恣意的なる始源

先日のエントリで反体制とオカルトは切り離せにゃーとか書いたので、今度は右の側と歴史修正主義が切り離せにゃーというネタを書こう。よき魔法とよき魔法がもたらすもの - 地下生活者の手遊びで書いたことの続きでもありますにゃ。


静タン*1孔子伝(中公文庫版)を非常に面白く読んでおりますにゃ。


以上に三年の喪と七廟説とを挙げて、古典としての「書」に基づくとされるそれらの説が、何ら根拠のないものであることを明らかにした。儒家の説く礼節は、多くはこのようにかれらの創作になるものである。P102


三年の喪や七廟説・八佾説など、真正の古典の上ではありもせぬ礼楽説を、儒家はなぜやかましく論ずるのであろう。それはかれらが、かくある世界よりも、あるべき世界としての秩序を考えていたからではないかと思う。かくある世界を墨守するのは、巫史の学である。しかしあるべき世界は、理想をもつ世界でなければならない。現実の混乱は、秩序の崩壊に由来する。秩序は回復されねばならぬ。秩序の創始者である周公の時代を、また周公の創始した礼楽を、再現しなければならぬ。P103


儒家の主張は、当時に実際に存在した慣行的秩序を、古代の聖王が定めた秩序として固定化することに、その目的があったとしなければならない。しかもその慣行的秩序は、春秋の末期には著しく乱れてきている。その礼楽は崩壊しつつある。これをその本来のあるべき姿に回復しなければならない。それは周公の定めた礼楽に復帰することにほかならない。これが儒家の考え方であった。古典は、その目的に利用された。これを託古改制という。孔子の立場は、まさにこの託古改制にある。託古とは規範を過去におくことであり、改制とは改革であり、革新であり、ときには変革でもあった。孔子は一方において熱烈な周公の賛美者であり、復古主義者であるとともに、また一方では、各地の反乱者の招きに、進んで応じようとした謀叛人でもあった。P104〜105


ユートピアとはそもそも「どこにもない場所」を意味する言葉ですにゃ。
このユートピアを何処に置くかによって、その政治的立ち位置の重要なところが決まるように僕には思えますにゃ。そして宗教とか神話は、ユートピアを始源におくことが多いですにゃ。死の知られていないユートピアが始源にあり、そこで何らかの不幸な事故、あるいは悪意の介入によりニンゲンは不幸な存在となったという神話はたくさんありますにゃ。エデンの園はそのひとつ。
エリアーデ「オカルティズム・魔術・文化流行」より引用


ほとんどの伝統的文化において、死の到来は始源に起こったひとつの不幸な出来事として示される。死は最初の人間、すなわち神話的始祖には知られていなかった。それは原初の時代に偶発した何らかの出来事の結果である。


儒家孔子にとっての始源とは周公にゃんね。現実の混乱とは始源にあった秩序の崩壊に由来するものであり、秩序は【回復】されなければならにゃーわけだ。

  • 始源に向けての秩序回復こそ、右派の基本テーゼである

のであると僕は考えますにゃ。


そして、この始源というのは、実は恣意的に設定が可能なんだよにゃ。
というのも、僕たちはせいぜい100年しか生きられにゃーもの。各々が各々の始源というものを持ってしまうのですにゃ。
「俺が子供のころはよかった。みながやさしく誇りに満ちていた。それが今はどうだ? ひどい有り様じゃないか。良き時代は失われてしまった。」
こういう心情、ものすごくありふれているよにゃ。こういう心情に「韓国人がでかい面するようになってからだ」と加えれば民族差別主義者のいっちょあがり。「女がでかい面するようになったからだ」と加えれば性差別主義者いっちょあがり。「犯罪者の処遇が甘いからだ」となれば厳罰論者いっちょあがり。
困った考え方っていろいろあるけどさ、この「恣意的なる始源」に基盤をおく考え方はそうとうにはた迷惑なものが多いのではにゃーだろうか。
そして
真正の保守とは、始源の恣意性をゆるさにゃーことではにゃーかと思う。


しかし、恣意的ならざる始源というものは不可能なのではにゃーのか?
どこにも存在しにゃーユートピアたる始源に向けて秩序を回復しようとするとき、必然的に【託古改制】が、つまりは【歴史の修正】がなされてしまうのではにゃーだろうか?


以下付け足し
左派にとってのユートピアは、未来にあるのではにゃーかと思いますにゃ。左派の未来志向をよく表しているのが、カミュの「正義の人々」にゃんね。ナロードニキが爆弾テロをしようとしたら、子供が乗っているので出来なかったという話。
現実を拒絶する者にはユートピアが必要ですにゃ。そして、ニンゲンの精神性というものは現実の拒絶にこそその真骨頂があるんでにゃーのか? 犬や猫は現実を拒絶しにゃーもんな。

*1:白川静のこと。にゃんか色白の巨乳アイドルのような名前なので、僕のうちでは静タンと呼ぶことになっている