疑似宗教と堕落した神話

5月2日のエントリならびに5月3日のエントリのつづき。やっと手がつけられたにゃ。
macska dot org » 米国を席巻する「新しい無神論者」の非寛容と、ほんの少しの希望に対して、その記述はミスリーディングなのではないのかと、macskaさんの文章のどのへんをぼくはミスリーディングと思ったか - left over junkにおいて指摘されていますにゃ。ひきつづき「新しい無神論者」エントリへのコメントにお応え - *minx* [macska dot org in exile]も関連したエントリにゃんね。


詳しくはリンク先を見てもらうとして、問題となっていたのは「宗教的な含みのある」「記述語の選び方」にゃんね。
僕はぜんぜん問題だと思わにゃーんだよな。
ここでまたエリアーデに登場を願いますにゃ。『聖と俗』 ミルチャ・エリアーデを読んでくださいにゃ。まさにメリケン無神論者のことがここには書いてありますからにゃ。
リンク先の記述はエリアーデ「聖と俗」のラスト部分、P192〜204の部分ですにゃ。このリンク先部分には 中略 とされた部分があるのだけれど、略された部分を補いつつ脂っこいところを抜き書きで引用いたしますにゃ。


近代の非宗教的人間は新しい生存の状況を引き受けた。すなわち彼は自己をただ歴史的状況の下において認識されるような人間の状態以外には、いかなる種類の人間性も認めない。人間はみずから自己を作る。そして彼が実際にみずから自己を作りうるのは、ただ彼が自己自身と世界を非聖化する程度に応ずる。聖なるものは、彼が彼の自由を獲得する障碍である。彼は完全に神秘性を失うまでは、彼自身になることができない。彼は最後の神を殺してしまうまでは、実際に自由ではありえないのである。P193


俗なる人間は欲すると否とにかかわらず、常になお宗教的人間の態度の痕跡を留めている。ただこれらの痕跡はその宗教的意味を奪われているだけである。彼が何をなそうと、彼は継承者である。彼は彼の過去を終局的に抹消し去ることはできない。P194


〈宗教を喪失した人びと〉の大多数は、実際には宗教的振舞い方や、神学、神話から解放されていない。これらの人間は、戯画まで歪められ、したがってそれとは認め難くなっているものの、やはり宗教的魔術的な諸観念の瓦礫の山に往々埋もれているのである。P196(リンク先で略された部分)


しかしながら堕落した偽装の宗教的振舞いは、〈小宗教〉や政治的神秘論のなかにのみ存するものではない。みずから明らさまに世俗的、反宗教的とさえ称する新運動のなかにもそれは認められる。P197(リンク先で略された部分)


宗教喪失者の大多数は、依然として疑似宗教と堕落した神話に関与している。P199(リンク先で略された部分)


公然と非宗教を名乗る人間ですら、その性状の根底においてはなお宗教的に指向された態度を保存している P201


みずから非宗教的と称する近代人にあっては、宗教と神話は彼らの無意識の闇のなかに〈隠れ〉ていると言っても過言ではなかろう。P203


宗教喪失者あるいは反宗教者の性状の根底にも宗教と神話が隠れており、それが振る舞いにあらわれるのだと、これでもかと言われておりますにゃ。
経験的なものに帰依する者の心情を心理学者ユングに言わせれば、以下のようになるにゃ。
タイプ論P338から引用


「永遠の」理念に対する畏敬の欠如を経験主義者は現実的事実に対するいわば宗教的な信仰によって埋め合わせる。その人の構えが神の理念を基準にしようが、物質という理念を基準にしようが、あるいは現実的事実を彼の構えの決定的要因にまで高めようが、心理的には同じことである。


中略


いずれにせよ現実的事実に対する無条件の帰依は心理学の立場からはけっして非宗教的と呼ぶことはできない。


メリケン無神論者に関する「宗教的な含みのある」「記述語の選び方」は正当なものであり、macskaの洞察力を示したものだといえるのではにゃーだろうか。
さらに引用を続けるにゃ


