虐待・共依存、そして自由からの逃走

虐待の問題をもうちょい突っ込もうと思って、いわゆる共依存(co-dependency)の話を調べておりますにゃ。共依存については、ウィキによると未だ学術用語とはいえにゃーようだけれど、極めて重要な概念であると僕は思いますにゃ。
共依存と虐待に関する書籍としては、斎藤学の入門書を何冊か読んだ程度なんだけど、共依存について書かれていることが、高校生のころ読んでその後何度か読み直しているフロムの「自由からの逃走」と問題意識において重なる部分が非常に大きいと思うので、そのあたりを突っ込んでみますにゃー。


さて、共依存については、wikipedia:共依存によると


共依存という言葉は、学術的用語でなく、明確な定義はない。当初の定義としては、アルコール依存症患者を世話する家族が、結果として、依存症の回復を遅らせている現象を指した。この状況では、アルコール依存症患者が家族に依存するため、自立する機会を失い、家族もまたアルコール依存症患者の世話をすることに自らの生きがいを見出し、悪循環を生み出していると説明される。


現在では、単にアルコール依存症患者との関係だけでなく、「ある人間関係に囚われ、逃れられない状態にある者」としての定義が受け入れられている。例えば、暴力を振るう夫とそれに耐える妻の関係、支配的な親と愛情を受けたい子供の関係、相手から愛されることが目的となっている恋愛関係などがある。


とういうように、もともとはアルコール依存症という薬物依存の治療の現場からでてきた概念で、これが薬物だけでなくギャンブルや恋愛などの嗜癖行動に関する家族関係の病理と考えられてきているわけですにゃ。
その典型例としてhttp://yukiduke.jp/kyoizon.htmlなどを見ていただきたく思いますにゃ。このあたりの記述と、前回のエントリにある心理臨床大事典の記述あたりを頭に入れて、リンク先冒頭の記述とフロムの記述を読んでいただきたく思いますにゃ。


まず、リンク先冒頭の記述より


 A子さんは同棲をしています。同棲相手の彼は大学生なのですが、最近は大学にも行かずにぶらぶらとしています。アパートの家賃や食費などはみんなA子さんがパチンコ屋のコーヒー嬢をしながら稼いでいます。この仕事はミニスカートをはいてやる仕事で、客の中にはお尻や脚を触ってくる客がいるので、A子さんはあまり好きではありません。この前は客にスカートの中を盗撮されてしまいました。しかし、他のバイトに比べて時給が良いので、我慢してやっています。彼のことが大好きですし、彼のために働いているのだと思うと辞められません。彼には私がいないとダメなのよと思うと気持ちが高ぶります。


 しかし、彼はとても嫉妬深く、自分の友人と親しく話していただけで激怒し暴力を振るってきます。夕方から怒り出して、深夜になってもおさまりません。どれだけ違うと否定しても、いろんな言葉尻を捉えてしつっこく非難してきます。夜に入って暴力を振るい出しました。いたぶるような暴力は深夜にも及び、最後は腹を思いっきり蹴られて息ができなくなりました。


 A子さんは朝方、彼が寝ている間にアパートを抜け出して友人の家に逃げました。姉に電話をしましたら、「もう別れなさいよ。私と一緒に暮らせばいいじゃない。同じことを何度も繰り返さないで。もう分かったでしょ。あの男はそういう奴なのよ。」と言われました。姉は、同棲している彼が何度も暴力を振るって、そのたびに逃げ出して、そしてそのたびに元に戻ったのを知っているのです。自分でも、今度こそは別れようと決心します。


 姉と一緒に暮らすアパートを探していると、彼からメールが入ってきます。「俺が悪かった、戻ってきてくれA子。おまえがいないと、俺はダメなんだ。」いつものことです。無視していると、彼の友人から電話が入ってきました。友人によると彼はとても反省していて、今度こそ二度と暴力は振るわないし、自分でも働くと言ってバイトを始めたというのです。大学にも行きだしたと言うことでした。


 友人が最後で良いから一度だけ会ってみないかという言葉にふらふらとして、一度だけということで会うことにしました。彼と会うと、彼はとても優しい眼差しで見つめながら、「俺、自分を変えるから。おまえに側にいて欲しいんだ。」と言います。本当に今度こそ大丈夫なようです。「側にいて欲しい。」と言われると胸がきゅんとして彼を守ってやりたくなります。彼を信じてよりを戻すことにしました。姉に電話すると、「あんたのことだから、そういうことになると予想していたよ。」と言いました。


 2ヶ月後、彼はまた同じように暴力を振るい、A子さんはまた逃げ出しました。これでもう何度目でしょうか?


