コンビニエロ本問題を考える(序

30年も前になるか、知人が変わった裏ビデオを好んで集めていて、何度か見せてもらったことがある。自らの欲望のまま撮影したのか、一般的なエロなる感覚を誤解していたのか、怪作と言うか実験映像としか思えないような作品がけっこうあった。例えば、納豆を何百パックもぶちまけた風呂桶で、ボディ・ペインティングを施した男女がいろいろな運動をしている映像を見ても、性欲で凝り固まった20代前半のプレハブちんこ(=すぐ立つ)をもってしてもぴくりともしなかった。「エロって何なんですかにゃー?」と考えさせられるばかりである。


そうした「実験映像」の中でも特に印象に残っている作品がある。
公共交通機関である電車のなか(多分、山の手線)、白昼堂々と事に及んでしまうという内容の作品である。
このビデオ作品の冒頭で、出演女優、製作者たちが制作意図を以下のように語っていた。
「よき社会人ヅラをしていても、人間というのは性欲ぱっつんぱっつんの獣である。それを暴きたかった。電車のなかでいいかんじにセックスをして、いっしょにやろうと声をかければ、良識ぶったサラリーマンもOLも主婦も学生も、みんななだれ込んで大乱交大会になるはずだ。人間の欲望を暴いた映像をとるのだ!」


アングラ文化におけるエロと反体制の親和性というものは確かにあったようで、当時はそうしたものの残滓がこうした界隈で棲息していたということはあったろう。論評は控えるが、彼らは確かに身体をはっていた。ある種の表現の極限ではあった、はた迷惑この上ないが。


さて、ところでこの映像のコンセプトであった、人間の欲望を暴くというのは実際にどうなったのか?
乗客はおびえていた。白昼の電車でいきなり事に及びはじめた男女を見て、おびえていた。(画面には未成年の乗客は映っていなかった。さすがに未成年のいる車両は避けたのかもしれぬ)
目を背ける、見なかったことにする、隣の車両に逃げる、新聞を取り出しバリヤーにする・・・。「いっしょにやろうよ」と声をかけられたサラリーマンのひきつった顔・・・。良識ぶった連中が仮面をかなぐりすてて乱交になる、なんてことにはなるわけがない。彼らはおびえていたのだ。そりゃそうだろう、エロビデオを好んで見ていた僕だって怖かったし、色物裏ビデオ鑑賞という馬鹿趣味を謳歌していた友人も「こりゃ俺も逃げるわ」と言っていた。声をかけられて顔がひきつっていたサラリーマンは、自宅ではエロ文化を享受していたかもしれない。でも彼は脅えていた。エロが好きだとか嫌いだとか、良識ぶっているとか、そういうこととあの脅えた感じは関係ない。

ここで重要なのは、公共の場での性的な露出というものは周囲を脅えさせる、つまり攻撃的な意味合いを持ち得るということ。
白昼の電車内でおっぱじめてしまうというのは極端な例ではあるけれど、性的なモノが公然と提示されることが攻撃的な意味合いを持つということを実に明瞭に示すことのできる例でもある。
もちろんこうした性的な露出によるダメージは人によって異なるっていうことははっきりしている。そして、性的な露出に対して抵抗力の強い人が、弱い人たちのその「弱さ」を軽く見ることがよろしくないってこともはっきりしているだろう。その「弱さ」を揶揄したり嘲ったりするなんてことは問題外だ。また、公共の場において弱いものを弱いからと言って排除するのもありえない。

ところで、日本では刑法175条で猥褻表現の頒布が禁じられている。イギリスの小説家D.H.ローレンスの「チャタレイ夫人の恋人」という小説を翻訳した伊藤整と版元がわいせつ物頒布に問われたいわゆる「チャタレー事件」が有名。最高裁判決文などについてはこちらを参照のこと。
憲法21条の表現の自由について争われたこの裁判であるが、この最高裁判決文のなかに「性行為の非公然性の原則」なるいかめしい法理が使われている。


