おサルの世間の真正性

では、違いを確認していきましょうにゃー

サルとしてのニンゲン


子供は他者であり、他者であるがゆえに育児は公共的である。そのようにtikani_nemuru_Mさんは述べておられたと記憶していますが、私の考えではこうなります。育児は公的領域であるところの社会に帰属する、と。当然、ここには差異がある。その差異が、私とtikani_nemuru_Mさんの社会観の根本的な相違なのでしょう。


にゃるほどちがうものですにゃ。
僕は、諸個人は社会という大きなものに直接に帰属することはできにゃーと思っているのですにゃ。べき論でなく、事実認識としてムツカシイと思っている。
sk-44は「土人」「土人部落」というレトリックを使うけれど、僕ならば人類すべては「サルの一種」「サルの群れ」といいますにゃ。


そもそも、私は阿部謹也の世間論に必ずしも同意しないので、tikani_nemuru_Mさんの「世間様」の典拠が阿部謹也であったことに成程とは思っています。阿部謹也の世間論は丸谷才一山崎正和のような日本的市民社会論でもないので、そうした市民社会論ならまだ私は同意するのですが。レヴィ=ストロース阿部謹也が直線で結ばれるのは、tikani_nemuru_Mさんが「中間団体を重視する」のは、社会の原型を彼らの議論の場所に tikani_nemuru_Mさんが見ているから、ですよね。それは、私とは根本的に社会観が違う。レヴィ=ストロース阿部謹也が立っていたメタな位置、という話でもあるのですが。


レヴィ=ストロース阿部謹也が直線で結ばれるのは、ニンゲンがサルの一種であることを免れにゃーからですにゃ。多分、ニンゲンというサルの一種の帰属感は、自らの属する数百の集団に対して感じられるものではにゃーかと考えますにゃ。進化心理学的にきっちりと根拠を示すことのできる話ではにゃーけれども。


以下、確立された定説というわけではにゃー。霊長類学者のド・ヴァールがどっかでこういうことを言っていたと記憶しているけど、手もとの本からは見つからにゃーことは断っておきますにゃ。
多分、ニンゲンというサルの心理生活というのは数百人規模のクラン(氏族)に適合するようチューニングされている。ニンゲンの可塑性はでかいが、基本的には数百人規模の集団で生きるのがこのサルの生態。心理的にもその規模の集団で暮らすようにチューニングされている。


レヴィ=ストロースの「真正性の水準」はその有力な傍証と考えますにゃ。
このサルを一定規模以上の集団に所属させるためには、いくつかの政治的な装置が必要となるのではにゃーかと。近代国家はこのサルの忠誠心を利用するために、民族国家というでっちあげを、たぶんでっちあげと意識しないまま行ったんだにゃ。天皇制や国家神道も、このサルを民族国家とやらに直接的に帰属させるためのでっちあげ。


ニンゲンというサルを一定規模以上の社会に直接的に帰属させるためには、「大きな物語」が必要であると宮台あたりはいうけれど、どっちかというと「大きな物語」ってのは、同じ国民や同志を、あたかも血縁であるかのごときレトリックなんでにゃーかな? これは、いちいち例証の必要すらにゃーくらいだ。守るべきは同胞(はらから)、兄弟であり、国父は政治家への最大の賛辞であり・・・。
で、僕はこの血縁レトリックがあんまり信用できにゃーんで、「大きな物語」なしで済ませたいのですにゃ。
しょうがにゃーので中間団体。
「「中間団体を重視する」のは、社会の原型を彼らの議論の場所に tikani_nemuru_Mさんが見ているから」もいいんだけど、もうちょっと正確にいうと、「サルには群が必要だから」となりますかにゃ。
個々人が直接的に大きなものに帰属するのがアトミズムなのではにゃーのかと思うのですにゃ。これなら権力によっていくらでも動員できるわけで。



世間様の「柔らかな構造」は、国家幻想において止揚される。そして動員と暴力が横行する。それもまた、近代の宿命です。そして私たちは先祖返りすることはできない。「呪術と科学を対立させるのではなく、この両者を認識の二様式として並置する方がよいだろう。」が現在の近代社会に対する「べき論」として述べられるなら、近代主義を経たリベラリズムの立場からは、それは先祖返りの反動としか言えません。


