にせの思考

さらに、「自由からの逃走」からネタを仕入れますにゃ。
疑似科学というものを考えるうえで示唆的な視点を紹介いたしますにゃ。


いま、ある島にいると仮定しよう。そこには、漁師や都会から避暑にきたひとたちがいる。天気がどうなるか知ろうと思って、一人の漁師と二人の都会人に尋ねてみる。かれらはみな、ラジオの天気予報をすでに聞いている。


漁師は、われわれが尋ねるまではまだその意見をきめていなかったとすれば、天気についての長年の経験と交渉をとをもとにして、考えはじめるであろう。かれは風向きや温度や湿気などが、天気予報のためにどんな意味をもっているかを知っている。そこでさまざまの要因をそれぞれの意味にしたがってはかり、はっきりとした判断に到達するであろう。
かれはおそらくラジオの天気予報を思い出し、それを引きあいに出すであろう。しかしそれにしても、まず自分自身の意見が先にあり、それにラジオの天気予報が一致するかどうかをいうであろう。もしちがっておれば、かれは自分の意見の根拠を、とくに慎重に検討するであろう。しかしここが本質的な点であるが、かれがわれわれに語るのは【かれ】の意見であり、【かれ】の思考の結果である。


都会からきた二人の客の一人にその意見を聞いてみると、かれが知っていることは、天気についてはよく解らないし、また理解する必要もないと感じていることだけである。かれはただ、「私には解りませんね。ラジオはこういっていましたよ」と答える。


第二のひとはそれとはちがったタイプである。かれはじっさいには天気についてほとんどなにも知らないのに、非常に多くのことを知っていると思いこんでいる。かれはどんな質問にも答えなければならないと感じている。
かれはちょっと考えてから、「かれの」意見を教えてくれる。その意見はラジオの予報と一致している。かれにその理由をきくと、風向きや湿度でそう考えたと答える。


この人間の言動は、外からみたところでは漁師の言動と同じである。けれどももっと立ちいって分析してみると、かれはラジオの予報を聞き、それを受けいれたということが明らかになる。しかし、かれは天気について自分の意見をもたなければならないと感じているので、ほかの権威ある意見をただくりかえしているだけなのを忘れ、この意見はかれ自身の考えで到達したものと思いこんでいる。かれはわれわれにしめした理由が、かれの意見の前提となっていたと思っている。
しかしこれらの理由を吟味してみると、もしまえもってかれが一つの意見(天気予報のこと、引用者注)をもっていなかったならば、かれはその結論に到達できなかったことは明らかである。それらはじつは、にせの理由にすぎず、ただかれの意見をかれ自身の思考の結果であるかのようにみせかけているだけである。かれはみずからの意見に到達したように思っているが、じっさいには気がつかないままに、ある権威の意見を受け入れているのにすぎない。


天気について、かれが正しくて漁師が誤っているいることも、十分ありうることであろう。しかしそのときにも、正しいのは「かれ」の意見ではない。それにたいして、漁師はじっさい、「かれ自身」の意見において、誤ったのである。
P209〜210 引用者が適時改段


ながながと引用しましたにゃ。
ここで重要なのは「それらはじつは、にせの理由にすぎず、ただかれの意見をかれ自身の思考の結果であるかのようにみせかけているだけである。かれはみずからの意見に到達したように思っているが、じっさいには気がつかないままに、ある権威の意見を受け入れているのにすぎない。」というくだりにゃんね。
フロムはこれを「にせの思考」といっていますにゃ。


この三人の登場人物において、疑似科学陰謀論などにもっともたやすく「感染」してしまいそうなのは、「にせの思考」をする都会人ですよにゃ。そして、この「にせの思考」がもたらされる原因は、「自分の意見をもたなければならないと感じている」からなのですにゃ。


しかし、僕たちは生活するうえで遭遇する多くのことについて「自分の意見」を持つことなんて、そもそも不可能なのではにゃーのか? 特に、自然科学とか医療について、ド素人が「自分の意見」を持つことなんてできんのか? 現代科学や医療の成果をフォローし受容しているだけでシロウトとしてはたいしたものにゃんぜ。


僕たちは、一方において「自分の意見をもたなければならないと感じている」し、
また一方においては、
現代は多くのことどもが複雑化し専門化して「自分の意見」をもつことが困難になっていますにゃ。
にゃんか、ダブルバインドにゃんねえ。


疑似科学のビリーバーさんって、きっと真面目なヒトが多いんだろうにゃ。
「自分の意見をもたなければならないと感じている」のではにゃーだろうか。
にせの思考、というものは「自分の意見をもたなければならないと感じている」者に入り込んでいくものなのでしょうにゃ。


ほとんどの疑似科学は、フロムのいう にせの思考 の典型だと思いますにゃ。