東はこういうべきだった・公共性と歴史と科学(追記で応答


はてなブックマーク - 進化論否定論者のように南京虐殺を扱う東浩紀 - 地下生活者の手遊び
まあ、東浩紀も一応予防線は張っていて
などに応答しますにゃー。

事実を扱うのは科学

自然科学は事実の共有を可能にしたという意味で、ジンルイにとって特別な地位をしめていると、科学論関連で何度か述べていますにゃ。で、これは自然科学以外の諸科学にも基本的にあてはまることだと考えますにゃ。事実というのは、自然現象にだけあてはまるコトバなどではにゃー。
よって、事実認識が問題となった文脈において、科学を持ち出すのは当然のことではにゃーでしょうか?
科学を信仰するとかいう大仰な話ではなく、事実認定に関してジンルイが作り上げたもっとも強力で有用な体系が科学であるから、事実認定において科学を持ち出したというだけのことにゃんね。

自然科学も構成されたものである

  • 自然科学は事実の探究で、歴史学(人文科学・社会科学など)は解釈である

という俗論をよく目にしますにゃ。しかし、自然科学だとて、データの【解釈】によって仮説・理論が構築されているのですにゃ。
ここでは別に自然科学理論に対する社会構築主義的な主張をしたいのではなく、データが科学的方法論や直観によって理論構成されていくものだという、穏当な話をしているだけのことですにゃー。


あえてこういう言い方をするけど、ニュートン力学というのはひとつの解釈体系であり、相対性理論もまたひとつの解釈体系ですにゃ。そして、ニュートン力学相対性理論も、真理そのものではにゃーのですね。科学理論というものは仮説であり、いうなれば解釈といっていいわけで。
ただし
ニュートン力学という解釈体系(=仮説)は、実に「使える」ことは明らかですにゃ。現代文明がその有用性を日々証明し続けている解釈体系だということですにゃ。そして、相対性理論となると、さらにその「近似」の度合いが強い、つまりニュートン力学よりもさらに精確な解釈体系だということにゃんね。
つまり

  • 自然科学理論も構成された解釈体系であり、真理そのものではない

しかし

  • その解釈の精度をあげていくことは可能である


真理そのもの、歴史事実そのもの、「物自体」に到達することはできなくとも、近づいていくことはできるのではにゃーの? 少なくともそれを志向するのが、ガクモンであり科学というものですにゃ。
歴史学においてもおんなじことですにゃ。無論、歴史学には歴史学固有の方法論はあるだろうし、そもそも歴史的事実というのはその複雑さが自然的事実の比ではにゃーだろうから、そんな簡単なものではにゃーことはわかるけどね。
とはいえ、南京で旧皇軍により組織的な虐殺があったかどうか、というのは単純な事実認定に属する話のはずですけれどにゃ。その実際の規模だとかメカニズムだとかいう話になると、そうそう一筋縄でいかにゃーだろうね。


というわけで、歴史学が解釈だというのなら、自然科学だって解釈だよ。歴史学の困難さは認めるけれど、歴史学は事実に迫ることはできにゃーっていうのも根拠がにゃーよな。
というか、自然科学ってのはニンゲンが事実に迫ることができるということを証明してると僕は思うのですにゃ。他の諸科学だってできにゃーってことはにゃーだろ♪(←楽観的

なぜ進化論をひっぱりだしたか

「歴史的事実は科学の対象にならない」、という不当な批判が進化論に対して投げ掛けられているからですにゃ。
「実験による検証ができない、再現性がない、だから進化論は科学ではなく「物語り」にすぎない。だから少なくとも創造論と対等に扱うべき」という難癖がつけられているわけですにゃ。
この難癖のつけ方が、歴史修正主義と同じ構造なんだよにゃー。
どうでもイースト氏の言説は、明らかにこの難癖にコミットしているにゃ。
チシキジンならオミットせんか!