人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露である。かような羞恥感情は尊重されなければならず、従つてこれを偽善として排斥することは人間性に反する。なお羞恥感情の存在が理性と相俟つて制御の困難な人間の性生活を放恣に陥らないように制限し、どのような未開社会においても存在するところの、性に関する道徳と秩序の維持に貢献しているのである。


要するに、人前で性器を出したり性行為をしたりする文化はないよってことらしく、まあ僕の知る限りでもそれはそうなんだろう。真っ昼間の電車の中で「公然と」事に及んだのに巻き込まれた人たちの表情は羞恥というより脅えであったと思うけれどw。
「性行為の非公然」というのは本当に人類普遍かどうかはともかく、広くあてはまる道理だというのはあのビデオを見て、公然とされた性行為の攻撃性を認識した身としては実によくわかる。

ただし、「性行為非公然の原則」が正しいのはよいとして、だからわいせつ物頒布を親方日の丸が罰してよいかというと話は別になる。先ほどリンクしたチャタレー事件判決文には、最高裁での反対意見も収録されている。裁判官真野毅*1の反対意見を確認してみよう。


いうところの「性行為の非公然性」とは、性行為を公然と実行しないというだけの意義を有するに過ぎないものである。「性行為の非公然性の原則」というといかにもいかめしく聞えるが、その中味はただこれだけのことである。
中略
多数意見が前提として説いている「性行為の非公然性の原則」とは、すでに触れたように性行為を公然と実行しないというだけの意義に過ぎないから、性行為の非公然性の原則に反するとは、性行為を公然と実行するということに帰着する。(本訳書はもとより生き物ではないから、公然であろうと秘密であろうと、訳書そのものが性行為を実行することはありえないことである。)


お説ごもっとも。
公然と性器をだしたり性行為をしたりすることと、性行為を言語的に描写した文章を発表し頒布することには相当の距離があることは間違いない。
もっとも、「性行為の非公然の原則」とやらが「性行為を公然と実行すること」のみに限定されるのはいささか問題があるとは思う。例えば、路上で性行為の映像や画像や音声を垂れ流したりというのはこの原則に抵触するというのも疑いなかろう。とはいえ、仮にエロ写真を路上で「頒布」したとしても、それはエロ写真を路上で公開することとはだいぶ異なる。エロ写真を路上で展示したうえで売買していたら「性行為の非公然の原則」に抵触するだろうが、写真が人目にふれずに売り買いされていたとしたら、この原則に触れるとは思えぬ。誰も攻撃されていない。
「性行為の非公然の原則」が正しくとも、その理屈でエロ商品の頒布を禁ずることには無理があろう。「性行為の非公然の原則」で刑法175条を擁護することに妥当性はないと考えられる。無論、検閲の理由にもならない。


「性行為の非公然の原則」で禁じることができるのは、いわゆる公然わいせつ(刑法174条)のほうであろう。
この公然わいせつ罪というのは、売買春や麻薬と同じく被害者なき犯罪 - Wikipediaとされているようだが、例えば露出症の行動(典型的にはオッサンが若い娘さんに下半身を御開帳しちゃったりするやつですね)には明らかに被害者がおり、露出行動の際には相手の困惑や驚愕を見て楽しむということも多いようで、明らかに攻撃的な動機があろう。公共の場におけるエロには攻撃性があり、耐性が特になさそうな層に対してその攻撃性を振りかざすのが露出症の行動の典型なわけだ。

さて中間まとめといこう。

  • 公共の場における性的なものの提示は攻撃性をもちうる
  • よって、他者危害の禁止という観点からも「性行為の非公然の原則」は支持できる
  • ただし、「性行為の非公然の原則」から導けるのは、公共の場における性行為や映像・画像などの提示を禁ずることまで
  • わいせつ物の頒布を禁ずることや検閲などは、「性行為の非公然の原則」からは導けない


