自然へのマゾヒズム

昨日のつづき
権威主義的性格についてはググるといくらでもでてくることと思われますにゃ。ここではフロム「自由からの逃走」から脂っこいところを引用いたしますにゃー。


注意すべきもっとも重要な特徴は、力にたいする態度である。権威主義的性格にとっては、すべての存在は二つにわかれる。力を持つものと、もたないものと。それが人物の力によろうと、制度の力によろうと、服従への愛、賞賛、準備は、力によって自動的にひきおこされる。力は、その力が守ろうとする価値のゆえにではなく、それが力であるという理由によって、かれを夢中にする。かれの「愛」が力によって自動的にひきおこされるように、無力な人間や制度は自動的にかれの軽蔑をよびおこす。無力な人間を見ると、かれを攻撃し、支配し、絶滅したくなる。P186


権威主義的性格の人生に対する態度やかれの全哲学は、かれが感情的に追求するものによって決定される。権威主義的性格は、人間の自由を束縛するものを愛する。かれは宿命に服従することを好む。宿命がなにを意味するかは、かれの社会的位置によって左右される。兵士にとっては、それはかれが進んで服従する上官の意志や鞭を意味する。小商人にとっては、経済的法則がかれの宿命である。かれにとっては、危険や繁栄は、人間の行動によって変更できる社会現象ではなくて、人間が服従しなければならない、優越した力のあらわれである。P188


個人の生活を直接に決定する力だけではなく、一般に人生そのものを決定すると考えられる力も、不変の宿命として感じられる。戦争があることも、人類の一部が他のものによって支配されていることも宿命である。苦悩の量がいつまでも減少しないことも宿命である。P188


すべての権威主義的思考に共通の特質は、人生が、自分自身やかれの関心や、かれの希望をこえた力によって決定されているという確信である。残されたただ一つの幸福は、この力に服従することにある。P189


権威主義的性格のもつ勇気とは、本質的に、宿命やその人間的代表者や「指導者」などが決定したことがらを、たえしのぶ勇気である。不平をいわずたえしのぶ勇気である。たえるということ、これがかれの最高の美徳である。それは苦悩を終わらせようとしたり、苦悩を減少させようとする勇気ではない。宿命を変えることではなく、それに服従することが、権威主義的性格の英雄主義である。P190


と、このあたりの記述を読んでいて僕が連想したのは、ちょっとまえのトリアージ問題なのですにゃ。僕もしつこいよにゃ、我ながら。
だってさ
「小商人にとっては、経済的法則がかれの宿命である。かれにとっては、危険や繁栄は、人間の行動によって変更できる社会現象ではなくて、人間が服従しなければならない、優越した力のあらわれである。」
「すべての権威主義的思考に共通の特質は、人生が、自分自身やかれの関心や、かれの希望をこえた力によって決定されているという確信である。」
なんてのはどうよ? トリアージ仕方ないよね、って大合唱はまさにこういう心理に基づくものではなかったのかにゃ? トリアージからナチを連想するのって、基本的に正しかったのだと思いますにゃ。
無論、ウヨクのなかの浅はかな連中の心性を非常によく表したものであると読むことも可能ですけれどにゃ。


さて、以上に引用した箇所は、第五章「逃避のメカニズム」からのものですにゃ。第六章「ナチズムの心理」ではもっと直裁にこうした心理とナチとの関連が述べられていますにゃ。
ヒトラーは「わが闘争」において、自らの権力欲を合理化していますにゃ。
まず第一の合理化は、自分の目的はドイツの繁栄だけでなく、文明一般の最良の利益に奉仕しているのだということ。そして第二の合理化とは、権力欲とは自然の法則に基づいているというものなのですにゃ。


自己保存の本能と他人に対する支配力との同一視は、「人類の最初の文化は、たしかに、家畜によりも、劣った人間の使役に依存していた」というヒットラーの推定のうちに、とくにいちじるしく表現されている。かれは自分のサディズムを「すべての知恵の残酷な女王」である自然に投影している。そして、この自然の保存法則は「必然の鉄則およびこの世界において最良最強なものが勝利の権利をもつということと結びつけられているのである」。P249


マゾヒズム的憧憬はヒットラー自身にもみいだされる。かれにとっては、服従すべき優越した力は神、運命、必然、歴史、自然である。じっさいにこれらの言葉はかれにとってはすべてほぼ同じような意味、すなわち圧倒的に強い力の象徴という意味をもっている。P256


