのイエは、村落共同体で邪悪なものだとして差別される
つまり、動物霊には来訪神としての性格がもうにゃーんだな。ザシキワラシなどに対する信仰が零落したものだという説もあるようですにゃ。犬神やクダ狐などの動物霊が憑いているとされる家筋では、確かにそうした動物霊を祀っているイエも多いのだけれど、それはちゃんと祀らにゃーとそうした動物霊がいろいろと悪さをするので仕方なく祀っているということが多いようですにゃ。それで富を実際に得ているかというと、そうでもにゃーみたいにゃんが、まあとにかくいろいろと差別を受けているということですにゃー。
封建時代の農村というのは、その生産力はほぼ一定であったわけで、これはゲーム理論における「ゼロサムゲーム」といえますにゃ。ゼロサムゲームにおいて、他者の急速な富の獲得は非常に重大なことであり、何らかの説明を要することだにゃ。
古代末期から中世、近世を経て(多分、現在でも)個人的かつ急速な富の獲得を「外法」と関連させて捉える「信仰」はあったと思われますにゃ。しかし、特定の家筋の富の獲得を「憑きもの」のせいとする記事が文献に姿をあらわすのは、近世以降が目立つとのことですにゃ。
貨幣経済の浸透、幕藩体制(身分差別制)の確立、下級の聖・遊行僧・芸人たちの定住なんかと期を同じくすることといっていいでしょうにゃ。
固定化され閉鎖された空間において、生産力が一定であった空間において、ゼロサムゲームの行われる空間において、あるイエが富を急速に貯えることは悪だったのでしょうにゃ。ゼロサムゲームにおける富の偏在化は、そのまま他者の犠牲を意味するものにゃんから。
ゼロサムゲームの社会では成り上がりとは即ち悪であり、成り上がりへの社会的制裁として、憑きもの、というスティグマがおされたということですにゃ。