もちろん、べき論ではにゃーです。「呪術と科学を対立させるのではなく、この両者を認識の二様式として並置する方がよいだろう。」は事実認識の問題として紹介しましたにゃ。科学によって呪術を駆逐しようとしたって、そんなことは無理もいいところですにゃ。もちろん、公領域における呪術は困りものにゃんがね。
呪術思考は駆逐不可能というのが現実なので、科学と呪術の並置以外に選択肢はにゃーってことね。



 進化心理学かじった人間は、宗教や民俗的慣習を否定したらあかん。
 偉そうにしているドーキンスはんのケツほいほいついてったらあきまへん。
 古来の慣習は、それなりに人心に適応的であるからこそ、成立し保持されてきた。


http://am.tea-nifty.com/ep/2005/02/grief.html


僕も、ムラ社会をそうそう簡単に「否定したらあかん」と思っているだけのことですにゃ。ムラ社会がろくでもないのでキライなのはいいけれど、ムラ社会も「それなりに人心に適応的であるからこそ、成立し保持されてきた」わけでしてにゃ。


世間様を当て込んでいる限り、レヴィ=ストロースの主張をベタに受け取っている限り、英仏独がそうしたようには、この国において死刑は廃止されないでしょう。だから、私は、裁判員制度に賛成。これは、普通の近代主義の立場だと思いますが。「真っ平御免」とは、そのことです。レヴィ=ストロースもまた「真っ平御免」とメタには言っている、ということです。


僕はアタマがワリイんでね。「メタ」な読み方というものがサッパリぱりぱりパリサイ派。ベタだのメタだの言われてもわかんにゃーのでごめんね。この本のこの辺でこういっているだろ、という話ならわかるんだけどにゃー。


なので――tikani_nemuru_Mさんがレヴィ=ストロースを引いて主張しておられる「真正な社会」という話には、まったくついていけない。それは先祖返りです。


多分フッサール経由でハーバーマスのいっている「生活世界」でもいいし、最近の宮台がいいだしているらしい「パトリオティズム」でもいいにゃ。最近の宮台のいっていることは追っていなかったので、こういうことをいっているとは知らなかったんだけどにゃ。さて、こういうのも「先祖返り」かにゃ?


パトリオティズム、これは日本では「愛国主義」と訳されてしまうが、本当はちょっと違う。パトリとは、そもそも「故郷」や「郷土」といった言葉を指し、それが一概に「国家」ではないからだ。つまり、ナショナリズムパトリオティズムが相容れない場合がある。「お国のために」という題目を掲げた政策が、「郷土」に不利益をもたらす場合は、パトリオティズムは徹底して抵抗するのである。宮台は、このパトリを生活空間と設定する。生活空間とは、私たちが顔をみてコミュニケーションできる範囲の地縁的な相互互助的なコミュニティをさす。グローバル化は、このパトリを解体しようとするわけだが、パトリオティズムはこれに対抗する。地域商店で物を買い、休みは家族と過ごす。地域や家族といった、私たちの母体維持していくこと、それがパトリオティズムなのだ。


こういうと、伝統主義や前近代的なものへの回帰と思えるかもしれないが、パトリオティズムもまた純然たる近代のふるまいである。言い方を変えよう。私たちはいかに楽しい人生を送るかというゲームをしている。そのゲームのゲーム盤を守ろう、というのがパトリオティズムなのだ。私は、これは至極最もなことだと思った。私たちが楽しく生きるためのインフラ(それは生活のインフラであり、労働のインフラであり、遊びのインフラであり、コミュニケーションのインフラである)、それを守ろうとすること、それはまさに近代が想定した「市民」的ふるまいではないか。パトリオティズムから、一揆がおこり、米騒動が起こり、不買運動がおこり、市民運動がおこる。自分が享受している利益について敏感であること、それが侵害される場合には抵抗すること、それが近代社会においては必要なのだ。


