ホロコーストとトリアージは呪われた双子(追記アリ)(再追記アリ)

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080812/p3#cコメント欄でのSayokというお方の発言を引用。


>CloseToTheWall
あなたはここの他の人に比べるとだいぶましな反論をしてきますね。しかし、「優生学がもし学問的に正当なものとして認められるようになっていたとしても、ホロコーストは批判されなければならないんです。」というあなたの主張は私には到底認めることができません。もし仮に今、優生学が正当であって全人類の繁栄のためには倫理に目をつむってでもホロコーストが不可欠であるという結論が出たとするならば、それはトリアージと同様に「正しい」と私は認めます。私たちは今ここにいるからホロコーストを批判できるのです。当時、優生学の正当性、そしてホロコーストの正当性を信じていた人間にホロコーストを批判することなど不可能です。逆にいえば、ホロコーストを批判するには優生学の正当性、そしてホロコーストの目的の倫理的正当性および手段の合目的性をどうにかして反証するしかありえないというのが私の主張です。それ以外の方法であなたはどうやってホロコーストを批判できるのですか?聞かせてください。


優生学が正当であって全人類の繁栄のためには倫理に目をつむってでもホロコーストが不可欠であるという結論が出たとするならば、それはトリアージと同様に「正しい」と私は認めます」、うにゃ、すごい。これは典型的な科学主義に基づく言明だと考えられますにゃ。

科学主義(Scientism)とは?

橋本治が「宗教なんかこわくない!」という著書で
仏教を英語でBuddismとよび、イスラム教をIslamismと呼ぶことは、マルクス主義をMarxismと呼ぶことと同じ。つまり、宗教とはイデオロギーなのだ、といっておりますにゃ。

うんうん
確かに儒教はConfucianismだしにゃ。道教はTaoismで神道はShintoismですにゃ。シャーマニズムとかアニミズムもよく知られた用語にゃんね。
ただし、キリスト教はChristianityにゃんな。まあ、自分たちだけはイデオロギーではない、という態度が逆にイデオロギーであることを証明しているようなものにゃんね。


さて、Scientismというコトバがありますにゃ。科学主義・科学至上主義などと訳語があてられますにゃ。*1
Buddismを仏陀主義といわずに仏教というのならば、Scientismは科学主義ではなく科学教と訳してしまっていいのではにゃーかすら思いますにゃ。
科学主義については、http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/scientism.htmlも参考にしてくださいにゃ。


ここで確認しておきたいのはScientismはイデオロギーであるということですにゃ。自然科学というのは社会的には有用なツールなのだけれど、倫理的正当性とか政策的正当性がそこから直接導かれるものではにゃー。真善美という基本的な価値のうち、自然科学は「真」に関する体系ですにゃ。真が善や美と無関係ということもにゃーかもしれにゃーが、善や美が真に従わなくてはならにゃーというのも実に偏った立場ですよにゃ。


なぜ自然科学から倫理などにかかわる判断を直接に導くことが失当かというと

  • 1)自然科学の成果というのはあくまでも仮説であり、または近似であり、原理的に「真」そのものではない

リンク先のコメント欄で「悲観的帰納法」について少し触れたけれど、過去の支配的な自然科学仮説の大多数は、のちに間違いであるとされるか、少なくとも修正を余儀なくされていますにゃ。自然科学は帰納的なガクモンなので、論理的にいっても真そのものに到達することはにゃーわけだ。

  • 2)事実命題と価値命題の分離。「〜である」から「〜べし」を直接に導くことはできない

これは経験主義哲学の大立者にして懐疑主義の巨匠であるヒュームが定式化したことで、ヒュームのギロチンと呼ばれていますにゃ。あるいは、ヴェーバーの「科学の価値自由性」という命題もありますにゃ。「実践的教則が引き出されるような規範と理想を提供することは経験科学の課題ではありえない」という命題にゃんね。*2

それでも科学は政策立案に役立つ

事実から価値を直接導くことはできにゃーとしても、事実から目を背けて価値を考えることもまたダメダメですにゃ。科学が間違いうるものであるとしても、人類が作り出したもっとも確実性のたかい事実探求の方法論であることもまた事実。
限られたリソースを有効なかたちで配分しなければならにゃー政策立案にあたって、科学の成果を参照しにゃーってのは許されにゃーよな。
このあたりについては、http://www.myu.ac.jp/gaku/151225gaku.htmがよくまとまっていると思われるので、ここから引用。