神、摂理、運命よりもおそらくヒットラーを感銘させる力は自然である。人間にたいする支配を自然にたいする支配でおきかえることが、最近四百年間の歴史的発展の動向であったのに、ヒットラーは、ひとは人間を支配でき、また支配しなければならないが、自然を支配することはできないと主張する。P257


かれは人間は「自然を支配しているのではなく、自然の法則と秘密を少しばかり知ることによって、この知識をもたない他の生物の主人としての地位に上ったのである」という。ここでもまた、自然はわれわれが服従しなければならない偉大な力であるが、生物はわれわれが支配すべきものであるという同じ考えがみられる。P258

  • ちゅうわけで、前回のエントリのクイズの答えは「ヒトラー」でしたあ。


昨日のエントリからの流れとして、
共依存→共棲、サド・マゾ性格→権威主義的性格→ナチの自然崇拝
というところまでたどり着いたわけですにゃ。
むちゃくちゃ乱暴に書くと、ニンゲンは自らの無力感をなんとかしたくて他者に依存し、服従すべき権威を求めるけれども、その権威の最終形態というのは「神」とか「自然」にいきつく、ということですよにゃ。



ナチ、進化論とくると、即座に「優生主義」が連想されますにゃ。そして、ナチに限らず優生主義というのは、いわゆるヒュームの法則に反する誤謬だとこの問題について多少なりとも興味のあるものには周知のところですよにゃ。

  • 「〜である」から「〜べきである」は導き出せないという主張

というのは、つまり

  • 事実から規範は導けない

さらに言い替えれば

  • 自然科学から道徳は導けない

などという話になってくるわけですにゃ。「水からの伝言」なんかもヒュームの法則からアウトなんだよにゃ。まあ、あれは道徳単体としてもできが悪すぎるけど。
ちゅうわけで、この「である」から「べき」を導く思考法というのは実に評判がワリイ。差別主義の思考の温床であると考えられていますにゃ。


しかし、ここでフロムの議論を参照しながら僕が問題としたいのは

  • 「〜である」から「〜べきである」を導き出す欲求はなぜでてくるのか

という点にあるのですにゃ。
無論、「である」と「べき」を混同しやすいというニンゲンの認知の仕様の問題もあるだろうけれど、「である」から「べき」を導きたいという欲求、いわば

をフロムは説明しているのではにゃーだろうか?


大衆社会において僕たちは無力であり、科学技術は行き詰まっているような感じがしており、結局は「自然」にひれ伏すしかにゃーと僕たちの多くが思っているように思われますにゃ。
現代人にとって、「人間は自然を支配しているのではなく、自然の法則と秘密を少しばかり知ることによって、この知識をもたない他の生物の主人としての地位に上ったのである」「自然はわれわれが服従しなければならない偉大な力である」といった発言を頭ごなしに否定できるものでしょうかにゃ? 僕にはできにゃーんだよね。


現代の権威主義にとって、僕たちが多かれ少なかれ共有せざるをえにゃー権威への感覚として、最後のよりどころとなる権威とは、ヒトラーと同様に「自然」なのではにゃーのか?
例えば、環境運動や自然保護運動に、この「服従すべきは自然」という感覚は多く見られるのではにゃーだろうか? 環境運動にある種の神秘主義*1、自然崇拝を感じるのは僕だけではにゃーだろう。
トリアージを仕方ないと考えるとき、あるいは自然保護運動において、またあるいはもろもろの現代的な終末思想において、神なき僕たちの崇拝の対象として厳然として「自然」があるのではにゃーだろうか?


自然へのマゾヒズムは、必ずニンゲンの世界(の弱者)へのサディズムとセットになっているはずだにゃ。市場とか優勝劣敗とか性差別とか、多くの抑圧や差別のキーワードはまさに「自然」なのではにゃーのか?


そして、この「自然へのマゾヒズム」は、ひょっとして広い意味でのscientism*2のぬか床になっているのではにゃーのだろうか? ここに、反体制=オカルト=反自然科学へとつながる回路があるのだにゃ。

*1:僕の用法では神秘主義は悪口ではにゃーですが

*2:一般には科学主義と訳されるが、個にゃん的には「科学教」あるいは「科学至上主義」と呼びたい