散文@相関言論空間アミノユラク 援交から天皇へ至る宮台真司 ――まったり革命からパトリオティズムへ


真正性の水準ってのは、ニンゲンという生物は顔が見える相手と見えにゃー相手では行動パターンを変える仕様になっているという、知恵のついたサルとしてはアッタリマエの話なんだにゃ。で、自らの属する集団の利益に敏感でありつつ、顔の見える範囲において他者の尊厳に配慮し、また、他にもそうした集団があることを考慮すべしといいたいだけにゃんが。
だいたい、世間様だのムラ社会だのは僕だって好かにゃー。おっしゃるとおり性犯罪の二次被害三次被害の主犯は世間様であるというのは僕がいいだしたことだし、その認識は変わってにゃーよ。ただ、ニンゲンというサルを直接的に一定規模以上の集団に帰属させるためには血縁を擬制した仕掛けが必要であり、その仕掛けが根本的に群れ幻想とでもいうものに基づくものであると認識しているということですにゃ。あるいは、「帰属させない」という方法もあるけど、これはアトミズムにしかならにゃーと思うのですにゃ。
よって、サルの群れ=世間様をいじるべし、ということになる。


中間団体が利権団体であるのは百も承知しているし、不正の温床といえばいえるだろうけれど、まあそれはそれ。国家権力による各々のアトムへの直接的統制よりはマシと見ますにゃ。中間団体は利益共同体でよく、愛国心だの共産主義だのといったイデオロギー的うわ言よりはよほどマシ。
何にしろ、旧来からある世間様なりムラ社会そのものを肯定するつもりなど最初から微塵もにゃーし、そんなこと書いたおぼえもにゃー。なんで直接的に顔の見える関係とか、個々人の代替がきかにゃー関係といったらムラ社会呼ばわりされて否定されるのかよくわかんにゃー。

まがいものの共同性としてのヤスクニ

真正性の水準、という論点をあげる身としては、sk-44がヤスクニをして共同性の代表にように書いているところには反論しておかにゃーとな。


「「死んだ子供」ってのは祟るぜー。」ええ。だから祟りを鎮めるためにも靖国神社天皇陛下は御親拝されるべきですね。――そういう話は通らない、という話を私はずっとしています。


ヤスクニだのテンノーってのは、数百匹規模の群れ生活に適合したサルの忠誠心なり感情的帰属感を、近代国家に対して抱かせるためのペテンだにゃ。無論、サヨクの個人崇拝もペテンね。ヤスクニやテンノーってのは、むしろ国家権力による共同性の簒奪だと考えますにゃ。
実際に、明治政府は村落共同体の神社や鎮守の森を破壊しつつ、国家神道をでっちあげていったわけだにゃ。つまりは村落共同体の破壊と国家共同体のでっちあげというペテンだよにゃ。南方熊楠あたりが、血管切れそうな勢いで激怒しているトピックですよにゃ。このあたりの話はオモチロイので、いつか気が向いたら引用してエントリにしたいくらい。


sk-44が、社会と共同体を対立的に扱うのはわからなくもにゃーんだが、少なくともテンノーやヤスクニある限り、日本に「社会」は無理なんでにゃーの?
少なくとも、個人が直接に帰属する「社会」は、テンノーとヤスクニあるかぎり、無理に思えますにゃ。
だから、「死んだ子供」を止揚する社会、というのがテンノーやヤスクニのある国家共同体で実現できるというふうに僕にはイメージできにゃー。テンノーとヤスクニを克服しにゃーところに、社会なんて存在しにゃーよ。


社会というものは、他者の存在を認めるものですよにゃ。共同性だけではそこに社会といえるものはにゃーよね。これはもちろんわかる。
しかし
ニンゲンは社会というものに直接に帰属することはできにゃーのだと考える。帰属とは感情的な満足をもたらすものであり、帰属の対象は小規模な共同体、顔の見える関係が基本なのですにゃ。そして、「おおきな何か」への帰属はほとんど常にペテンでしたにゃ。また、帰属のにゃーところにはアトミズムが待っている。


「自由な社会」は「死んだ子供」をその目的とはしない。「死んだ子供」それ自体が目的であるならば、在特会の「外国人売春婦は私たちの祖父を貶めるな」は正しく市民的行為です。そういうのを共同幻想と言います。「自由な社会」の目的にして条件は公的領域における「死んだ子供」という迷信の止揚であり、市民的行為とは、公的領域において「死んだ子供」という迷信が止揚されるべく振舞うことです。「自由な社会」が「死んだ子供」それ自体を目的とするなら、公的領域など要らない。一切を共同幻想で塗り潰せばよい――靖国神社の境内のように。