「自由からの逃走」(以下、引用者が適時改段)より


たとえば、ある男はその妻をひどく残酷にとりあつかい、くりかえし、いつでも家をでていってもよろしい、またそうしてくれたほうがありがたいといっている。ときには妻はひどくいためつけられ、家をでることさえあえてできない。それで二人とも、けっきょく男のいうことが真実であると信じている。


ところがもし妻が勇気をふるいおこして、家をでると宣言するやいなや、二人にとって、まったく予想しなかったようなことが起るであろう。男は絶望的になり、うちのめされ、でていかないでくれと哀願する。彼女なしには生きていけぬといい、どんなに愛しているかなどという。通常、女は自己主張の勇気をなくし、夫を信じようとし、決心をひるがえして、とどまる。するとまたやりとりが始まる。男は古い行動をくりかえし、女はいっしょに暮らすことに困難を感じ、爆発し、男がまた絶望し、女がまたとどまる。このようなことが何度もくりかえされるのである。


何千何万という結婚やその他の人間関係がこの循環をくりかえしている。そしてこの魔術的な循環は断ちきられることがない。
P163〜164


共依存の事例と、フロムの紹介する事例がまるで同じものであることは明らかですにゃ。そして、こうした事例は現実にありふれたものであり、僕たちの多くはこうした循環にとらわれているのであるということも理解できると思いますにゃ。
ここで、共依存という概念の射程が、薬物や嗜癖の依存症・虐待などという家族などの心理についてのものであること、そしてフロムの射程がナチズムを始めとした広範な社会心理学的なものであることをここで確認しておきますにゃ。
また、フロムがここで「魔術的循環」という言葉を使ったこともまた確認しておきたいにゃ*1


では、共依存とは何か?
手持ちの「家族依存症」斎藤学著 誠信書房 P163より引用すると


共依存(この本では共依存症と呼びます)というのは、アルコール依存、薬物依存などの「セカンダリィ・アディクション(二次性の嗜癖)」の基礎となる「プライマリィ・アディクション(基本的な嗜癖)」、つまり嗜癖的人間関係のことです。
その基本は他人に対するコントロールの欲求で、他人に頼られていないと不安になる人と、人に頼ることで、その人をコントロールしようとする人との間に成立するような依存・被依存の関係が共依存症です。


フロムによると、


サディズム的傾向には、たがいにからみあってはいるが、三つの種類がある。第一には、他人を自己に依存させ、かれらに絶対的無制限的な力をふるい、「陶工の手のなかの陶土」のように、かれらを完全に道具としてしまうものである。もう一つは、他人を絶対的に支配しようとするだけではなく、彼らを搾取し、利用し、ぬすみ、はらわたをぬきとり、いわばたべられるものはすべてたべようとする衝動からなりたっている。この欲望は、物質的なものにも非物質的なものにもむけることができる。サディズム的傾向の第三のものは、他人を苦しめ、または苦しむのをみようとする願望である。この苦しみは肉体的なものもあるが、精神的な苦しみであることがいっそう多い。その目的は、実際にひとをきずつけ、ほろぼし、困惑させること、あるいはそのような状態にある人間を見ることである。P162


苦悩や弱さが人間の努力の目標になりうるということを、証明するような現象が存在する。すなわちマゾヒズム的倒錯である。ここにはきわめて意識的に、なにかの方法で苦しみ、そのことを楽しもうとする人間がいる。P166


マゾヒズム的およびサディズム的な努力のいずれもが、たえがたい孤独感と無力感とから個人を逃れさせようとするものである。P169


マゾヒズム的努力のそまざまな形は、けっきょく一つのことをねらっている。個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと、いいかえれば、自由の重荷からのがれることである。P170


心理学的には、この二つの傾向は一つの根本的な要求のあらわれである。すなわち孤独にたえられないことと、自分自身の弱点とから逃れでることである。私はサディズムマゾヒズムのどちらの根底にもみられるこの目的を、共棲(symbiosis)と呼ぶことにしたい。心理学的意味における共棲とは、自己を他人と(あるいはかれの外側のどのような力とでも)、おたがいに自己自身の統一性を失い、おたがいに完全に依存しあうように、一体化することを意味する。P176


共依存(co-dependency)と共棲(symbiosis)はほとんど同じ概念であることがわかるのではにゃーだろうか? ちゅうか、1942年にこの概念を提唱していたとはさすがとしかいいようがにゃー。共依存は家族関係、人間関係の病理として受け取られているけれども、フロムにとっては当初から社会心理学的な病理、つまりナチズムやファシズムを受容し肯定する心理として、この「共依存=共棲」を問題視していたのですにゃ。


ここからフロムは、このサドマゾ性格を社会心理学的に一般化した議論にはいっていきますにゃ。


この「サド・マゾヒズム的」という言葉は、倒錯と神経症という観念と結びついているから、ことに神経症的ではなくて正常な人間をさすばあいには、私はサド・マゾヒズム的性格という言葉を使うかわりに、「権威主義的性格」と呼ぶことにしたい。


有名な「権威主義的性格」という用語がここで出てくるのですにゃー。
つづく

*1:そもそも魔術とは循環であるのだからトートロジーっぽい修飾なのだけれど、キャッチコピーとして優れている