反復される、手役がほぼ必ずブタのポーカー

へなちょこ歴史修正主義ネタをあげるにあたり、いくつかのブログを参照しておりましたにゃ。そのあたりの雑感などをちょいとあげてみますにゃ。

まず歴史修正主義の手口について - rna fragmentsから引用


「議論の捏造」による「足止め効果」


ホロコースト否定論でもそうだし、南京事件否定論でもそうですが、過去に論破された主張をそのまま、あるいは微妙に変形して繰り返す、ということがよくあります。というか、この手の「議論」に遭遇したら8割か9割くらいの確率でそういうループ化した「議論」の一部だと考えて間違いないです、経験上。

こういうのは議論とは言いません。これが議論だというなら全ての議論は決着不能ということになってしまいます。人の言う事を聞かない人が延々主張を繰り返せばどんな議論だってループ化できてしまいますから。こういうループ化したやりとりは門外漢には「議論が継続中である」という印象を与える効果があります。特に主張の細部に専門用語や専門知識がちりばめられていると一見まともな議論かと錯覚してしまうものです。そういう意味でこれは「議論の捏造」と言ってよいでしょう。

多くの人が感じていることだとは思うけど、つくづく疑似科学ニセ科学)と同じことにゃんなあ。創造科学なんて同じ話が延々とループするお話の典型にゃんからね。引用した「こういうループ化したやりとりは門外漢には「議論が継続中である」という印象を与える効果があります」というあたりは、まさに創造科学が現代進化論に対して仕掛けている戦略なんだよにゃ。
正当な進化生物学とかまともな歴史学の立場のヒト(特に専門家)が、議論のテーブルにのらなければ、「やつらは逃げた」といいふらし、議論のテーブルにのったらのったで、そこには議論すべき何ものかが少なくともあるのではにゃーかという印象操作をすることができるわけだにゃ。創造科学だの歴史修正主義だのは本当は空っぽで、手役は何にもにゃーわけ。それでも「彼ら」は勝ちにきているわけだにゃ。
手役が豚でも勝てるゲーム? それってポーカーか?


この「ループ化したやりとり」って、ちょっと特殊なポーカーなのではにゃーだろうか?
このポーカーにおいては、賭けるのはゲームのプレイヤーではなく、入れ替わりの激しいギャラリーなんだにゃ。競馬みたいなものにゃんね。どちらに強い手が入っているかを、ド素人のギャラリーが判断して賭けるという変則ポーカー。
創造科学や歴史修正主義の連中の言うことなんざ中身があった試しはほとんどなく、つまりは手役はまずブタだにゃ。そして、対するプレイヤーであるまともな学者などは、相手の手がブタであることはわかっている。しかし、賭けるのはそんなことを知らにゃーギャラリーだ。


この変則ポーカーなら、創造科学などのニセ科学歴史修正主義にとって、プレイをするだけの価値がある。手役はブタでもブラフだけで自分たちに張ってくれるギャラリーのヒトタチが必ずいるにゃ。手役はブタなので武器はブラフしかにゃーけれど、陰謀論とかいろいろとブラフのネタにはことかかにゃーし、ギャラリーはすぐに入れ替わるから同じブラフをくり返せる。


民主主義社会における公開の議論って、そうじて変則ポーカーなのかもしれにゃーな。*1




もうひとつ、非常に納得がいった「なにが歴史修正主義の問題なのか」についての私見 - Close To The Wallから引用


私は歴史修正主義の最大の問題点は、往々にして差別主義と渾然一体になっていることが多いことだと思っている。人種差別、民族差別、性差別的な主張がしばしばセットになっている。中国、朝鮮、韓国人へのレイシズムが特に多い。


中略


私が歴史修正主義者や右派の一部をひどく嫌う理由はここにある。彼らはある種の人々に対する差別的、攻撃的言動を好んで表明し、民族や文化を理由にしたレッテル貼りを繰り返す。歴史修正主義者とレイシストをおまえは一緒くたにしている、と言われればそうなのだが、やはりかなり被っていると思っている。

まともな人間ならば、そのような差別的、攻撃的言動が含まれた言論を簡単には信用しないだろう。その種の議論では攻撃性が勝ってしまっていて、まともな議論にならず、冷静に考えた末の結論ではなく、結論ありきの議論であることが透けて見えるからだ。

歴史修正主義、それもカジュアルなものにはしばしばこうした差別主義が透けて見える。むしろ私は歴史修正主義というのは現代における差別主義の一例であると言うべきではないかと思っている。歴史修正主義がまったくもって議論にすらならない代物であると私が認識しているのはそういう理由からだ。


差別主義の一例というよりも、差別主義の根幹、差別主義の定義にかかわることなのではにゃーだろうか? 社会科学あるいは自然科学をねじ曲げることのない差別主義なんてあっただろか?
そして、これらの差別主義からは、学問的に決着がついているにもかかわらず「ループ化したやりとり」がウジのようにいくらでも涌いて出てくるのだにゃ。いくつか具体的に見てみますにゃ。

これは今日リンクした先とか、さらにそこからリンクしたさきとかで、「学問的には決着」していることが、字が読めるのならわかるはずだにゃ。

http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/genderfreeQandA.htmlを読んでくれれば、いろいろと決着しているとしかいいようがにゃーことがわかるだろにゃ。まあ、女性差別に関しては、生物学的還元主義とか文化相対主義の誤用とかいろいろネタはあるんだけどにゃー。従軍慰安婦問題も格好の例だし。

  • 若者差別主義・少年差別主義の表現として、少年犯罪が増えているとかいうデマ

このネタはこのブログでもこれからじっくりやりますけどにゃ。
少年法は、少年を成人より軽い処分で済ませるための法律だ」という「都市伝説」なんかについては2008-04-03という話もあるけど。

  • 沖縄のヒトタチへの差別主義の表現として、集団自決強制の否定

これも学問的には決着のついた話のはずにゃんが。僕もおいおい取り上げるつもり。

生物学的にトンデモとはいえにゃー優生学の形態もあるんで厄介だけどにゃ。


じっくり探せばまだまだあるだろうけどにゃ。
手役がブタの変則ポーカーが何度でもくり返され、差別主義と陰謀論のブラフがまかりとおるということにゃんね。


ちゅうわけで、谷川俊太郎の詩を絶望的な気分で読みましょうにゃ>みにゃさま*2


くりかえす 谷川俊太郎


くりかえしてこんなにもくりかえしくりかえして

こんなにこんなにくりかえしくりかえしくりかえしくりかえして

くりかえしくりかえしつづけてこんなにもくりかえしてくりかえし

いくたびくりかえせばいいのかくりかえす言葉は死んでくりかえすものだけがくりかえし残るくりかえし


そのくりかえしのくりかえしをくりかえすたび


陽はのぼり陽は沈みそのくりかえしにくりかえす日々

くりかえし米を煮てくりかえしむかえるその朝のくりかえしにいつか夜のくることのくりかえしよ


云うな云うなさよならとは

別れの幸せは誰のものでもない


私たちはくりかえす他はないくりかえしくりかえし夢みあいくりかえし抱きあつてくりかえしくるよだれよ

もう会えないことをくりかえし

いつでも会うくりかえし会わないくりかえしの樹々に

風は吹き


今日くりかえす私たちの絶えない咳と鍋に水を汲む音

おお明日よ明日よ


何とおまえは遠いのだ

*1:はてなブックマークとかはてなスターって、変則ポーカーにおける投票行動かもね

*2:本来これは希望をうたった詩なのかもしれにゃーのだが