「世界は総体として一」、つまり二二が四

ブログのタイトル「地下生活者の手遊び」は、ドストエフスキー地下室の手記」から借りてきたものですにゃ。「地下室の手記」と訳されているけれど、原題を直訳すると「地下生活者の手記」となるとのことですにゃ。「手遊び」には暇つぶしの意の他に「手淫」の暗示もあるしにゃ。

さて、ドストエフスキーが創造した「地下生活者」は、理性と啓蒙に対する根源的な反対者とされていますにゃ。

以下は、ドストエフスキー地下室の手記新潮文庫版より引用


たとえば、人間の先祖は猿だという証明をつきつけられたら、四の五の言わずに、あっさりとそれを認めるしかない、ということだ。またきみにとって、きみ自身の脂肪の一滴は、本質的には他人の脂肪の数十万滴よりも貴重なものであるはずだから、したがって、いわゆる善行とか義務とかいったさまざまな妄想や偏見も、結局のところはすべてそこに帰着するのだ、と証明されたら、やはりそのまま認める、ということだ。これはもうどうしようもない。だからこそ、二二が四は-------数学なのだ。へたに反論でもしてみたまえ。
「とんでもない」と、たちまちどやしつけられるだろう。「反抗は無駄ですよ。なぜって、これは二二が四なんだから! 自然がいちいちきみにお伺いをたてるもんですか。自然は、きみの希望がどうだろうと、その法則が君の気にいろうと、いるまいと、知ったこっちゃないんですよ。きみは、自然をあるがままに受け入れるべきで、当然、その結果もすべて受け入れるべきなんですな。壁はとりもなおさず壁なんだから……云々」
P19

昨日ふれたグアラニ族の創世神話に関する解釈と同じ思想がここで語られているのではにゃーだろうか。
グアラニ族のカライは、ニンゲンの不幸の根源を「世界は総体として「一」である」と喝破しましたにゃ。そして、カライのいう「世界」を地下生活者は「自然の法則だの数学」「二二が四」といっているわけにゃんね。
「反抗は無駄ですよ。なぜって、これは二二が四なんだから! 自然がいちいちきみにお伺いをたてるもんですか。自然は、きみの希望がどうだろうと、その法則が君の気にいろうと、いるまいと、知ったこっちゃないんですよ。」
然り、まさに
「ものごとは、その総体において一である。そのようなことを欲しなかったわれわれにとって、それは悪である


これはしたり、いったいその自然の法則だの数学だのが、ぼくになんのかかわりがあるというのか? なぜか知らぬが、ぼくにはそんな法則だの二二が四だのはさっぱり気にくわないというのに。むろん、ぼくにはその壁を額でぶち抜くことはできないだろう。もともとぼくにはぶち抜くだけの力もないのだから。しかし、だからといってぼくは、そこに石の壁があり、ぼくには力が足りない、というそれだけの理由から、この壁と妥協したりすることはしないつもりだ。
それではまるで、そういう石の壁がほんとうに安らぎであり、ほんとうにそこに平和の保証めいたものが含まれてでもいるようではないか。しかもその理由たるや、それが二二が四であるというだけのことにすぎないのだ。ああ、なんというばかばかしさだ!
P20

グアラニ族が人を欺く真理に屈服しにゃーように、地下生活者も石の壁に妥協しにゃー。世界が自然が僕たちの思い通りにならにゃーのは事実だろうが、だからといってなぜそこに「安らぎ」や「平和の保証めいたもの」を感じなければならにゃーのか。それこそ、計算高く腹黒い神の詐術にのせられているだけなのではにゃーのだろうか。

近代西欧思想の作法に「事実と価値の峻別」というものがありますにゃ。ヒュームのギロチンとかヒュームの法則HUME'S LAWとかいわれているやつにゃんね。

地下生活者が反啓蒙・反理性といわれるのは、実はこのきわめて理性的な立場を声高く主張しているからなのではにゃーの?