 まず、科学は、政策の目標・目的は立てられません。そこは価値判断になり、科学とは違う手続きで選ばれます。少し整った場合には、最高善から諸目的が導かれることになります。功利主義では、「最大多数の最大幸福」を最高善としここから、諸目的が導かれていました。国の政策であれば、国民が国民の意志として政策目的を決定します。地方自治体の政策であれば、地方の住民の意志として政策目的を決定します。たとえば、高齢化社会の中で、高齢者福祉(高税負担)をとるか若者の高勤労意欲(低税負担)をとるか、ということは、国民ないし住民、代議制政治では政府ないし自治体が選択します。このように、政策目標は、科学的に決められないし、科学には所与のものなのです。価値判断とか目的論といっています。理想や価値判断から政治的選択等によって政策目標Eが決まります。


 しかし、目的が与えられれば、この目的を達成する手段を見つけることは科学の仕事として出来ます。高齢者福祉が望ましいという目標・目的が与えられれば、高齢者福祉をもたらす政策手段は科学的に導けます。目的は結果、手段は原因なので、因果関係についての科学から目的に対する手段を見つけることが出来るのです。所与の目的に対する政策手段の発見には、因果律のストックである科学が非常に役立つし、これは科学T(理論)の仕事になります。ただし、科学的には1つの結果が1つの原因から出るということはまれです。1つの目的に対して複数の政策手段がありうるのが普通です。

  • 政策目標は理想や価値判断から決定され、科学には所与のものである
  • 科学的には1つの結果が1つの原因から出るということはまれで、1つの目的に対して複数の政策手段がありうるのが普通


という上記2点を強調しておきますにゃ。
つまり、政策目標を立てる責任、および複数の政策手段から選択する責任というものがあるのだということをはっきりさせたい。これが政治の責任だにゃ。

科学主義による政策立案の本当の問題点

Sayok大先生のアイドルっぷりはあまりにも香ばし過ぎるので、この「第二次トリアージ論争」限定のIDで颯爽と登場なさったSokalianの言説を参照してみましょうにゃ*3
捨て駒にされる将棋の駒は「かわいそう」か - 吾輩は馬鹿であるのコメント欄より


>CloseToTheWall様
> 極限状況を例示して極限状況でしか通じない「資源の有限性がその合目的的な最適配分〜」という方法論をまずはじめに教えようとしただけで、それが平時に通用する理論として教えていたわけではない、と理解しているわけですね。

違います。
乱暴な話ですが、公式のようなものがあるとお考え下さい。この公式は「資源(時間も資源と考えます)の量」と「目的」(例えば、救うべき人を最大化すること)を代入すれば、その「目的」を「資源の量」の制約内で達成するための手法が出てくる、と。
そこに「極限状況」を代入したら「トリアージ」が出てくるよ、というのが福耳先生の話です。当然、「極限状況」でない状況を代入すればもっと穏当な解が得られるでしょう。
大切なのは、これは「公式」(機械的な方法論といった方が正確でしょうか)の説明であって、その公式からどのような結論が導かれるかということには何も触れていないということです。


「公式のようなもの」に「資源」と「目的」(例えば、救うべき人を最大化すること)と「極限状況」をぶちこむと、オートマチックに「トリアージ」という解が導かれるということにゃんな。そしてその解を受容するべきだと。
さあ、ここで、この「公式のようなもの」に「資源」と「目的(例えば、救うべき人を最大化すること)」と「極限状況」、それに「アーリア民族の素晴らしさと優生学が正しいという仮定」をぶちこんでオートマチックに「ホロコースト」がでてきたらどうする?


Sayok大先生は、公式に変数をぶちこんだ解がホロコーストだったらそれは正しいと仰せでしたにゃ。「公式のようなもの」の変数に値を代入すれば自動的に解が得られ、それを受容せよという立場であればこれが論理的な帰結なんだにゃ。
Sayok大先生はあまりにも素敵なアイドルだったけれど、基本的にはSokalianのロジックと「同型」なんでにゃーのか?


