粗雑な相対主義批判

ニセ科学批判・疑似科学批判は実に結構なことだと思いますにゃ。ガンガンやっていただきたい。
ただし
いわゆるニセ科学批判のお歴々による粗雑な物言いがだいぶ気になりますにゃ。

Science and "Fake Science" Hal Tasaki

ニセ科学批判を積極的におこなっている田崎晴明氏の手になる文章にゃんな。
この文章の「極端な相対主義の弊害」にある

>科学も、神話も、「ニセ科学」も、それぞれが適切な文化的・社会的背景のもとでは「真実」であると主張するのは、行きすぎた相対主義であり、明らかな誤りである。

これってずいぶんと粗雑な認識にゃんなあ・・・・・
何よ、この「真実」の使い方。

「科学も、神話も、「ニセ科学」も、それぞれが適切な文化的・社会的背景のもとでは「自然現象の記述において同等に客観的」であると主張するのは、行きすぎた相対主義であり、明らかな誤りである。」
というのならよくわかりますにゃ。

自然現象の記述と技術的応用において、現代の自然科学が人類史的にみて特殊な地位を獲得したものであると僕は考えていますにゃ。ま、要するに僕は自然科学をリスペクトしているわけにゃんね。
しかし
僕は神話もリスペクトしているんだにゃ。

「適切な文化的・社会的背景のもとでは」神話は真実に決まってるではにゃーか。ニンゲンには心理的現実という者があるのだにゃ。というか、民族に共有された心的現実を比喩・象徴を用いた「野生の思考」による論理で記述したのが民族神話であって、そこに「真実」が含まれているというのは神話読解の上での前提だにゃ。

そもそも「真実」というのは心理的な意味合いを濃くもつ言葉なんだにゃ。
以下は日本大百科「真実らしさ」の項より一部引用


真実らしさは、適合(ラテン語ではdecorum、フランス語ではbiensance)とあわせて、古典主義理論の中核を担ったが、それ自体で十分な有効性をもつ原理とはいえない。なぜなら、それは信憑性の薄い物語を排除する役にはたっても、真実らしいというだけで作品が感銘を与えうるとは限らないからである。そこで、18世紀末になると、ゲーテにおいて、ふたたび真実が、ただし今度は単なる事実よりは深められた意味で、真実らしさに対置され、より重視されるようになる。そして理論の重点は、19世紀ドイツ美学において、真実らしさから美的真理へと移されていった。

科学は事実を解明するものだ、という言明はわかりますにゃ。しかし、真実という言葉には心理的・文学的な匂いがするんだよにゃ。例えば「文学は人間存在の○○を明らかにする」という文の○○の部分に「事実・真理・真実」などを代入すると、僕の語感では「文学は人間存在の真実を明らかにする」がいちばんすっきりときますにゃ。

もちろん、「真実」には「事実」とか「真理」とかいう意味合いもありますよにゃ。
自然科学は事実を取り扱うものであり、事実そのものではにゃーよね。では真理という意味ではどうだろう?
僕の理解では、自然科学のあらゆる理論は、それが広く認められた定説であってもすべからく近似であり、将来に代替理論がでてくる可能性のある仮説であり、真理そのものではありえにゃーもののはずですにゃ。だから、科学こそが「真実」ではありえにゃーように思えますにゃ。

つまり

  • 神話は真実だが、自然科学は真実ではない

ただし、フロイトが喝破したようにニンゲンちゅうのは多かれ少なかれみんなヘンタイなので、何に心理的満足を感じてもまあそれはそれですにゃ。相対主義的な人間観を適用するのが寛大な態度というものですからにゃ。だから、自然科学に深い心理的満足を感じるヘンタイも当然ながらアリ。こういう心性においては、自然科学は確かに「真実」になるのでしょうにゃ。

よって

  • 神話は真実であり、相対主義的にみれば自然科学も真実である

自然科学を真実と認めてくれる「相対主義」様に対して、ずいぶんと失礼なことをいう科学大好きくんが目につきますにゃ。