カネ儲けがただの趣味である社会を


天にまします我らの結果平等よ、あるいは地を這うAとB(追記アリ - 地下生活者の手遊びの追記部分に
機会/結果の平等と帰結主義 - モジモジ君のブログ。みたいな。というトラバでの反論をいただきましたにゃ。
簡単に再反論させていただく


>「潜在能力」という焦点変数を定めつつ、その測り方を脱構築する、という議論は可能なんです。

ここは了解ですにゃー。


>「結果の平等」と完全に区別された「機会の平等」論は、脱構築できないものでしかありえず、それは無謬性を主張することと変わりません。

うん。
もちろん、僕の書いた、降りられる機会の平等である「機会の平等A」というのは「結果の平等」と完全に区別されたものではありえにゃーですね。
また、この記述は
「「機会の平等」と完全に区別された「結果の平等」論は、脱構築できないものでしかありえず、それは無謬性を主張することと変わりません。」
と機会と結果をひっくり返しても成りたつよにゃ。


>hokusyuさんが「一意な幸福の基準のもとで平等になるように」なんてことを言っていると断定することはできません。(そして、僕はそんなことを言っていない、と読みます。)

ここが僕の読みとちがうところ。
hokusyuは
「機会平等の正義のもとに、あらゆる結果の不平等、あらゆる格差、あらゆる貧困が正当化されることに他ならないわけです。
でもそれだと機会平等が崩れるからある程度の結果の調整を・・・矛盾ですね。」
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081030/p1 コメ欄
と発言していますにゃ。

ベーシックインカムをめぐる議論もそうなんだけど、機会の平等と結果の平等を切断してよいわるいのタグ付けをしてるのはhokusyuでにゃーのか?


僕がいやなのは、例えば「配慮」とか「正義」が、結果の平等に固有のものだとでもいいたげな議論の進め方なんだよ。まるで、結果の平等は脱構築してはならにゃー正義そのもののようですにゃ。
また
機会の平等をDISるのにあたり、能力しかもちださにゃーとか、機会の平等がそのままゲームに参加させるための手段としか見にゃーような、ニンゲンを舐めた見方も気にくわん。


「機会が平等でも結果として収入に100倍くらい差がでるのは全然だめ。」
とhokusyuは言う。
しかしね、何度でも書くけどさ
機会の平等Aにおいては、カネ儲けなんざただの趣味なんだから、収入にどんなに差がついてもかまわにゃーのさ。カネ儲けゲームは確かにオモチロそうではあるし、どんどんやってもらってかまわにゃー。
というか、カネ儲けが単なる趣味にすぎにゃー社会を目指すべき、といってもいいかにゃ。結果平等なんかより僕はこっちのほうがいい。


カネ儲けがただの趣味っていうのはね
「オマエがサッカーがすごく上手いのは不平等だ、ずるい」
「あいつがあんなに絵が上手なのは不平等だ、ずるい」
「あのオタク野郎があんなにゲームが上手いのはずるい」

「あいつがカネ儲けが上手なのはずるい」

同じ地平にある妄言になるっていうことなのだにゃ。


サッカーの技術やデッサンの精度、ゲームのテクに結果平等なんざいらにゃー。才能と努力で好きにやるさ。
経済力もそういうものであれぞかし、ということだにゃ。


カネに目がくらんでいるのはどっちの議論だい?