呪われた双子をわかつ無慈悲なる女神

女神と権力者

ホロコーストという生死の選別とはナチの主張する「自然の鉄則」の帰結であったということは前回のエントリで述べたとおりですにゃ。
そして
トリアージもまた生死の選別であり、それは「自然の威力」のまえにニンゲンが無力であることの帰結といえますよにゃ。


この両者を僕は前回のエントリのタイトルで「呪われた双子」と形容しましたにゃ。


しかし両者には決定的な違いもありますよにゃ。


トリアージにおいては、誰が選別される側にまわるのか、なにもなされぬまま死を待つだけの残酷な運命を与えられるのかは、人の身には誰もわからにゃーのです。それが起こってみなければ、人の身にはわかりようがにゃーのです。
選別されて惨めな死をむかえるのは、にゃーにゃーいう不気味な中年♂かもしれにゃーし、東京の院にかくりされているあの人かもしれにゃーし、増田クンかもしれにゃーし、これを読んでいる君かもしれにゃー。非モテ非コミュもキモメンも老若男女も善人も悪人も関係なく、もちろん生産性も有用性も一切無関係に「選別」がなされますにゃ。
無慈悲なる運命の女神の選別はかくのごとく行われる。
だから僕は受け入れよう、トリアージを。その時に世界を憎悪しながら苦しみぬいて死ぬとしても、自然に敗北したことを受け入れざるをえにゃーだろう。


トリアージとは「公式のようなもの」に変数をぶちこんで得られた解だとSokalianはいいましたにゃ。然り。選別そのものをなしたのは運命の女神であり、ここでの「公式のようなもの」は一人でも多くの人命を救うためのリソース配分に必要なものですよにゃ。


しかし、ホロコーストという生死の選別においては、誰が選別されるのかを決定したのは権力者ですにゃ。選別されるのは「劣等人種」であり「同性愛者」であり「売春婦」であり「血を汚すもの」であり、つまりはユダヤ人・同性愛者・ロマ・障害者などであったわけですにゃ。
誰を選別するのかは権力者が決定したのであり、自然=運命の女神ではにゃー。


さて、経営において、「トリアージ」というコトバに託されたある種の選別がありましたにゃ。この選別において、どのような者を「死すべき者」として選別するのかは運命の女神だったでしょうかにゃ?
どのような者が選別されるのかは権力者=経営者が決定するのではにゃーのかな。


誰が選別されるかを権力者が決定する選別を、トリアージに擬することは失当であるばかりか許されざることなのではにゃーのか?
なぜならそれは、権力者が運命の女神=自然を擬装し、運命に対する愛を冒涜するからだにゃ。


ニーチェは運命に対する愛を説いたけれど、そのニーチェ劣化コピーしたナチは運命愛の冒涜者なのですにゃ。
ニンゲンは運命=自然という無慈悲にして豊饒なる女神と戦い、憎み、敬い、愛してきたけれども、その奴隷となることを拒否してきたのではにゃーのか?


被支配者が権力を自然とみなし、自らの境遇を運命と捉えること、このときに権力が完成する。被支配者が自らを運命の奴隷とみなすことが、権力の夢想する理想形態なのですにゃ。
自然の鉄則の体現者たることこそナチの理想であった。


トリアージとは自然の威力と無慈悲なる運命を含意していますにゃ。
だが経営における切り捨ては、自然でもなければ運命でもない、経営者=権力者が決定するのだから。
権力者が選別されるものを決める、それをホロコーストというのだにゃ。


トリアージは無慈悲なる運命の女神の子であり、ホロコーストは神を僭称する権力者の子なのですにゃ。

トリアージホロコーストをいっしょにしていたのは?

本当ならこのあたりで文章を〆たいところなんだけど、この論争についてはあまりにも読解力の貧乏なお方が口をはさんでくる*1ので定式化しておくと

  • トリアージにおいて、本当の選別者は「自然」「運命」である。この選別はニンゲンの年齢・性別・思想・門地・社会的地位・経済状況などと無関係に行われる
  • ホロコーストにおいて、選別者は権力者である。この選別は権力にとっての有用性によって行われる
  • 権力は自然を擬装する。これはナチにおいて典型的にあらわれた

以上がトリアージホロコーストの違い。そしてナチズムとホロコーストの関連性だにゃ。


経営学において、たとえ思考実験であっても、トリアージという概念をもってくることがなぜまずいのか?

  • 経営判断における選別は、経営にとっての有用性に基づいて行われる

つまり、経営判断における選別は、そもそもホロコーストと同じ「人為的選別」であるということだにゃ。もちろん、人為的選別がただちにホロコーストというわけではにゃーし経営的判断が有用性に基づくこと自体は仕方にゃーとしておこう。しかしここでトリアージをもってくるということは

  • 経営判断における選別にトリアージの論理を用いることは、人為的選別と自然・運命による選別を混同することとなる

そして

  • 権力による選別を、自然・運命による選別と擬装するものはホロコースト

大本となったhttp://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127ホロコーストだと言われるには十分な理由があるにゃ。


つまりね、トリアージホロコーストをごっちゃにしていたのは、hoksyuやApeman、あるいは「はてな村ブサヨ」の連中ではにゃーのだよ。
逆なの、逆。
ホロコーストトリアージをいっしょにするな」と歌っていたのは「村のブサヨク合唱団(含ブクマカバックコーラス隊)」のほうだったんだにゃー。

*1:しかも言い捨て・匿名で、一般人だの普通の人だのといいながら。ああ、豚臭え