トリアージ機械的に生死を選別するのは、選別せざるをえない現場のニンゲンの心理的負担を少しでも軽減し、その責任を問わないという意味合いも大きいようですにゃ。そしてホロコーストにおいても、それがもし「公式」に変数をぶちこんで得られた最適解であるのならば、選別にともなう倫理的問題、心理的負担を軽減することができるわけですにゃ。
科学主義による決定というのは、さきほど言及した政治の責任を忌避した決定であるといえますにゃー。最初に引用したSayok大先生のお言葉をもう一度かみしめてみよう。優生学が正しいのなら全人類の繁栄のためにホロコーストも正しいと認める、というSayok大先生のお言葉、政策立案において科学に全面的に依存するこのお言葉から、Sayok大先生の主体性とか、ひとりのニンゲンとしての責任を感じとれるエスパーなお方がいるかにゃ?

科学主義、自然崇拝、ナチ

以前に、自然へのマゾヒズム - 地下生活者の手遊びという記事をあげていますにゃ。ここから一部を再掲するにゃ*4。リンク先ではフロムの「自由からの逃走」を引用しているけれど、ここでは同じような内容をヴィルヘルム・ライヒファシズムの大衆心理」*5から引用をしますにゃ。あくまでこれは補足的内容なので、リンク先のフロムの記述を読んでいただけると幸いですにゃ。


ドイツ・ファシズムにおける理論上の核心は、その人種理論にある。
中略
この人種理論は「自然の鉄則」を前提にしている。この鉄則によると、いかなる動物も、同種の動物としか交配を許されないというのである。奴隷状態におかれた時のように、極端な環境下でのみ例外的にこの法則はまげられ、異種交配を許される。しかしその場合に、造物主は必ず仕返しをする。と云うのは、雑種を生みだしたり子孫を不妊症にするからだ。「優」「劣」二つの種族のいかなる交配も、両者の中間種しか生みださない。それに造物主は、いつもより高度の発展をもくろんでいる。だから種の品質低下は自然と反する。上巻P133


かれらによると、この法則はまた国家にもあてはまる。アーリア民族と「劣等」民族の「血の混合」が、つねに文化の没落、つまり「優秀」民族の心・身レベルの没落を生じ、累積的な腐敗の発端になるのは歴史の教えるところである。上巻P134


この考えは、ダーウィン自然淘汰の仮説から論理を借りてきている。より高度の種は、より低度の有機体から進化するというダーウィンの発見は、多くの点で革命的発見であったと同時に反動的要素も含んでいた。さらにこの考えは、ファシズムイデオロギー帝国主義的機能を擬装するのに役立っている。と云うのはもしアーリア民族が文化創造の唯一の担い手ならば、かれらは世界征服を運命づけられていることになるからである。上巻P136


ナチのホロコーストは「自然の鉄則」にのっとったうえでの論理的帰結、公式に変数をぶち込んで得られた解なのですにゃ。
もちろん、ナチの人種理論は現代科学からみるとグダグダなシロモノですにゃ。しかし、当時は白人中心主義の人種理論が科学として受容されていたのも事実なんだよにゃ*6。自然の鉄則=人種理論は実行されなければならにゃーわけだ。そこではニンゲンの主体的判断をする義務が免責される。まさに「自由からの逃走」だにゃ。

  • 「自然の鉄則」に従うことにより、人間の主体的な責任が問われないことになる

これが大規模に行われたのがホロコーストなのではにゃーのか?
個々の殺戮行為に心理的な負荷がかかり、それを最小化するための「最適解」として「合目的的」にガス室が使われたということらしいけれど、そもそも民族浄化が自然の鉄則を行うための最適解とされた時点で、そこにはニンゲンの主体的な責任は存在しなかったのですにゃ。ホロコーストにおいては、ニンゲンの主体的な責任を免除する装置があらゆる段階において何重にも仕組まれているということにゃんね。


さきほど僕は、科学主義Scientismはイデオロギーだといいましたにゃ。このイデオロギーの正体は自然崇拝であり、自然へのマゾヒズムであると僕は考えますにゃ。
そして、崇拝される自然とは、人称なき神にほかならにゃー*7ヒトラーは造物主・神・自然を崇拝と従属の対象として同列に並べていますにゃ。
そこではニンゲンは責任主体であることを放棄し、ただ「自然の鉄則」の奴隷となって殺し、あるいは殺されるだけの存在となるのですにゃ。神に帰依するかのごとく。

