親の意に沿わぬ洗脳

4月17日のエントリのコメント欄に、ちょちょんまげ*1から以下の問い掛けがありましたにゃ。
曰く


>もし猫さんが米国住まいで、お子さんが公立校で「the Pledge of Allegiance」(忠誠の誓い)を毎日言わされていたら、どう思われます?


うにゃー。
せっかくだから持って回った答え方をするにゃ。


最近、うちの三歳児が
「男の子は青、女の子はピンク。だからわたしはピンクのがいいの」
などとノタマワリますにゃ。
僕も僕の相棒も、ジェンダー意識注入教育には批判的だし、そういう教育をした憶えがにゃーので
「男の子は青で、女の子はピンクっていうのは保育園で教わったの?」と聞くと、そうだと言う。ああやっぱり「社会」からジェンダー意識を注入されるものにゃんなあ、などと思ったわけですにゃ。制度としての公立保育園にはいろいろと感謝しているし、良心的な先生にあたっているとも考えているけど、僕も僕の相棒も「男らしさ・女らしさ」の注入というところはちっとばかし気にくわにゃー。
気にくわにゃーのだが、問いただしたり文句言ったりするまえに、「待てよ」というのがあるんだにゃ。話が「水からの伝言」だったり「ゲーム脳」だったりしたら、躊躇せずにバッツンバッツン文句いってるんだけどにゃ。


「男の子は青で、女の子はピンク」ってのは、もしかしたらトイレのタイルの色のことを保育園の先生は言っているのかもしれにゃー。男が青系で女が赤系という記号は、少なくとも日本国内のトイレにおいてはそれなりに一般的だにゃ。こういった一般的な記号を理解しておくことは合理的なんだよにゃ。本人が生きていくうえでも楽になるともいえるわけで。


教育には【必ず】洗脳という側面があるにゃ。社会の意識をガキの柔らかい頭に注入するということは、実はガキにとっても社会にとっても悪い話ではにゃーわけだ。

  • 教育とは、本人および社会のためになる洗脳である

っていうふうに僕は考えていますにゃ。


しかし、この「教育は洗脳だ」という開き直りの理屈は、以下の2つの場合には問題がでてくるわけですにゃ。
1)親の意識と社会の一般的な意識が一致していないとき
2)注入される意識が差別的だったりしてどうしようもないとき


1)については、公私二元論とこども - 地下生活者の手遊びで書いたコトとも関連するんだけど、自分のガキを教育する権利というのは、もともときわめて私的な権利なんだよにゃ。僕たちは国家が教育機関を運営することをアタリマエだと思っているけれど、それこそ僕たちが洗脳された結果といえるかもしれにゃー。公教育ってのは、近代国家に特徴的な装置の代表格ですにゃ。
教育を国家権力の責任で行えるのなら、権力が自分たちに都合のいい思想をガキどもに注入することもできるようになるともいえるわけにゃんな。だからこそ、「中立」が公教育のもっとも大事なタテマエになるんでしょうにゃ。

実際に、日本でも明治時代に公教育制度がはじまったころには、教育の権利を国にとられてたまるかという動きなんかもあったらしいにゃ。まあ実際には、労働力としてガキをあてこんでいた親が反発したということがほとんどだったらしいけど。ただ、これは親のエゴとだけみるべきでなく、前近代の教育観ってのは「労働=教育」にゃんからね。親の仕事を継ぐのなら、学校に通う必要なんてにゃー。学校ってのは資本主義にとって必須の装置ではあっても、職人や農民に必要なものではにゃーからな。
メリケンでは、国家が教育をやることに対する反発が未だにあるみたいにゃんね。あの国には、良きにつけ悪しきにつけ、反近代の感覚が生きているようですにゃ。


公教育が親の好みと異なるとき、選択肢のひとつは私学だにゃ。私学というのは、自分好みの教育をガキに受けさせるために、親が団結してカネを出す制度だという見方もできるわけですにゃ。アーミッシュなんかはコミュニティの中で教育も済ませているようだし、学校に通わせにゃーで私的に教育しちゃうという考え方もありますにゃ。
しかしこれは基本的に金持ち向け、あるいは何らかの確固としたコミュニティの成員がとりえる選択肢だにゃ。僕には無理。あくまで公教育の「中立」というタテマエを要求するしかにゃーだろう。


2)についてなんだけど、これは差別というものを考えるときについてまわる話でしてにゃ。
社会に差別主義的な意識が色濃くある場合、差別主義者として生きるほうが合理的なんだよにゃ。例えば、女性を差別する性差別主義的な社会で成功するためには、女性には基本的に2つの戦略があるわけにゃんね。

  • 強者である男性の意に沿うように生きる。美しく貞淑な妻というモデルが典型。
  • 強者である男性を直接のモデルとして、男性以上に男性的な存在として成功する

どちらも、制度としての性差別を受容した上で、差別構造を変えることなく自分が成功するやり方ですにゃ。言っとくけど、どちらの戦略に対しても非難するつもりはにゃーですよ。


この考え方からすると、先ほど僕が書いた「男が青系で女が赤系という記号は、少なくとも日本国内のトイレにおいてはそれなりに一般的だにゃ。こういった一般的な記号を理解しておくことは合理的なんだよにゃ。本人が生きていくうえでも楽になるともいえるわけで。」ってのはビミョーなのよ、我ながら。
一般的な記号だから受容しろってのは、そのまま差別主義的意識をずるずると受容し続けていくことにつながるよにゃ。またそもそも、男女二項対立が一般的な記号として浸透しきっている文化こそが問題だ、というラディカルな立場にも説得力があると僕は考えてしまっているわけで。にゃんとも悩ましい。
現実的には、ちまちまと疑義を呈していくことになるんだろうにゃ、僕は。


ちゅうわけで、いろいろ書いたけどちょちょんまげの問い掛けにはまるで直接的に答えてにゃーので、そのあたりは続きで

*1:直接にやりとりのある相手は原則的に呼び捨てがmyルール。中二っぽいだろ?