相対主義は要請されるべき作法である

相対主義批判ネタのつづきですにゃ。

前回リンクした田崎氏の文から引用しますにゃ
田崎氏は相対主義をどういうものだとみているんだろうか?

相対主義的な主張は、口当たりがよく、また表層的には個性を重んじる「進歩的な」香りがするためか、社会に広く受け入れられやすいようだ。反科学や「ニセ科学」を助長する「理論的基盤」となっている感がある。

むー。これだけじゃよくわかりませんにゃ。
ちょっとここで、別のところをリンクしてみますにゃ。リンク先は黒木玄氏の「相対主義に関するよくある質問」。ここは、相対主義について批判的に書かれておりますにゃ。


相対主義者が嫌われる理由」から引用(リンク先全体を読んでほしいけれど)


質問: 「相対主義」が嫌われているのはどうしてですか?

回答: 嫌う理由は人によって様々だと思います。ここでは筆者が「相対主義」を標傍する人たちにありがちだと感じている悪しき振舞いを箇条書きしておきます:

1. 科学理論の内容に深く触れることをせず (理解してないからできない)、相対主義的な半可通の哲学を持ち出すことによって、その科学理論は絶対ではないという陳腐な意見を述べ続ける人。そのような人は、ある種の科学論の本によく見られるような、一見過激に見えるが、実は常識的でつまらないことしか言ってない。

2. 相対主義を強く標傍しておきながら、自分自身がよって立つ基盤については全く無批判な人。相対主義を強く標傍する人は、他人から見ると、あらゆる物事を一望のもとに見渡した上で、あらゆる考え方は相対的である、と言っているように見える場合が多いものです。表面的には相対主義の平等主義者のように振舞いながら、裏では自分だけが特権的な立場に立っているとみなしているような奴は、嫌われても仕方ありません。

3. あらゆる主張を正当化するためのレトリックとして、“相対主義” (?) を用いる輩。これは最も悪質。「あなたの批判は絶対的に正しいわけではないのだから、私の意見は正しいのだ」という型の議論をする馬鹿を見たことはありませんか? 「あなたの主張は誤りである」と批判されたときに、「私が誤っているということをあなたは絶対的に証明することはできない」という当然の認識論的な結論を持ち出して、あたかも自分の主張に意味があるかのように見せかけるというのは典型的です。

ここで挙げたような振舞いは論外なのですが、そうでなくても、相対主義をうまく利用するのは恐ろしく難しいのです。最初の関門は「相対主義が正しいという立場自体に相対主義を適用すると、相対主義の正当性が崩れてしまうのでは?」という疑問に答えることです。

うーん。これは嫌われてアタリマエにゃんなあ。どうみたって嫌みな馬鹿だよね、これは。田崎氏の相対主義観は黒木氏のそれと特に齟齬はなさそうですにゃ。自然科学に限らず、ガクモンと名乗るからには客観性・普遍性の獲得を目指すわけで、この「相対主義」は知的怠惰の醜悪な自己正当化だにゃ。


で、相対主義はこれだけのものかというと、もちろんそんなはずはにゃー。

まず、欧米のまともなインテリなら絶対に頭からは拒否できにゃー文化相対主義がありますにゃ。
「文化も社会制度も宗教も、とにかく世界で欧米が一番「進化」しているんだあああああ」とかいう「進化主義」という自文化中心のグロテスクな代物がございましてにゃ(これと科学理論である「進化論」を混同するお方がときどきいて困りもの)。帝国主義だの植民地政策だのアジア・アフリカの搾取だのを正当化する言説だったわけにゃんね。
で、
この脳腐れ自己正当化言説に対して文化相対主義が出てきたわけですにゃ。文化には優等も劣等もなくて対等なんだ、他の文化を尊重しましょう、というアタリマエもいいところのお話にゃんね。「チャンコロ」だの「チョン」だのとわめくお歴々は文化相対主義と対局の立場にありますにゃ。
帝国主義だのアジア・アフリカ・ラテンアメリカの収奪だのは、教育をうけたマトモな欧米人にとっては西欧史の恥部だということになっているんで、文化相対主義はそうそう否定できにゃーでしょう。(文化相対主義にも大きな問題があるんだけど、ここではとりあえずパス)

相対主義というと、この文化相対主義こそ代表格のひとつであることは断言できるんだけど、なぜか黒木氏はまったく触れてにゃーですね。不思議なことにゃんな。
相対主義を紹介するときに文化相対主義に触れにゃーなんて、「サイエンス・ウォーズ」とか言っている連中の言うことに理があるのではにゃーかと勘ぐりたくなるにゃ。)

また、説明をはしょるけど他者への寛容ということにも相対主義はつながってくるというところもありますにゃ。

相対主義というイズムは、論理的に自己矛盾をきたすからどうとかいう視点ではなく、作法として要請されるものではにゃーかと思いますにゃ。他文化尊重とか寛容とかいったことと絡めてね。
つまり

  • 尊重すべき他者の存在を前提として、相対主義が要請される。

(認識論的相対主義まで要請されるかは難問だと思う)


ウィキによると
相対主義の主張とは、ある要素は特定のフレームワークないし観点との相対的関係においてしか実在せず、そのフレームワークや立場は全ての人々において異なるという考え方である。

ちゅうことらしいんだけど、これはある学問の内部で通用する話でにゃーのは明らかだにゃ。
「アー、チミチミ。なんだねあの根拠不明で論理とびまくりのレポートは?」
「教授。僕と教授はフレームワークが違うんです。」
フレームワークを身につけるのが学問の修業だろが、ポン助」

とはいえ、学際領域の研究において、異なる専攻の研究者同士の意思疎通に齟齬をきたすことはちょくちょくあるらしいし、これはやっぱりフレームワークの問題でしょうにゃ。まあこれも議論でつめていけば原理的には回避できるはず。
学問においては誤りに寛容であってはならず、尊重すべき「他文化」もにゃーので(ということにしておく)、その内部において相対主義なんてものがはびこる余地があってはならにゃーのだろう。


で、冒頭の田崎氏の発言にもどりますにゃ

相対主義的な主張は、口当たりがよく、また表層的には個性を重んじる「進歩的な」香りがするためか、社会に広く受け入れられやすいようだ。反科学や「ニセ科学」を助長する「理論的基盤」となっている感がある。

黒木氏の論調もそうなんだけど、これでは相対主義そのものが厄介者になっているように見えますにゃ。しかし、他文化の尊重や他者への寛容といった重要な価値が危機的状況にある(と僕には感じられる)ことを鑑みるに、
相対主義そのものは重要だが、その適用領域を制限する
といった論調をお願いしたいと思う次第ですにゃ。

このネタ、もうちょっと続けよっと。