人類学者レヴィ=ストロース「野生の思考」の訳者大橋保夫のあとがきにはこうあるにゃ


本書の直接の主題は、文明人の思考と本質的に異なる「未開の思考」なるものが存在するという幻想の解体である。未開性の特徴と考えられてきた呪術的・神話的思考、具体の論理は、実は「野蛮人の思考」ではなく、われわれ「文明人」の日常の知的操作や芸術活動にも重要な役割を果たしており、むしろ「野生の思考」と呼ぶべきものである。それに対して「科学的思考」は、かぎられた目的に即して効率をあげるために作り出された「栽培思考」なのだ


こういう記述は探せば他にもいくらでも出てくると思うにゃ。宗教学・心理学・神話学・人類学などの知見は一致しているにゃ。曰く

  • 呪術的・宗教的心性こそが人類の心の基底にある。われわれ人間は理性的な生き物ではない。


さらに、法思想の研究においてもこのような見解が支持されるようですにゃ。
「世界の法思想入門」千葉正士著 講談社学術文庫版 より「結論 諸法思想の比較的特徴」より引用 P290〜292


まず法と宗教との関係について、西欧法思想の特徴がいちじるしい。言うまでもなく、法と宗教の分離を憲法上の大原則としていることである。これは、近代国家法としては普遍的原則であることに疑いない。しかるに、他の法思想はむしろこれと異なる。ユダヤイスラムヒンドゥー・仏教の各法思想は、宗教と一体である。固有法思想も現在まで報告されているものは、祖神信仰・超自然力信仰・精霊信仰あるいは創造神信仰など何らかの宗教的信仰と結びついている。


中略


だが、西欧法思想も、法理論としては法と宗教を峻別するけれども、法文化としては、両者は、峻別されていないどころか、反対に不可分の関係にある。西欧文化は、諸民族の固有文化とキリスト教が同化した結果であり、西欧人の行動基準はキリスト教倫理か少なくともそれの支配する社会道徳である。


中略


法と宗教の分離という法理論上の原則は、法が自己完結の規範論理体系であるという観念上の要請を概念的に尊重するための文化的な形式だと言わねばならない。逆説的に言えば、法と宗教は、文化的に不可分だからこそ法理論上分離しておかないと、それぞれ固有の特質が混同され存在意義が損なわれると解されて、いわば分業体制がとられたものである。


「法と宗教は、文化的に不可分だからこそ法理論上分離しておかないと、それぞれ固有の特質が混同され存在意義が損なわれると解されて、いわば分業体制がとられたものである。」なんてところは目からウロコにゃんよ。
このように、社会科学の分野において、理性中心主義・理性至上主義の発想を批判したものとしては、古典派経済学の前提である合理的経済人というモデルを批判したhttp://web.sfc.keio.ac.jp/~endo/sen.htmもこの中にいれてもいいかもしれにゃー。



僕は反理性とか非理性に居直るつもりはまったくにゃーです。僕たちは理性的な生き物でにゃーことは確かだけど、理性的であろうとすることはできるからですにゃ。あるいは理性的であろうとすることしか道はにゃーのだともいえる。

  • 自らが非理性的であることを認め、理性的であろうとする志向性の中にしか理性はない

そして

  • 自らを理性的と規定したとき、理性は野蛮に転化する


ドーキンスらによれば、肝心なことは理性を尊重し、根拠の無いことを事実だと信仰しないことだという。たとえばスターリンら共産政権の指導者たちはたしかに無神論者ではあったかもしれないが、恐怖政治や個人崇拝の制度を作り、かれら自身が信仰の対象ーー理性の審判を受け付けないものーーとなってしまったために間違いをおかした。すなわち対象が神であれ指導者であれ問題なのは信仰であり、理性こそ世界のあらゆる問題に対する答えなのだという。


違う。
問題は信仰ではにゃー。
キリスト教徒や共産主義による大虐殺は、自らを理性的と規定することで現出する野蛮によってもたらされたのだにゃ。宗教を非理性と断じ自らを理性の側におく考え方、信仰を理性の欠如と見なす考え方、これらは間違いなく野蛮に転化している。


では、「自らを理性的と見なす野蛮」と「理性的であろうとする志向性」をどう見分ければいいのでしょうかにゃ? あらゆる線引き問題と同様、両者を明確に区別するものはにゃーとは思いますにゃ。
しかし、両者の典型を見分けるにあたって重要な指標はありますにゃー。
それは「寛容さ」ではにゃーだろうか。