俺のハピネスは俺のハピネスだ、誰がどう言おうとな


前々回の記事につけられたid:harutabeブコメをきっかけに、harutabeと何度か彼のブログコメ欄でやりとりをしておりましたにゃ。で、今回はその彼の最新のトラバに対する応答エントリですにゃー。
もともと、コメ欄に書くつもりだったけど長くなったし、他の問題ともつながるのでこちらであげてトラバを送ることにしましたにゃー。よって、猫かぶり文体で書いてにゃーです。

>また、コミュニティをぶち壊したことの落とし前、というのは、なんのことでしょう?


生命と健康、財産をなるべく補償するということだが。


http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20110625/1308976377#c1309024263


 ああ、これはとてもわかりやすいですね。まったく賛同します。言い換えると、「政府や東電は被災者の生命と健康、財産を最大限補償せよ」となりましょうか。そして、tikani_nemuru_Mさんの主張としては、そのための最善手が「移住を抑止する*1」ことであると。なぜならば云々。筋は通っていると思います。そして、その筋の通った主張に対する私の回答は、繰り返しになりますけれども、「俺のハピネスを勝手に定義しないでほしい」であり、「国家権力が特定のコミュニティのありかたを、特定の幸福感や特定の思想を、言祝ぎ称揚することは看過できません」です。統計には社会的に正当と認められるストレスしか載ってきませんし、その正当なストレスを前提に被災者の人生のサンプルを措定することは、そのロールモデルから逸脱した人間を疎外し搾取することに直結します。居留にインセンティブを与える、というのは、そうやって、個人に全体への奉仕を要求する発想ではないのですか? 繰り返しになりますが、私としては、国家権力は血液検査とガイガーカウンターで測れる世界のうちに留まるべきだと考えます。「ストレス」や「コミュニティ」といったものに安易に言及させるべきではないと思いますし、それらに言及した補償策をデザインさせるべきでもないと考えます。


http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20110626/1309076575


ストレスというのは、生理的な実体のある現象なんだ。神経系の興奮、血圧上昇など、まさに「血液検査とガイガーカウンターで測れる世界のうちに」ストレスという現象はあるわけ。
例えば長時間労働のストレスで脳血管障害や心臓発作になる確率が何倍になるから月間で何時間以上の残業をさせてはいけませんよ、という疫学的知見による労働法の決まりがあり、それに基づく労災認定基準がある。最近では、セクハラのストレス強度をいくつかの段階にわけて、こういうことをしたらこれくらいのストレス強度だというのが労災認定に関連しているようだ。


「俺のハピネスを勝手に定義しないでほしい」は一向に構わないのだが、公権力がストレスについて一切介入しないことは、実にまずいことはわかるだろ?




さて、
ここで、AとBという二人の人物を想定してみよう。二人とも政府の責任による事故で、同額の財産、生活基盤などを失ったとする。そして二人とも移住をすることとなった。
違いは、「Aはコミュニティ喪失に深い悲しみをいだいているが、Bはコミュニティ崩壊を心底から快哉している」ということだけ、としておこう。


このAとBに、経済的な補償が同額支払われるべきなのは当然だね。
ところで
精神的な損害を賠償する慰謝料について、両者に差をつけるべきだと思うかい?


ここでBが「俺のハピネスを勝手に定義しないでほしい」といって慰謝料の受け取りを拒否してくれれば話は早いのだが、「くさった田舎がぶっ壊れてサイコーの気分だけど、くれるものは貰っておく」と考える人物であることも十分にありえるし、それは別に責められるべきことでもない。
僕の立場であれば、AにもBにも同額の精神的な賠償(=慰謝料)を払うべしとなる。


別の例でもよい。交通事故で夫が死んだ。夫の年収や年齢などの外形的な条件は同じだとする。ただし一方の妻は夫を心から愛しており深い悲しみに沈んでいる、もう一方の妻は夫を殺したいほど憎んでいたので天にも昇る心持ちとしよう。
僕は、どちらの妻にも同額の補償がされるのがスジと思うが、君はどう考える?
夫が死んだことへの慰謝料なんてのは、ロマンチック・ラブ・イデオロギーであってそんなものを公権力で認めるべきではない、とでも主張する?


君はどう考える?
郷土を失い移住を余儀なくされたことが、夫を交通事故で失ったことが、個々人のハピネスに悪影響を及ぼしているかどうか、どれくらいの影響を及ぼしているか、いちいち調査するのかね? 「私も非常に悲しく思っている」とAとBが異口同音にいえば、それでよしとするのかね? それとも二人とも嘘発見器にでもかける? 悲しみや幸福を数値化する装置でもつくるのかい?


