科学への相対主義の適用のしかた

前回のエントリでも触れたけれど、どうも田崎氏あるいは黒木氏の相対主義についての取り扱いはいささか不公正なものではにゃーかと思う。科学の文脈からのみ相対主義を語っているのではにゃーだろうか? 科学への相対主義の適用をむやみに拒絶してにゃーだろうか?

ちゅうわけで、自然科学へ相対主義を適用することを公正な立場から論じたものはにゃーものだろうか? できれば自然科学者の手になるものが望ましい。 ちゅうわけで、こんなものをひろってきましたにゃ。
What the Social Text Affair Does and Does Not Prove (Japanese) アラン・ソーカルの手になるもの。翻訳者は田崎晴明氏。ここから筆者のソーカルが「科学の社会的研究から得られるだろうと思っているプラスの事柄をいくつか」引用してみますにゃ。


1) 科学も人間の営みの一つであり、他の人間の営みと同じように、厳密な社会的分析を行う価値がある。どのような研究テーマが大切だと考えられているのか、研究予算はどのように配分されているのか、誰が名声と権力を手に入れるのか、公共政策についての議論において科学の専門知識はどのような役割を果たすのか、科学知識はいかなる形で誰の利益のために科学技術として実現されるのか?これらすべての点は、科学の研究の内部での論理のみならず、政治的、経済的な、そしてある程度はイデオロギー的な要素に強く左右される。これらの問題は、歴史学者社会学者、政治科学者、経済学者による現実に即した研究の実り豊かな題材になるはずだ。

2) より微妙なレベルでは、どのような理論が発案され考察の対象にされ得るのか、競合する理論を比べるのにどのような基準を用いるべきなのかといった科学の論争の中身さえもが、部分的には、時代を支配する精神に縛られている。そして、時代の精神というものは、部分的には、根深い歴史的な諸要因から生まれてくるものなのだ。一つ一つの実例について、科学の発展の筋道が決まっていく段階で「外的な」要因と「内的な」要因が果たした役割を選り分けて吟味することは、科学史科学社会学のテーマである。このような問題を考えるとき、科学者は「内的な」要因を重視しがちで、社会学者は「外的な」要因を重視しがちになる。科学者と社会学者が、お互いの考えをよく理解し合ってていないという理由だけからでも、そうなることは納得できるだろう。しかし、こういった行き違いは、必ず合理的な論争によって解決を図ることができるはずだ。

引用した1)2)の内容は、明らかに自然科学への相対主義の適用を積極的に評価したものにゃんな。科学についてのもろもろは「科学の研究の内部での論理のみならず、政治的、経済的な、そしてある程度はイデオロギー的な要素に強く左右され」、「科学の論争の中身さえもが、部分的には、時代を支配する精神に縛られている。そして、時代の精神というものは、部分的には、根深い歴史的な諸要因から生まれてくるものなのだ。」
こうした態度がどこから出てくるかというと、リンク先の結論部にあるとおり


ソーシャル・テクストの編集者たち(要は相対主義者たち、引用者注)は私の敵ではない。ロスは、新しい科学技術と、科学の専門知識がますます不平等に配分されるようになったことについて、極めて正しい懸念を抱いている。アロノヴィッツは、技術の発展がもたらす失業と「職のない未来」について重要な問題提起をしている

科学という資源が不平等に配分され、社会的に不正義が横行することに対して相対主義者と筆者のソーカルは同じ問題意識を共有しているがゆえに、科学に対する相対主義の適用そのものを是としているわけですにゃ。

しかし、自然科学への相対主義の適用も、適切なやり方というものがあるとも続けて述べられていますにゃ。


3) 政治的な目標を実現するための研究も、その目標のために目がくらんで都合の悪い事実が見えなくなってしまうようなことがなければ、決して悪いものではない。実際、人類学風の疑似科学優生学に対する反・人種差別主義の立場からの批判や、心理学および医学と生物学の一部に対するフェミニストの立場からの批判のような、科学への社会・政治的批判には、長く実りの多い歴史がある。こういった批判は、一般に次のような決まった手順を踏んで行われる。まず最初に、よい科学の満たすべき通常の基準に照らしたとき、問題にしている研究には欠点があることを、通常の科学的な議論によって示す。それが終わった後で、というよりも、それが終わった後でのみ、もう一歩踏み込んで、その科学者たちが何らかの社会的な偏見(それは無意識のものかもしれない)をもっていたがために、よい科学の基準を破ることになってしまったことを説明しようとするのだ。

自然科学の間違いは、まずは自然科学の手法によって示せ。そして、間違いを明らかにした後に、その間違いがどのような文脈によって構築されたのかを示せ。こうした批判であれば、特定の政治的立場からの自然科学への批判は実りが多いといっているわけですにゃ。そして、このような実り多き批判を行ったものとして、反・人種差別主義者だけでなくフェミニストを正当にも挙げていることも注目しておきたいですにゃ。確かに頭の痛くなるようなことをおっしゃる自称フェミもごろごろしており、フェミ=反科学だと思っちゃっている人もまた珍しくもにゃーですね。しかし、実際には反フェミの側にこそ反科学的な言動が多いという感想をもっておりますにゃ。

とにもかくにも、ソーカルはここで自然科学における誤謬が社会的に構築されえることを認めており、それは逆にいえば自然科学における成功が社会的に構築された信念に依存することだってありえることなんだと認めているようなものではにゃーだろうか。社会的・政治的な言説と自然科学がきれいに分離されているなんていうファンタジーを破壊しているといってもいいかもしれにゃー。

これは僕の感想にゃんが、ソーカルは社会における自然科学の役割や位置づけを意識しており、したがって、相対主義(あるいはフェミニズムなどの政治的立場)に対する一定の敬意をもち、批判を歓迎しているように思われますにゃ。
しかし、相対主義による自然科学批判に際しては、あくまで自然科学の方法論による誤謬の指摘を一義的なものとみなす。つまり、相対主義を直接に自然科学の内部に取り込むことを拒否するわけだにゃ。自然科学の方法論で誤謬を指摘した後に、外部から相対主義的・構築主義的に「どのような文脈でその誤謬が構築されたか」を問題にすることをよしとしているにゃんね。
前回エントリでの、相対主義の適用領域制限という考え方をソーカルはしているのではにゃーかと僕は思いますにゃ。