愚行権とセットになるもの

加藤尚武「現代倫理学入門」講談社学術文庫P167によれば

現代倫理学入門 (講談社学術文庫)

現代倫理学入門 (講談社学術文庫)

自由主義の原則は、要約すると、


1判断能力のある大人なら、2自分の生命、身体、財産に関して、3他人に危害を及ぼさないかぎり、4たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、5自己決定の権限をもつ

となるわけですにゃ。
ここで3の原則を「他者危害原則」、4の原則を「愚行権」と言うのですにゃ。ここが自由主義のキモなんだにゃー。
他者の愚行(お馬鹿な行為)に対して、説得することはできても禁止することは「自由主義社会」ではできにゃーのわけだ。いったん「愚行」の禁止を認めてしまったら、公権力やら多数派の気に入らないあらゆる行為が「愚行」の名のもとに禁止されるのは明白なんだにゃー。愚行を禁じる社会は全体主義といっていいだろにゃ。少なくともそれは強者の論理だにゃ。何にしろ、馬鹿を禁止することはできにゃー。

また、愚行権の行使においては、近代社会における公私二元論を基盤にしているということは忘れてはならにゃーと思いますにゃ。愚行権とはあくまで私的な領域で主張できるものであり、公的領域において愚行をされたらたまったものではにゃーわけだ。*1


分別がある者は、自分を世界に合わせようとする。 分別がない者は、世界を自分に合わせようと躍起になっている。 ゆえに、分別がない者がいなければ、進歩はありえない。
バーナード・ショウ

などという話もあって、愚行を禁止したら確かにニンゲン社会の進歩なんてありえにゃーよな。こんなのとかこんなのとか、人類に寄与した愚行ってのはたくさんあるわけだにゃ。

この愚行権という言葉は、自由主義社会内部における価値相対主義のキャッチコピーといっていいのではにゃーかと思いますにゃ。しかし、ちょっとググってみた限りでは価値相対主義って評判のワリイ言葉にゃんなあ。価値相対主義の悪口はネットにいくらでも転がっているにゃんね。愚行権や価値相対主義は、他者危害原則とセットになっていることを考慮していにゃー悪口が目立つにゃんね。
ま、相対主義に対する悪口の具体例はおいおい取り上げていくとして、このエントリは実は疑似科学ネタなんですにゃ。

  • 相対主義は他者の存在を前提とした作法である

と以前のエントリで主張いたしましたにゃ。各文化単位では文化相対主義だし、自由主義社会内部においては愚行権ないしは価値相対主義は、多元性を保持するために要請される作法にゃんね。

ここでもうひとつの作法があると主張しますにゃ

  • 科学的に妥当かどうかを考慮することは、他者に危害を加えないための作法である

あえて「科学的」としましたにゃ。「事実に基づいて論理的にかつ検証可能な・・・・」とかづらづら書いていってもいいけど、要するにそれって「科学的」ってことですからにゃー。我ながらちょっと粗いけど、そこはそれ、「煽り」ってことで。
特に、医療関連の疑似科学的言説は、マジに人を(特に弱者を)搾取し、場合によっては殺しかねにゃーものですにゃ。

公開の言説空間において、馬鹿なことを口走ったら馬鹿にされるのはアタリマエ。だから、疑似科学的言説ってのが馬鹿にされるのは当然にゃんね。そして、疑似科学批判にそれ以上の「正義」があるとすれば、それは多くの疑似科学的言説が他者に危害を与えるものだからですにゃ。何度でも言うけど、疑似科学批判はガンガンやっていただきたい。

しかしさ
多元的かつお互いに仲良し、ってのが理想的な社会のあり方なんだろうけど、そういう社会において要請される作法っちゅうか制御のありかたっちゅうのは、ブレーキとアクセル、交感神経系と副交感神経系のように、反対の方向性をもつものが両方とも必要なんでにゃーのかな? 個別への方向性と普遍への方向性の両方がにゃーとな。

そういうわけで、「反・反科学」かつ「反・反相対主義」という立ち位置でいきたいですにゃー。



追記というかメモ
今日付けでカウンター設置。いやーカウンタ設置しにゃーとアクセス数もわかんにゃーみたい。

*1:水からの伝言」を個人的に信奉するのなら愚行権の範囲だが、公教育でそれを行うのは話にならにゃー。愚行権は私的領域でかってにやってくれ。