進化論否定論者のように南京虐殺を扱う東浩紀


さて、「僕にとってはどうでもイースト氏」が発言した内容ですにゃ

どうでもイースト氏の発言を復習してみる


東 世界にはいろんな立場の人がいます。たとえば、南京虐殺があったという人となかったという人がいる。ぼくは両方とも友達でいます。このふたりを会わせて議論させても、話が噛み合わないで終わるのは目に見えている。なぜならばふたりとも伝聞情報で判断しているからです。歴史学者同士なら生産的な会話は可能でしょう。しかしアマチュア同士では意味がない。(中略)ちなみにぼくは南京虐殺はあったと「思い」ますが、それだって伝聞情報でしかない。そういう状況を自覚しているのが、大塚さんにとっては中立的でメタ的な逃げに映るらしいですが、それはぼくからすれば誤解としかいいようがない。


大塚 南京虐殺があると思っているんだったら、知識人であるはずの東がなぜそこをスルーするわけ?知識人としてのあなたは、そのことに対するきちんとしたテキストの解釈や、事実の配列をし得る地位や教養やバックボーンを持っているんじゃないの?


東 そんな能力はありません。南京虐殺について自分で調査したわけではないですから。


大塚 でも、それを言い出したら何も言えなくなる。柳田國男について発言するのは柳田國男以外できなくなってしまう。歴史学自体がすべて成立しなくなってしまう。資料はすべて伝聞情報だからね。一次資料だって誰かのバイアスがかかっているわけで、南京虐殺論争だって、そのバイアスの部分で虚構と言うのか、あるいはバイアスを取り除いたところであったと言うのか。とにかく、東浩紀っていうのは、結局は人は何も分からないって言ってるようにしか聞こえないよ。


東 ある意味でそのとおりです。


大塚 (前略)つまり君が言っていることっているのは、読者に向かって、君は何も考えなくていいよと言っているようにぼくにはずっと聞こえるんだよね。


東 ええ。それはそういうふうにぼくはよく言われているので、そういう特徴を持っているんだと思います。


大塚 そうやって居直られても困るんだって。(209〜211頁)


http://watashinim.exblog.jp/8879908/ より孫引き

東浩紀ポストモダンと情報社会」2008年度第6回(11/14)


南京大虐殺について僕はあると思っている
しかしあるという奴とないという奴がいてこれを調整するのは不可能
いくらでも理論武装することは可能
この世界で公共性を考えるなら、まずあるいう奴とないという奴がいるんだ、
ということからはじめないといけない
と書いたところ、案の定批判が来た


批判が来るに決まっている発言
まさにそのまんまの反応が来る
何故分かっているということを信頼できないのか


左翼系の公共性の議論は突飛に見える
しかし公共性の定義の通りやったらそうなる
絶対的な真理なんかない
討議は無限に開かれていないといけない
僕はそういうところが出自なのでよく知っている
そのまんま実現するなら、南京大虐殺はあるという奴とないという奴が要る、という包摂
しかし歴史的真実は一個である云々


僕の発言がどこから出てきているのか
デリダ
指導教官は高橋哲哉靖国問題』で有名
デリダを通ってしまうと、歴史的真実とか言えなくなる
言うということはデリダを裏切る
左翼とかポストモダニストが言っていたことはそういうこと
という文脈で話をしていたのだが、本では南京の部分だけが残された
それがネットにコピペ
ばーっと批判


様々な見方、無限の寛容を認める
テロリストを認めるということに近い
そういうことを言っている人間が、
右翼とか保守主義に対しては、ほとんど愚直に対して真理だと言う


