公私二元論とこども

2008-02-29
より
>子供は親の所有物ではない。社会が守るべき存在だという点については完全に同意。

ソノトオリなんだけどそうそう簡単ではにゃ

まず、近代というのは公私二元論を基盤として成り立つとハーバーマスという社会テツガク者がいっているにゃ。そして、基本的人権というのは私的領域における権利を核として構成されているわけですにゃ。思想・良心の自由をその極限として、財産権とか職業の自由とかが基本的人権の核となるわけだにゃ。
まあ要するに、「自律して自己責任でやるから、お上は私的領域に口をだすな」、という真っ当な話ですよにゃ。

で、私的領域における種々の価値が聖化されるということがおこってきますにゃ。恋愛とか家族とかの価値が称揚されるようになるわけにゃんね。いっとくけど、近代以前のヨーロッパでは家族はお互いに無関心だし、ガキなんざ死んでもたいしてかまわなかったというのが一般的だったらしい。つまり「子供は社会が守るものだ」という認識なんざ【ある意味で】なかったわけですにゃ。

ところがその「子供」が近代において【発見】されるわけにゃんな。それまでは子供という概念すらはっきりせず、いわば小さな大人、未熟な大人として扱われていたとか。
このあたりのことは、フィリップ・アリエスの「子供の誕生」という著書に詳しいらしい(僕は未読)。

ものすごく乱暴に書くと
私的領域が確立し、その価値が称揚され、その不可侵が広く認められると同時に、「子供は親が守るべきもの」という考えが確立したわけですにゃ。私的領域の確立と同時に親権が確立したわけにゃんな。
で、近代の経済システムというのは、「再生産」つまり次代の労働力たる子供を育てることに公的領域は責任をおわず、私的領域に丸投げすることによって成り立っているともいえましてにゃ。で、♀が家庭にしばりつけられたりしてジェンダーが変質・強化されたり、まあいろいろありましてにゃ。


ちゅうわけで(いや、我ながら粗いんだけど、詳しく書いてられない)
子供の責任は親がみる、というのは基本的人権の成立過程からみても、経済システムの面からみても、そうとうに基本的人権の根深いところからきている話なのではにゃーかと。


ところで、基本的人権というのは自律した個人が前提となる話だから、子供にはそのまま適用されるものではにゃー。だから子供は保護されなければならにゃーわけだけど、これに国家が責任を持つという体制は社会主義なんだよにゃー。公権力が私的領域の典型である家庭とか教育にくちばしをつっこむことを認めると、国家権力によって思想・信条の自由までが危うくなるのではにゃーかという危惧もありましてにゃー。

ガキを育てていてつくづく思うけど、親権って、ガキの人生を左右することのできる権利だよにゃ。
自律をベースにした社会で、子供をどう扱うかは実に悩ましい。
原則をどのあたりにもっていくべきか、よくわかんにゃー。