アメリカ人的なるもの
メリケン(北米合衆帝国)において、もっとも重視される価値とは何か?
その代表的なものがfair(公正)だってのは常識的見解にゃんね。
同時通訳者、鶴田知佳子氏の手によるエッセイ「アメリカ人的なるもの」から引用すると
アメリカはほかのもっと歴史のあるたとえばヨーロッパやアジアの国と違って、自由の天地を求めて「新大陸」にわたった移民が作った国だ。こういう国において、ひとつに国を団結させるということは、どういうことか、自由と公正さの元で神がひとつに結ぶ国なのである、ということを常に確認しているのがアメリカ人のアイデンティティの源になっている。
自由主義で競争万歳で自助自立が求められるのだから、ベースに公正さというタテマエがなければ話にならにゃーもんな。
ところでユングによれば、ある国民や民族において重視されている価値というものは、実はその国民・民族の弱点を現しているという話がありましてにゃ。例えば、「ドイツ的感情」を称揚するドイツ人は知性は発達しているが感情は未分化であり、「フランス的知性(エスプリ)」を強調するフランス人は、感情は発達しているが知性は未分化なんだといっておりますにゃ。*1
ちゅうわけで、メリケンの社会において公正さが重視されているということは、メリケンの社会がいかに不公正な社会であるかを表しているという斜にかまえた見方もできるわけ。あの国では、アメリカン・ドリームなるおとぎ話があるけれども、メリケンの社会より戦後の日本社会のほうが社会階層の流動性はよほど高かったという話もあるようだしにゃ。日本の社会階層の流動性は近年急速に失われているそうだけど。
というわけで、不公正というのは徹底的に撲滅されなければならにゃーわけだ。でなければアメリカ社会の正当性が揺るぎかねにゃー。不公正を恐れよ!
さて、メリケンのような多元社会でこの不公正というやつは、キリスト教のような契約宗教にとってこそ致命的になりえるのではにゃーだろうか。神との契約、そして救済において、出身文化のせいで有利不利がでてきてしまうのはいかにもマジイ。全能なる絶対神の前で、出身文化の違いなんざ何の意味も持たにゃーはず。メリケンは「自由と公正さの元で神がひとつに結ぶ国」でなければならにゃー。特定文化に依存する教義はフェアでにゃーんだ。
日本人のキリスト教徒がヨーロッパに行って何かの拍子に宗教を聞かれ
「俺はキリスト教徒だよ」
と答えたら、
「ぷ! アジア人にキリスト教がわかるわけねえだろ」
とかいう反応をされたという話は、何度か本で読んだり話を聞いたりしたことがありますにゃ。ヨーロッパのキリスト教信仰には、歴史・文化・社会的に分厚いものがあることは間違いにゃーからこういう反応がでてくるのもアタリマエかもしれにゃー。たとえばカトリックの聖書解釈にはヨーロッパ最高の知識人が何代もかかってよってたかって編んだ象徴の体系が前提になっており、その象徴体系はほとんど全ての芸術や生活文化の中に取り込まれて息づいているんだにゃ。宗教ってのは生活に密着したものにゃんからなあ。
しかし、メリケンでこれは困るにゃ。もともとむりやりつれられてきた奴隷の子孫とか、移民とかが世界中からメリケンに来ているわけで、彼らにむかって
「ぷ、アジア人やアフリカ人にキリスト教がわかるわけねえだろ」
といってしまったら、あの国では伝道できにゃーだろう。多文化社会においてヨーロッパ出身者だけを対象にした伝道なんて、ユダヤの選民思想と同じことになってしまうにゃ。そんなものは、万人の救いを志向してパリサイ派を批判したイエスの思想に矛盾する。だから、メリケンのキリスト教の伝道において、教義や信仰の正当性を特定地域の歴史や文化に依存するわけにはいかにゃーわけだ。
また、特定文化を前提にした教義解釈は、多文化社会での伝道の現場においてあつれきを生み出すことにもなりかねにゃー
「聖書のこの部分の解釈はこうなっているんだよ。これはヨーロッパにおける伝統的解釈なのであーる」
「はあ? ここはヨーロッパじゃなくて合衆国、それに俺はアフリカから奴隷船でつれてこられたクチだぜ。」
とか
「ヒキガエルは悪魔を表しているのだあああああ」
「祖国の中国では豊饒のシンボルなんだけど・・・」
とかいう感じで、欧州の伝統的な象徴解釈体系を前提にしたら、異文化の者へのキリスト教伝道が面倒なことになる。仮に伝統的な象徴体系を採用するにしても、それは異文化のニンゲンにはキリスト教を十全に理解することはできにゃーのだ、少なくとも理解の上で非常に不利だということになってしまう。これは、フェアでにゃーよな。フェアでにゃーのはまずいわけだにゃ。神の前での平等という錦の御旗が穢される。
じゃあどうすればいいのか? どうすれば不公正をなくして、キリスト教信仰の正当性を保ちつつ、多文化社会で伝道できるのか?
ありえる(そしてもっとも愚昧な*2)答えのひとつは、
- 聖書の記述を象徴的に解釈することを拒絶すること。
言い換えれば、
- 聖書の記述は逐語的に事実であると見なすこと。
というわけで今回は、メリケンにおける創造科学、聖書逐語解釈はどのあたりに根っこがあるのかというお話だったのですにゃ。
え、もうとっくにわかってたって?
つづく