これは非常に難しい問題
従軍慰安婦は、軍の命令なんかはなかったんじゃないか
南京大虐殺は、あっただろうけど規模は小さかったんじゃないか
全ては解釈ゲーム


# 去年もあったアウシュヴィッツの話


世界はこう見える、というのは複数存在する
許容するのが公共性なんだ


http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081114#p1

科学でも学問でもない

と、あちこちでコピペされているこの文をわざわざ貼り付けたのは、ここには科学論に興味があって来ている方がいると思うので、そういう見方をしてみようかと思いましてにゃ。
南京虐殺について自分で調査したわけではないですから」
「絶対的な真理なんかない」
「討議は無限に開かれていないといけない」
「全ては解釈ゲーム」
というこれらの発言は、ごくごく単純に科学的に歴史を見るということを否定しているわけですにゃ。ここで、どうでもイースト氏がご開陳なさっている態度は、どう見たって科学ではにゃーですよね、もっといえば学問でもにゃーな。
科学における討議とは確かにゲームですよにゃ。より多くのデータを包括的に秩序立てて説明できたほうが勝ち、予見までできればなおよし、というゲーム。
しかし、どうでもイースト氏の「無限に開かれた討議」というのは、根拠とか証拠とかデータを参照せずに、ひたすら思いこみだけでしゃべることも認めなくてはならにゃーようですにゃ。証拠に基づいて解釈することは求められにゃー解釈ゲームにゃんな。

進化論否定との類似性

さて、歴史を科学するといえば進化論にゃんね。
きわめて真っ当な自然科学である進化論に対して、宗教的・政治的意図からこれを否定しようとする動きが、特にメリケンにおいて顕著であることはよく知られておりますにゃ。
ざっとしたところは、wikipedia:進化論裁判をご覧くださいにゃ。
最新の動向について詳しくは忘却からの帰還をご参照くださいにゃー。


公教育における進化論の取り扱いin メリケン をものすごく乱暴に言うと

  • 1)進化があったというまっとうな科学的認識が、政治的・宗教的な意図から否定される(反進化論法の成立)
  • 2)進化論否定派に対する科学的・学問的な反論がなされる。進化論否定派はまともな反論できず(アーカンソー州反進化論法裁判)
  • 3)進化があったという説も、なかったという説(=創造論)も、どっちもあり、と進化論否定派が言いだす(アーカンソー州授業時間均等法)
  • 4)それもボコボコにされて(オヴァートン判事の判決文)、今度は一見すると宗教っぽくない珍説で進化論を否定し、公教育に入り込もうとする(インテリジェント・デザイン論)


この乱暴なまとめの「進化があった」を「南京虐殺があった」「ホロコーストがあった」に、なおしていただけると、これがまあ、いろいろあてはまっちゃうようですにゃ。
(1)馬鹿ウヨの吹き上がり、(2)その消火活動を経て、字が読めてまともな判断力をもった者に、南京虐殺はなかった、などと言うヒトはいなくなってきましたにゃ。で、そろそろ(3)なんでしょうかにゃ。
ここで、どうでもイースト氏は(3)の、「どっちもあり」と言いだす役回りをご演じくださっているようですにゃ。それと、(4)のポストモダン珍説の振りまわしのミックスですかにゃー。
歴史修正主義ってのはつくづく疑似科学にゃんねえ・・・・

ちょい気になったこと

進化論裁判―モンキー・ビジネス (ナチュラル・ヒストリー選書)

進化論裁判―モンキー・ビジネス (ナチュラル・ヒストリー選書)

この本は未読ですにゃ。この本のアマゾンのレビューに、ちょっと興味深いことが書いてあったので引用しますにゃー。


興味深い, 2007/3/4
By げるやん


創造論裁判といえば宗教バカvs良識者というイメージがあったがそうではなかった。
創造論が根強い人気を持っているのは、科学者が「科学の正当性」を過信しすぎ創造論者を軽視したこと、創造論者が理論性の勝負をさけ、心情や信仰心に訴えるという戦略をとったことにあるとする。


このあたりも歴史修正主義をめぐる議論にも通じるところがあるのかもね。
なんにしろ、この本は読んでみよう。