ぶっちゃけ、
「エロの発禁とか事前検閲とかモザイクやぼかしかけとか、そういうのはいっさいやらなくて良い。政府はそんなくだらない規制すんな。でも公共の場におけるエロ提示は攻撃的だからやめてくれ」
ということである。

さて、先ほど「「性行為の非公然の原則」から導けるのは、公共の場における性行為や映像・画像などの提示を禁ずることまで」と書いた。表現された中身に対しては、「エロの発禁とか事前検閲とかモザイクかけとか、そういうのはいっさいやらなくて良い」とも書いた。
中身は好きにしてよいが置く場所を考えろということであり、これは要するにゾーニングの理路である。
「性行為の非公然の原則」ってのは、ゾーニングで対処できるし、ゾーニングで対処するべきであって内容規制に踏み込むべきではないものであろう。


表現規制ってのは必ずバカしかやらないんですよ。ゾーニング表現規制」という意見をみかけたことがある。
レーティング(年齢規制)もゾーニングの一種であるから、ゾーニングの完全撤廃というのは何でも幼児に見せていいということになる。要するにあらゆる表現、つまりハードコアポルノはもちろんのこと、人間を拷問して生きたまま解体する映像(もちろん、作り物である前提。「ギニーピッグ」あたりが有名)を幼児に見せてよいという主張ということになる*2


子どもに過激なエロ映像や残酷映像を見せることはどうみても虐待にあたる。見たくない人に見せるのもいい迷惑である。
わいせつ物頒布を禁じた刑法175条を支持できる根拠として、青少年の保護と見たくない人の権利というものくらいしかないんじゃないかというのが法学においても有力説らしく、でも青少年保護と見たくない人の権利ってのはゾーニングで十分保障できるから、やっぱり刑法175条って違憲だよね、発禁なんて必要ないじゃん、という説も根強いらしい。
僕が調べた限りでも、法学的にもゾーニングで対処するのがよさそうだ。


残酷表現とか公共の場におけるエロとか、どうしても攻撃性を持つ表現というものはあり、そこから子どもや見たくない人の権利を守り、かつ表現の自由を尊重するとしたらゾーニングしかないというのは、もうさんざん言われてきたことだ。
しかしこれを言いかえれば、子どもの保護とか見たくない人の権利が問題になっているとき、それは内容規制を意味するのではなくゾーニングが要求されているということなのである。エロを発禁にしろとか撲滅せよなどということではない。表現の内容を規制することには反対、多様な表現があってほしい、だからこそゾーニングで子どもや見たくない人に対処してね、見たくない人には見ない権利があるからね、という当り前なお話なわけだ。
ゾーニングが問題になっているとき、「表現の自由」を唱えても対抗できないのである。


もちろん、コンビニエロ本問題はゾーニングが要求されている問題である。

予告

さて、以上はコンビニエロ本問題を考えるための準備である。
公共の場におけるエロの提示は攻撃性を持ちえ、子どもや見たくない人の保護が要求されること。そしてその要求は内容規制を意味するのではなく、ゾーニングの要求であることを前提として、公共性の再検討とコンビニの現状を確認してみたい。(つづく)

*1:この真野毅という裁判官は、尊属殺人が他の殺人と比べて重罪にあたるのは違憲であるという判断を最初にくだしたさいこうさいはんじのひとり。このとき真野は少数意見であったが、のちに尊属殺人重罪が違憲であるというのは最高裁でも確定する。一貫してリベラルなスタンスであったようだ

*2:表現規制ってのは必ずバカしかやらないんですよ」の人にツィッターで「子どもにギニーピッグ見せてええの?」と尋ねたが、何度聞いても彼は答えることができず、しかしそれでも自説を決して撤回しないのであった。はてサの情けで名はとりあえず伏せるがツイッターでフォロワー10万以上の方であったw