洗脳というコトバを使って見えてくるもの

さて、まず昨日のエントリのまとめと追加をしておきますにゃ。

  • 教育には必ず洗脳という側面がある

と、こういう極端なレトリックを使うことで見えてくることもありますにゃ。
教育を行う権利というのは、洗脳する権利ともいえるわけで、ガキを洗脳する権利(教育する権利)をめぐって、公権力と家庭で綱引きがあるということですよにゃ。


自分のガキを教育する権利というのはそもそもは私的領域における権利といえるわけで、これは基本的には公権力側の私的領域への侵犯なのではにゃーかとも思われますにゃ。ただし、私的領域における愚行権の行使という理屈*1を、最終的には他者であるガキに対して無制限に適用するわけにもいかにゃーでしょう。エホバの証人における、ガキへの輸血拒否を愚行権の行使として認めるわけにはいかにゃー。
領域侵犯にもそれなりの理があるといっていいでしょうにゃー。


また、洗脳というレトリックを使うことで、「水からの伝言」や「ゲーム脳」などの馬鹿概念を公教育の場に持ち込むことの暴力性も明らかになると思いますにゃ。
「おまえがいい話だと思っただと? そんな理由で俺のガキを洗脳していいってのかあ?」
ってな感じですかにゃー。
教科としての道徳ってのがそもそも暴力的だと僕は確信しているしにゃ。