表現の自由と人権の関係


実に基本的な一般論をざっくりと
ここでは日本国憲法に即して述べているが、自由民主主義について一般的にあてはまることであろうとは思う。


承前
丹羽良徳がギャラリーにデリヘル呼ぼうとして怒られたことについての反応 - Togetter


2016年1月30日にギャラリーに呼ばれたげいまきまきさんのツイート - Togetter



後者のまとめのコメント欄において、僕は以下の発言をした


表現の自由」がなぜ重視されるかというと、それは人権を守るためにもっとも有効なもののひとつだからだ、という基本中の基本を理解せずに、「表現の自由」をふりまわす愚か者の多さよ・・・


すると以下のリプライが僕宛にあった。


@online_checker
違います。#表現の自由 は一度毀損されると、民主制の過程はで回復困難な人権であるため。#まなざし村 村民は、憲法の基本書を読みましょう(「88の提案」が思考実験である事も忘れるべきではない)。


https://twitter.com/online_checker/status/694427617852727296


その後のやりとりによると、どうやらonline_checker氏は「京都大学法学部卒で佐藤本使い」を自称されているようである。
ちょうどよいので、憲法における人権と表現の自由の根本的な関係について、憲法学の基本書を参照しつつ*1ざっくりとまとめてみたい。
僕の議論の妥当性については、氏を含めた読者諸賢の批判を喜んでお受けしよう。


まず、「表現の自由がなぜ重視されるか」についてであるが
・人権を守るためにもっとも有効なもののひとつだから←地下猫
・一度毀損されると、民主制の過程はで回復困難な人権であるため←online_checker氏


なのだが、氏の議論では、なぜ他の諸権利や諸自由よりも表現の自由が重視されるかの理由としては不十分なものである。
例えば、私の眼前にある灰皿の中の吸い殻の配置は、毀損されやすく回復も困難であるが何の価値もない。毀損されやすく回復が困難であること自体は、特定の自由が他の自由より重視される理由にはなりにくく、また他の自由が頑健なものであるとの論証もされていないし、毀損されやすい自由など他にも多くあろう。




では、「人権を守るためにもっとも有効なもののひとつだから、表現の自由が重視される」の論証にはいろう。
手許にあるのは1999年第一刷発行の芦部憲法である。2016年現在の憲法学との違いについては、専門家でないのでご容赦されたいが、基本的な論点なので大きな違いはないと思う。

憲法学の対象とする憲法とは、近代に至って一定の政治的理念に基いて制定された憲法であり、国家権力を制限して国民の権利・自由を守ることを目的とする憲法である。(P5 憲法の意味 より)


近代憲法は、何よりもまず、自由の基礎法である。それは、自由の法秩序であり、自由主義の所産である。
(中略)
しかし、この組織規範・授権規範は憲法の中核をなすものではない。それは、より基本的な規範、すなわち自由の規範である人権規範に奉仕*2するものとして存在している。
このような自由の観念は自然権の思想に基づく。この自然権を実定化した人権規定は、憲法の中核を構成する「根本規範」であり、この根本規範を支える核心的価値が人間の人格不可侵の原則(個人の尊厳の原理)である。(P10 憲法規範の特質 より)


憲法最高法規であるのは、その内容が、人間の権利・自由をあらゆる国家権力から不可侵のものとして保障する規範を中心として構成されているからである。(P12 憲法規範の特質 より)


総論の部分から何箇所か引用した。
憲法の目的が権利と自由を守ること・人権規範に「奉仕」することにあり、人権規定こそが憲法の中核をなす根本原理であり、人間の権利と自由(すなわち人権)を保障する規範を中心に構成されていることは一目瞭然であろう。


総論で特に強調された原理原則を前提とし、他の部分に敷衍するのはどのような学問においても当然であろう。 したがって僕の前提はきわめて平明なものである。
・特定の自由がより重視されているとすれば、それはその自由が人権規範により「奉仕」するものでなければならない




表現の自由」には2つの側面がある。
1つは「俺が俺の言いたいことを言う権利」であって、これ自体が人間の本質的な欲求のひとつではあろうし、この権利はそのまま「個人の尊厳」「人権」の重要な部分を構成する私権であると思う。
もう1つは、民意の形成に必要不可欠なことであり、自由民主主義政体の運用において必須の権利であり自由であるということで、公的な性格がここにはある。


ただ、じゃあなんで自由民主主義政体が大切なのかというと、自由民主主義の政府は「人権規範に奉仕する」と憲法によって宣言しているからなのだ。
僕たちを不当に逮捕拘束したり、財産を奪ったり、暴力をふるったり、つまりそういう人権侵害をしない、そういうことをさせないと宣言している政府だから僕たちにとって価値があるのである。
そして僕たちの人権を守ると宣言している政府にとって、表現の自由が生命線となるわけだ。


なるほど確かに表現の自由は「人権を守るためにもっとも有効なもののひとつ」であり、だからこそ重要な権利といえよう。
表現の自由がない社会は、国家権力による国民の弾圧がしばしば行われ、それは人権侵害の最悪の形態であることが多い。ある国の国民にとって最悪の抑圧者は、しばしばその国の公権力なのだ。表現の自由は、人権規範におおきく奉仕するものであるがゆえに、重要なものであるということは間違いのないところだろう。


さて、こちらからはざっとこんなところである。
僕のとった立場は、憲法における根本的な理念を焦点化し、たえずそこにもどって諸権利や諸自由を考察するべきだというものである。これが憲法を読む際に要求される態度であると考える。
また、自由民主主義を考える際には、憲法学の議論の蓄積を参照することは必須であると確信している。



蛇足1
表現の自由」が人権規範に奉仕するから重視されることは述べたが、その「表現の自由」が他者の人権を毀損するという面倒な話については、この文の目的でないので稿を改める。ただ、「表現の自由」が人権の上位にある特権というわけではないことだけは前提としてよい。



蛇足2
online_checker氏の発言からは「地下猫=まなざし村村民」と氏はみなしているようだが、まなざし村とやらはどういうもので、僕のどの発言がそれに該当しているかご教授いただけぬものであろうか?
自分の発言の意味がわかっているのなら可能であろう。気に食わない相手を見たら自分でも理解できないレッテル貼りをするよくある能なしではあるまいと思いたいが、あまり期待もしていない。

*1:憲法学の基本書の引用については、「京都大学法学部卒で佐藤本使い」のonline_checker氏が後出しで要求してきた。もちろん喜んで乗ろう!

*2:原文で「奉仕」の部分を傍点にて強調