文化とは自然=権力の否定である

半年前にはじめたこのブログの最初の記事で、人類学者ピエール・クラストルの「国家に抗する社会」の紹介をしましたにゃ。この書籍に収録されている「交換と権力/インディアン首長制の哲学」という論文から引用


権力の拒否に自らの全体を賭けているのは、文化そのもの、自然からの差異の上限としての文化そのものに他ならないのだ。そしてまた、文化は自然に対し常に変わらぬ深さをもった否認をつきつけはしないだろうか。拒否におけるこの同一性からわれわれは、これらの社会が権力と自然を同一視していることを発見する。文化は、権力と自然両者の否定なのだ。それも、両者が、文化という第三項に対してもつ関係-----否定的関係----- の同一性のみを共有する、相互に異なった二種の危険という意味でなく、文化は権力を自然の再出現として把握するという意味での否定なのだ。P57


クラストルの論理展開を追う余裕はにゃーので、結論部だけの引用ですにゃ。気が向いたらいつかこのオモチロイ論文を紹介しますにゃ。
ここでいいたいのは、

  • ナチの権力とは、まさに「自然の再出現」としての権力であった

ということなのですにゃ。自然を否認しようとしないとき、僕たちはこの自然=権力の奴隷となるのではにゃーのか?


自然への反抗は、文学のテーマのひとつであったといえるかもしれにゃー。例えば、ドストエフスキーの創造した「地下生活者」


これはしたり、いったいその自然の法則だの数学だのが、ぼくになんのかかわりがあるというのか? なぜか知らぬが、ぼくにはそんな法則だの二二が四だのはさっぱり気にくわないというのに。むろん、ぼくにはその壁を額でぶち抜くことはできないだろう。もともとぼくにはぶち抜くだけの力もないのだから。しかし、だからといってぼくは、そこに石の壁があり、ぼくには力が足りない、というそれだけの理由から、この壁と妥協したりすることはしないつもりだ。


それではまるで、そういう石の壁がほんとうに安らぎであり、ほんとうにそこに平和の保証めいたものが含まれてでもいるようではないか。しかもその理由たるや、それが二二が四であるというだけのことにすぎないのだ。ああ、なんというばかばかしさだ!
地下室の手記新潮文庫版P20


理性を憎悪する反動的小役人(ついでにいえば典型的非モテ)であるこの地下生活者は、たぶんナチの人種理論を、Sayok大先生のご高説を、Sokalianの「公式」を、鼻で笑ったでしょうにゃ。
「その理由たるや、それが二二が四であるというだけのことにすぎないのだ。ああ、なんというばかばかしさだ!」と。

トリアージとは何なのか?

文化は自然を否認するものであるとしても、現実的に自然の力は強大ですにゃ。ニンゲンの文化的営為など消し飛んでしまうことが確かにあるんだよにゃ。災害というのはその典型ですにゃ。
ニンゲンが自然に敗北する、そのときにニンゲンは文化的存在たることを否定され、「自然の鉄則=二二が四」の敗北者となるのではにゃーのだろうか。だけど、敗者だって敗者なりのささやかな抵抗をする。
自然を否認すべき文化が自然に制圧されたときの、ほんのささやかな抵抗がトリアージなのではにゃーだろうか。


自然に屈服し、生と死を選別する側にまわることは文化的存在であるニンゲンにはたえがたいことでしょうにゃ。それは語りえることではにゃーのだろう。トリアージを経験した医師は多くを語ることはなく、自殺するものもいるのですにゃ。


自然の威力が文化を制圧した、その制圧下における奴隷敗者の無力な抵抗をトリアージというのなら、経営という権力がトリアージを持ちだすのは何を意味するのか?
経営という権力が「自然の再出現」として自らを構成しようとしているのではにゃーのか?
しかし例えばドラッカー経営学は、本来ならば「自然の否認」に自らをかけるすぐれて「文化」的なものではなかったのかと、トリアージ論争において指摘されたのでしたにゃ。


トリアージホロコーストは、双子なのかもしれにゃー。
自然を否認して僕たちをニンゲンにしてくれる文化から逃走して、「自然の鉄則=二二が四」の奴隷となったものが執行するホロコースト
そして
自然に制圧された敗者が、なおニンゲンたらんとしてあがくささやかな抵抗がトリアージ


