今西のアイデンティフィケーション理論

伊谷純一郎の発言を紹介しようと思ったけど、伊谷氏の発言の背景には今西(敬意をもって呼び捨て)の考え方があるので(伊谷氏は死ぬまで今西を敬愛していた)、先に今西について簡単に。

今西の何が偉かったのか?
にゃんといっても、動物生態学のフィールドワークにおける個体識別の導入だろにゃ。wikipedia:個体識別
今西が導入した個体識別は、当初は欧米の研究者にどう思われ、そしてそれが何をもたらしたかについて、サルの研究者ド・ヴァールの「サルとすし職人」P116から引用しますにゃ。


(欧米の研究者たちは)サルを見た目だけで区別できるはずがないと言いはり、個体に名前をつけるなど、救いようのない擬人化だと批判した。日本の研究者は、サルの社会生活を過大評価しすぎではないか? もし人間にサルの区別ができたとしても、当のサルたちはおたがいの見分けがつくのか?


中略


今西が及ぼした影響を振りかえってみると、異なる種の調和といった発想や、還元主義への反発が、ダーウィン主義と摩擦を起こした理由は明らかだ。しかし霊長類行動の研究に今西が果たした功績は、やがてパラダイムの転換を引きおこし、それは霊長類学のみならずその他の分野でも採用されるに至る。この事実は何があっても色褪せることはない。今西学派の基本前提や、動物社会の研究に民族史を応用する手法は、現在では当たり前のことになっている。オオカミにしろゾウにしろ、寿命の長い動物をフィールドで観察するとき、当然のごとく研究者はまず個体を識別し、その一生を追跡するだろう。それは、西洋では当初ばかにされ、強い抵抗を受けた東洋のテクニックを活用していることになるのだ。

今西の導入した個体識別の方法論が日本のサル学を世界に認めさせ、それがハヌマンラングールの子殺しを日本人学者が観察するきっかけとなり、結局は自らが攻撃したダーウィニズムの1つの論理的帰結である社会生物学の正しさを立証していったのは皮肉なことにゃんね。
また、個体識別についての当初の欧米の研究者の否定的態度は、科学の研究における文化バイアスの存在を雄弁に物語っていると思いますにゃ。人類学における自民族中心主義と同様に、生物学における人間中心主義は有害なバイアスにゃんなあ。キリスト教においては、人間中心主義のバイアスは強力に働きそうだにゃー。

今西の理論についてのド・ヴァールの評価は


今西の見解は斬新な理論ではなく、大きな進化の枠組みのなかで特定の面を強調した主張と見ればよいし、そうするべきだった。


さて、今西はサルのアイデンティフィケーション(identification)について考えておりましたにゃ。これ、要するにサルのアイデンティティ確立がどのようになされるかというお話なんですにゃ。
ニホンザルには群れごとに「文化」があるというのは、wikipedia:幸島のサルのイモ洗い行動で知られるようになりましたにゃ。それぞれ個性のあるサルが、群れごとに伝承される文化の担い手でもあるわけで、各々のサルがどのように群れの一員としてアイデンティティを獲得していくのか、ということを今西は考え始めた。
これは、それまで提出されていた学習理論を詳細に検討した結果、群れの統合とか複雑な社会関係の調整といった高度な文化にかかわる問題は、既存の理論では説明がつかないと今西は判断し、アイデンティフィケーションを考慮する必要があるのだということのようですにゃ。


にゃんか、思弁的な心理学っぽいだろ? ソノトオリ。
今西がここで考えていたモデルはフロイト(後にエリクソン)のアイデンティフィケーション理論なんですにゃ。ニンゲンのガキが父親に自己同一化してそのパーソナリティを取り込み、自我を形成するというお話しにゃんな。ヒトと異なり、サル社会においては父親が誰かはわからにゃーので、アイデンティフィケーションの対象は群れのボスということになる。子どもはボスにアイデンティフィケーションすることによって、一人前のオスザルになっていくのではにゃーだろうか、と。


この理論は、当初はニホンザルの「自我」をよく説明すると思われていたのですにゃ。当時は、ニホンザルの社会は閉鎖系で、ボスを中心とする同心円構造になっていると思われていましたにゃ。群れの中心部にはボスとメスザルと赤ん坊がおり、ボスの庇護を受けながらある程度育つ。3〜4歳になると母親の庇護から離れ、中心部から周縁部に移って独立し、生長するにしたがってステイタスをあげ、だんだんと中心部に向かう、と。これがニホンザルのオスのライフヒストリーの典型だとすると、確かにアイデンティフィケーション理論に説明能力があるように見えますよにゃ。


ところが
今西本人が導入した個体識別ベースの長期観察により、ニホンザルのオスはそうしたライフヒストリーを紡ぐわけではにゃーということがわかってしまったのですにゃ。ボスザルまでもが群れを離れてヒトリザルになるという事例まであり、ニホンザル社会においては、すべてのオスザルがいずれ群れを離れてヒトリザルになるという習性を持つことがはっきりしてしまったのだにゃ。
言い換えると

  • ニホンザルの群れの本体とは、いつも群れの中心にあって動かないメスザルであり、ニホンザル社会とは母系社会であった。

ユダヤキリスト教的な父=息子関係を軸にしたフロイトの理論の応用では、母系的なニホンザル社会におけるサルの「心理」を説明することができなかったわけですにゃ。
このアイデンティフィケーション理論の挫折のあと、今西は独自の進化理論を提唱しはじめるのですにゃ。

と、これでやーっと長い前振りが終わりましたにゃ。
伊谷純一郎氏によると、チンパンジーの子殺しこそが今西のアイデンティフィケーション理論の格好の材料なのではにゃーかということなのですにゃ。ちゅうことでさらに続きますにゃー。