「「死んだ子供」という迷信が、いかなる人類社会にもついて回る」こと、それが「僕たちの「自由な社会」の前提であること、条件であること」。私がシカトしていると tikani_nemuru_Mさんが主張される「知識」がそのことなら、こちらのアンサーは以上です。私は、「死んだ子供」を止揚するための公的領域を要請する「自由な社会」を是とするので、「死んだ子供」を目的とするムラ社会は真っ平御免です。価値判断の問題です。これは、リベラリストにとって、あるいは近代主義者にとって、イロハのイのような前提と思いますが。


社会というのは共同性の否定ではなく、他の共同性があることを相互に認証することによっても成り立つと考えますにゃ。
各共同体【間】の多層性・多元性・流動性のうちに社会があると僕は見る。だから、「死んだ子供」を共同性になかに封じ込めるのだと僕はいったのですにゃ。共同性のなかで「死んだ子供」がうろつくのはアタリマエ。しかし、他の共同性というものを認めなければならないとしたら、他の共同性に対して「死んだ子供」を横車につっこんで無理を通すことはできにゃー。
社会とは死んだ子供を止揚するところだと僕も思うぜ。

別エントリに

こっちのエントリについてはとりあえず以下の一点。


表現規制にお国と官憲の腰が軽いことは「性的搾取を目的とする人身売買や研修生問題」「婚姻内レイプ、児童に対する性的虐待、DV、性暴力、セクシュアルハラスメントなど、女性に対する暴力防止対策」に対する腰の重さと裏腹としてある。これら一切がひっくるめて問題、というよりこのことが問題の本丸なので、「国連の人権系の委員会」は問題の本丸に対する認識に些か欠けている、と私は判断せざるを得ません。


ソノトオリ。
だけどさ、
ブログで性犯罪被害者が声をあげたエントリのコメント欄に涌きだした連中*1の反応を思い起こしてみるに、「性的搾取を目的とする人身売買や研修生問題」「婚姻内レイプ、児童に対する性的虐待、DV、性暴力、セクシュアルハラスメントなど、女性に対する暴力防止対策」に対して腰がめっぽう重い親方日の丸と、コメント欄に涌いて出た連中は共犯関係にあるのではにゃーかと思ったんでにゃ。
親方日の丸とコメ欄に涌いた連中との違いは、「女性蔑視的なポルノゲームの氾濫」の是非だけで、それ以外の性差別容認については利益が一致しているのではにゃーのかと思って、ああいう書き方をしたくなったのよ。


親方日の丸に表現規制をさせないことが、当初からの僕の一貫した問題意識なのはご承知のとおり。性差別の解消が最有効手段のひとつであるというのもずっといっていることですにゃ。
差別撤廃は「ヒモ」ではなく市民の義務だしにゃ。

「おまえらがヒモをつけているから、俺は性差別撤廃という市民の義務を拒否する」
ではガキもいいとこだし、性差別と陵辱ゲーの関連を印象づけることにすらなっちゃうにゃ。差別撤廃を是とするのなら、リストにあげられたものを各自是々非々で判断していけばよいだけ。そっちのほうが得だと思うんだけどにゃー。
政府に対しては「表現規制だとかくだらねえこと抜かしてないで、性差別撤廃のために○○をやれ。」
人権団体に対しては「表現は関係ねえよ。エロゲ業界も俺も性差別撤廃のためにこういうことを実際にしてるよ」
と言えた方がいい。
自分の言い分を通すためには、いろいろやるべきことはあるわけだにゃ。

さいごに

にゃんかここんとこ体力がにゃーんでこんなところにしておきますにゃ。
ところで、


ところで、tikani_nemuru_Mさんは私の指摘をいくつスルーしてきましたか。


逐語的に答えているととんでもにゃー量になるので、あるていど絞って選択して答えていますにゃ。で、「ここのところの指摘は重要なはずだけど答えてねえじゃん」と思われるところはご指摘くださいにゃー。都合がワリイところを避けるという真似はしてにゃーつもりだけど、後回しにして忘れたり、正直言ってよくわからにゃーんでほっといてあるところもある。

*1:一応いっておくけど、僕がブログで議論した相手ではなく、あくまで被害者のブログに涌いて出て頭痛のするようなことをわめいていた連中