線引き問題についての私見

僕たちはよく、白と黒を対極にあるものの比喩として使いますにゃ。「白黒つける」とかね。
ところが白と黒は、本当に単なる対極の関係にあるんだろか?
以下は谷川俊太郎「定義」から詩を引用しますにゃ。谷川俊太郎は全部読んでいるわけではにゃーが、この詩集が一番好きかな?
(単独の詩集としては絶版の様子。「定義」がまるごと入ったものはこちら)

詩集 谷川俊太郎

詩集 谷川俊太郎


灰についての私見


どんなに白い白も、ほんとうの白であったためしはない。一点の翳もない白の中に、目に見えぬ微小な黒がかくれていて、それは常に白の構造そのものである。白は黒を敵視せぬどころか、むしろ白は白ゆえに黒を生み、黒をはぐくむと理解される。存在のその瞬間から白はすでに黒へと生き始めているのだ。


だが黒への長い過程に、どれだけの灰の階調を経過するとしても、白は全い黒に化するその瞬間まで白であることをやめはしない。たとえ白の属性とは考えられていないもの、たとえば影、たとえば鈍さ、たとえば光の吸収等によって冒されているとしても、白は灰の影で輝いている。
白の死ぬ時は一瞬だ。その一瞬に白は跡形もなく霧消し、全い黒が立ち現れる。だが----


どんなに黒い黒も、ほんとうの黒であったためしはない。一点の輝きもない黒の中に目に見えぬ微小な白は遺伝子のようにかくれていて、それは常に黒の構造そのものである。存在のその瞬間から黒はすでに白へと生き始めている……

この詩人の認識から言いえることは、白と黒の間に「客観的な」線引きをすることは不可能だということだにゃ。一点の翳もない白の中にも黒がかくれているのは白の構造そのものであり、全い黒があらわれるその瞬間まで白は白であり続けるというのだから。

白と黒の間には、連続的な(=アナログの)グラデーションがありますにゃ。「自然」というのは、ほとんどが連続的なものなんだよにゃ。それに対して、言語というのはデジタルにゃんね。連続的な自然をぶったぎって分割するわけだにゃ。虹は七色というけれど、実はアナログなグラデーションがそこにはあり、七色どころか無限の色がそこにはあるわけですにゃ。
黒と白についてもそう。灰色という色を含めても同じことだにゃ。白と黒の間に、連続的な(つまり無限の)グラデーションがあるというのに、僕たちには白と黒と灰色というコトバしかにゃー。濃い灰色とか薄い灰色とか言い出しても、やっと四分割。形容詞をどんどん入れていっても、分割には限度というものがあるよにゃ。連続的な自然を相手にするにあたって、僕たちのもつコトバはぜんぜん足りにゃーわけ。「自然言語」ってのは自然を扱うのが不得手なんだにゃ。
数式(関数)を用いた記述であれば、連続のものを連続のまま扱うことができるので、自然を記述するためには数式を用いるのがもっとも効率的なのだろうね。また、バラつきがあるものを相手にするのであれば、統計的な記述をせざるをえにゃーだろう。

ところで、白と黒の間の客観的な線引きが不可能だからといって、白と黒という色が存在せずに、例えば「彩度のない色」とだけしかいえにゃーかというと、そんなことはにゃーだろう。日常生活において、白・黒・灰色という粗雑な区別は有効なのだにゃ。なぜなら「たとえ白の属性とは考えられていないもの、たとえば影、たとえば鈍さ、たとえば光の吸収等によって冒されているとしても、白は灰の影で輝いている」から、全き白ではなくとも白は白なんだにゃ。
つまり

  • 白と黒との間に客観的な線引きをすることは不可能。線引きは最終的には恣意でなされる。

かつ、

  • 白とか黒と言いえる色の範囲は、生活世界の合意において最大公約数的に存在する。

少年法の適用年齢とか、週齢いくつまで中絶を認めるか、とか線引き問題にはメンドイ問題が多くありますにゃ。白と黒のような単純極まる問題ですら客観的な線引きが不可能なのだから、こうした問題に客観的線引きを期待することはできにゃーだろう。それは社会的に合意された恣意以上のものではにゃーことをしっかりと認識しておく必要があるにゃ。もちろん、社会的に合意する議論プロセスは必要だし、少しでも合理的な線引きを目指す努力は必須ではあることは言うまでもにゃーですが。