と、ここまでがブクマに対するざっくりとした応答ね。
では、以下は増田への応答。

にゃるほど愚行権

さらに言うならば、インターネットの時代において、「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を駆逐することがそもそも可能なのか、また、彼らが公共圏の議論に参加可能なレベルの「知の技法」を身につけることが可能なのか?という問いもあるでしょう。そして、東はその可能性に完全に絶望している。ゆえに、

(同、p.189)
公民的な自覚をもたない人をどれだけ抱えられるか、そちらから社会設計を考えるしかない。これがぼくの前提です。


(同、p.231)
市民であり公民であることが正しい人間であり、それを育てていくことでしか社会は変えられないという理念に対して、ぼくは違和感がある。ぼくの関心は、むしろ、全員を市民や公民に育てあげることなど不可能だという諦めのうえで、でもそれでもいい社会をつくるにはどうするか、というところにある。

と語る。


つまるところ、東が歴史修正主義を「容認」するとすればその限りにおいてであって、歴史修正主義者がどれほどネットの中で暴れ回ろうとも、結果として歴史修正が実現しないような社会であればそれでいいし、それよりない、と言っているように私は読みます。その結果として歴史修正主義を容認したように見えたとしても、それはそうした態度の反射的効果にすぎない、とは言いうるかもしれない。


にゃるほど、イースト氏が容認しているのは歴史修正主義ではなく、馬鹿であり愚行であるということにゃんね。確かに馬鹿であることを禁止することはできにゃーし、自由主義政体においては愚行権がありますにゃ。
うん。【私的】な言論において、愚行がまかりとおることを僕も認める。

公共圏

大塚・東の対談では、公共性が問題になっているようにゃんね。
ハーバーマスの公共圏に関する議論なら読んだことがあるので、そのあたりをベースにちょっと考えてみますにゃ。ちょっと乱暴に、しかも記憶にたよってハーバーマスの公共圏概念の特徴をいくつかあげてみると

  • 公共圏は公権力に対抗するための言説空間である
  • 発言者の出自は問われないが、発言の作法(ソースの提示・論理性など)は問われる


では、増田の記事からまた孫引きね


東 (前略)個人の価値観でこういう風に生きてもらいたいとか、こういうふうに生きるべきだということを、友人や知人に言うことと、社会のみんながそれを信じるかどうかということについての予測は、まったく関係がないでしょう。その時に、ぼくは、そういう友人や知人を増やしていきたいとは思う。それこそが希望だから。でもそれは社会への絶望と両立するしかないんですよ。


大塚 それが公共性っていうことなんじゃないの?


東 それを公共性だというのであれば、南京虐殺は絶対になかった、韓国人や中国人はいますぐ死ぬべしと友人や知人に向けて書いている連中と同じになる。だって、彼らもそれは公共的な言説だと信じているのだから。だから私的な希望と公共性を混同することはできない。


大塚 (中略)たしかに、ネットの人間たちの狭い議論の中で、南京虐殺はなかったという人間と、あったという人間の間に何かが生まれると思うのは不毛なのかもしれないけど、ぼくはそこに、何かが生まれないとはやっぱり思わないし。


東 たとえ生まれたとしても、それは関係がない。問題はそんなことではなくて、ぼくが言いたいのは、いまやいろんな人間が自分の思想こそが公共的だと勘違いして、何億というホームページを開設して情報を垂れ流している。その時に、それに対して、ぼくこそが公共的なのだ、なぜならぼくは本も出しているし、東大とかも出てるからと言うわけにはいかないでしょう、ということです。もしそんな立場をとったら、それこそ不遜というものですよ。


大塚 ぼくの言っている公的というのはそうじゃない。あなたがいう公的というのは、俺のことを認めろ、ということだってのがよく分かったんで、理解はするけれども、ぼくはそういう意味では公的っていう言葉をばったく使っていない。ぼくは、つねに他者との関係によってあらわれるものを公的と言っているわけだから。


東 そんな公共性はネットによって実現されている。そのうえで、その「公共性」がいったい何を生み出しているだろうかというのが、先ほどから言ってるぼくの失望です。


『リアルのゆくえ』pp.220 - 221


いまのネットで公共性が実現されているとはまったく思えにゃーな。ちゅうか、公共性の前提にリテラシーがあるわけで。
定期的に話題になり、最近もはてな村で話題になった「リンク禁止厨」とか「俺に文句をつけるな厨」なんかはむしろ言説の公共性を拒絶して、私的な言説空間の保持に汲々としているわけですよにゃ。ミクシはその典型ですにゃ。ミクシで馬鹿なことを書いている日記にお邪魔していろいろと言うと、「私の日記に私が何を書こうが自由だ」と言い出すことが多いんだにゃ。
自分で自分の言論の公共性を否定しちゃっているんですよにゃー。