ここで問題なのは、「俺のハピネスを勝手に定義しないでほしい」という態度が、裁判所、保険屋、あるいは公権力による個々人の内心の調査に直接結びついてしまうことだというのはわかる?
君は、個々人の内心をいちいち考慮せよといっているが、それはつまり、公権力は個々人の内心を調べるべし、ということになるんだぜ。
そうじゃないというのなら、どういうことなのか教えていただきたい。


精神的な慰謝料ってやつにも【相場】というものがある。時代によっても変わるし、もちろんそのときそのときの価値観によっても変動するものだ。慰謝料と、社会の価値観が無関係だというつもりもない。価値観におけるマイノリティには不利なことも多いかもしれない。
しかしね
「一般的にこういう目にあうのは可哀想ですよね、だからこれくらい補償しましょう」
でいいんじゃないの?
いちいち公権力に内心を調べられるよりはるかにマシなんじゃないの?


「あんたたちの内心をいちいち確かめはしない。でも、こういう目的のために有効なこういう基準で補償するよ」という補償のあり方、つまり 社会がある基準をもって補償をすることは、別に個々人のハピネスやサッドネスを定義することにはならんのよ。
もし仮に一定の補償基準がなかったら、それこそいちいち個々人の内面をはかり、「はい、あんたは親が死んでも悲しくないと数値化されました。補償対象外ですね」などとやらなければならなくなるの。


「国家権力は血液検査とガイガーカウンターで測れる世界のうちに留まるべき」ってのは本当にソノトオリだと思うね。自由民主主義の公権力は健康・生命・財産といった基本的な価値を目標にするべきで、個々の付随的で対立の予想される価値を目標にするべきではない。
しかし、
個々の付随的な価値を【手段として】使うことが禁じられているわけではない。基本的な価値を実現するために一定の基準を示すことが禁じられているわけではないし、その基準が何らかの付随的な価値に沿っていてもかまわない。今回のフクシマ被災者は尋常でなく追い込まれているから、コミュニティという付随的な価値をとおして健康や生命といった基本的な価値を守ることがよいだろうと発言している。しかし、僕は一般的には社会保障はもっと個人主義的なほうが個々人の健康・財産を守るためには有効だろうとも思っている。


ところで、国家権力が「移住ストレス」という言葉を使うことは国家権力による共通善の定義に直結するのではないか、という(相当に極端な)私の主張について、なにか異論はありませんか?


異論というより、君が共通善のことや、公権力による内心への干渉について、ちゃんと考えたことがないんじゃないかと感想をもった。僕がどれだけ共通善や権力による内心への干渉を嫌っていて、【現実的に】それらをなるべく排除しようとしているか想像もしとらんのだろうなあ、と。君の理路では公権力が個々の内心をオーダーメイドで定義することになっちゃうんだぜ。
ちなみに、共通善については以前にエントリをあげている。共有されるべきは【悪】や【誤謬】(追記アリ - 地下生活者の手遊びで、自由主義では共通善を基盤にしてはならないことは明言しているよ。まあ、それにしても絶対ではない。例えば、ガキの幸福のために家族という価値に公権力がある程度コミットすることは妥当だろう。


まとめるぞ

  • 健康・生命・財産といった基本的な価値を守るために、付随的な諸価値(家族・コミュニティ・環境・経済効率など)に公権力がコミットすることは許される
  • 仮に、付随的な諸価値への公権力のコミットメントがいっさい否定された場合、支援や補償の基準づくりも不可能となり、それどころか公権力による内心の調査が必須となる

つまり

  • 「俺のハピネスを勝手に定義しないでほしい」は、加害者を利するだけでなく、個々のハピネスやサッドネスを公権力へ委託すること、になる。


「俺のハピネスは俺のハピネスだ、公権力が何を言おうが、誰がどう言おうが」と僕は考える。
公権力の役割は、少しでも多くの人の健康と財産を守ることなのだから、その目的のために有効であるのなら、「俺のハピネス」でない価値に公権力がコミットしても*1僕はぜんぜんかまわんよ。
ああ、もちろん、最大多数を幸福にするためだといっても、少数者の犠牲においてそれをなすことは絶対に承認しないけど。

*1:例えばスポーツ振興とかな