トリアージとは必敗者としてのニンゲンの業なのかもしれにゃー。
だから、ホロコーストのさなかにもトリアージがありえるのだにゃ。
例えば、映画「シンドラーのリスト*8

追記 24日17:30ごろ

長い文をよんでくれてありがとね>みにゃさま
ブクマコメに応答しますにゃ。

まず、科学主義という語の用法に疑義が表明されていますにゃ。
スケプティック・ディクショナリ日本語版、科学主義の項より引用


科学主義 scientism
科学主義は、科学的意見だ けが有意義であるとする自己欺瞞的な考えである。この主張は科学的ではな いため、もし真ならば意義がないことになる。したがって、科学主義は誤り であるか、または意味がない。


あるいは、ランダムハウス大英和から引用すると


sci・en・tism [sái1ntìzm] n.
1 科学者的態度[方法];科学者ぶったやり口.
2 (しばしば軽蔑的) 科学主義.
3 科学的言語,擬似科学的言語.


というわけで、特におかしな用語法を使っていることにはならにゃーかと。
id:imo758 のいうとおり、科学scienceとは謙虚なものであると僕も思うのだけれど、本来は謙虚であるはずの科学をして万能イデオロギーとみなしてしまう誤謬を科学主義scientismといっているわけですにゃ。つまり、科学主義とは科学を装ってはいるが科学ではないものであり、広義の疑似科学であると考えていいのではにゃーでしょうか。
ここでは突っ込む余裕はにゃーのですが、疑似科学言説とはほとんど科学主義的なものであるともいえると考えますにゃ。


では個別に
>Midas
「前回」と「今回」が何を指しているのかよくわかんにゃーです。説明をいただけるとありがたい。


>filinion
科学との距離のとりかたは、僕もよくわかんにゃーです。僕はけっこう現代科学を信用しているけどにゃ。


>REV
科学至上主義攻撃に誤爆や自爆は確かに多いですにゃ。疑似科学批判批判で自爆誤爆は僕もたくさん見ていますにゃ。
僕のエントリに誤爆があるということなら、教えていただけるとありがたい。


>rs6000moe
にゃんにゃかにゃーん、にゃにゃにゃーん。

再追記 25日13時ごろ


>T-norf
フロギストン説もエーテル説も間違っていたし、ニュートン力学すら限定的な近似値だったという科学史上の事実を踏まえているつもりですにゃ。
また、
たとえ事実であるとしても、そこから規範を直接導くことはできない、という条件もつけているので、このあたりの前提に不同意というのは無意味にゃんぜ。


>menika
ismの話は導入のレトリックだよ。Scientismが擬装された自然崇拝イデオロギーであることを否定しにゃーと、僕の論は否定できにゃーよ。



本文で触れなかった関連エントリ
「世界は総体として一」、つまり二二が四 - 地下生活者の手遊び
呪術、宗教、資本主義:トリアージをめぐって - 地下生活者の手遊び
神ならばわれを殺せ。死の練習と自由について - 地下生活者の手遊び

*1:科学主義というコトバについては、科学的に考えようとか科学の成果を重視しようとかいうまともな立場を指すこともあるみたいだけどにゃ

*2:プラグマティズムからは、「事実と価値をきれいに切り分けることはできんだろ」という異議申し立てがされていますにゃ。パトナムにも「事実/価値二分法の崩壊」という著書があるしにゃ。ただ、これらは事実と価値には切り分けられない場面が多いとはいっているけど、事実と価値をいっしょくたにしてよいと主張しているわけではにゃーんだ

*3:このIDはソーカル事件アラン・ソーカルAlan Sokal)に由来するものでしょうにゃ。つまり、Sokalianはこの問題が疑似科学の問題だと考えていたということにゃんね

*4:個にゃん的には愛着のあるエントリ。ブクマによる反響はほとんどナシだったけどにゃ。まあブクマってそんなもんだろ

*5:ライヒこそ「裏フロム」ですにゃ。フロイトの欲動理論をもとに、フロムはセックス抜きの理論をつくり、ライヒはさらにオルガスムス理論に突っ走った。また、フロムもライヒ精神分析マルキシズムを融合しようとした

*6:優生学や人種理論に対する批判は当時もあったのも事実だけれど

*7:現代社会の「人称なき神」ってなんだろ? 「一般人」かにゃ? (げらげら

*8:見てにゃーけど(てへ