大塚 (中略)たしかに、ネットの人間たちの狭い議論の中で、南京虐殺はなかったという人間と、あったという人間の間に何かが生まれると思うのは不毛なのかもしれないけど、ぼくはそこに、何かが生まれないとはやっぱり思わないし。


東 たとえ生まれたとしても、それは関係がない。問題はそんなことではなくて、ぼくが言いたいのは、いまやいろんな人間が自分の思想こそが公共的だと勘違いして、何億というホームページを開設して情報を垂れ流している。その時に、それに対して、ぼくこそが公共的なのだ、なぜならぼくは本も出しているし、東大とかも出てるからと言うわけにはいかないでしょう、ということです。もしそんな立場をとったら、それこそ不遜というものですよ。


ならば東はこういうべきだったと思う。

  • 「ぼくこそが公共的なのだ、なぜならぼくは公共の議論の作法を身につけているからだ」

科学と相対主義

疑似科学批判者がしてはならないこと - 地下生活者の手遊びにおいて、科学と相対主義は両方とも公的な原理であると述べましたにゃ。
イースト氏は、私的領域における言説の多様性を認めている、確かにそれは公的な作法であると考えますにゃー。しかし、科学という視点がまるで欠落しているよにゃ。公共性を語るのに、相対主義【だけ】を持ち出すのはどうよ?
まあ、この増田は大塚に共感しているようだし、わざわざ僕が指摘するまでもにゃーのだろうけれど。


僕自身も、科学的思考と相対主義の両立のために、ネットで馬鹿を見かけたらなるべく馬鹿にしてあげることにしていますにゃ、面倒だけど。
これこそ、馬鹿への愛、僕は馬鹿にやさしいぞ。馬鹿にしてあげるんだから。
馬鹿に逃げ場のにゃーはてブの仕様って、けっこう公共的かもね?

追記で応答 22:22

id:chnpk
なんか公共の定義が全員バラバラのような気がするんですけど

公共圏といえば、アレントハーバーマスに依拠することが多いと思いますにゃ。アレントの議論はその著述にあたったことがにゃーのでよくわかんにゃーです。
大塚や東がどういう意味で【公共】を使っているか、いまいち不明ではあるけれど、東は「ぼくこそが公共的なのだ」というべきであった、という主張については、あまり細かい公共の定義にはいらずとも通じるものにしたつもり。

id:metalbabble
進化論は生物学の分野で証明がなされている訳だが http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96

あのですね、大先生。僕は記事でも科学理論は仮説だと述べているのですけれどにゃー。科学理論は真理そのものではにゃーのですが、それがわかんにゃーですか? 自然科学における「証明」は、数学における「証明」とわけが違うのですけれどにゃー。
進化が「あったと証明されている」のであれば、同様に南京虐殺も「あったと証明されている」といっていいんだよ。記事がまるで読めてにゃーね、さすが大先生。

id:z0rac
思想家が「公的な原理」なんぞを前提に話するようなら終わってますがなw/「公共圏は公権力に対抗するための言説空間である」と矛盾してるにゃ。/追記:あぁあれを相対主義と捉えたのか。そりゃ東氏が可哀想だ

「公的な原理」ってのは「公共性の原理」「公共圏の原理」のこと。で、自由主義政体の公権力ってのは公共圏の原理を形式的には受容せざるをえにゃーってとこね。
よって特に矛盾してにゃーでしょう。誤解を招く書き方ですまにゃーですね。
それと、東の言説は認識論的相対主義の無制限な容認ですにゃ。違うというのなら具体的に教えて。

id:Lhankor_Mhy
異論アリ 科学が扱う事実とは、追試が可能なものだよ。虐殺の事実は再現して見せる事ができない。具体的な物証の検討は科学で扱えるが、伝聞ゲームはシニフィアだから郵便的。にゃー先生と東では扱ってるモノが違うんだって

id:REVもすでに突っ込んでるけど、「科学が扱う事実とは、追試が可能なもの」なのであれば、進化論だけでなく、大陸移動説もビッグバン仮説も科学ではにゃーね。
こういう誤解が蔓延しているから、歴史修正主義と進化論への難癖を結びつけたんだけど、僕の論証が簡単すぎたかにゃ?
あと、伝聞ゲームで事実に迫ることができにゃーとしたら、裁判では「シニフィアだから郵便的」(なんか意味がよくわかんにゃーが引用してみた)なものでヒトを刑務所にぶち込んだり死刑にしたりしていることになるよにゃ。