「死んだ子供」を大切にしてください


前回の長ったらしい論考の補足もかねて、id:takanorikidoに応答しますにゃ。

価値と知識


>あと、「価値は知識についてくる」とローチが思っているであろう
>という読みはおかしくにゃーだろ?


いや、そこは決定的におかしいですよ。
時間ないのでもの凄く圧縮してまとめますが。


権力を分配するための民主主義というゲームがある、
資源を分配するための資本主義というゲームがある、
真理を分配するための自由科学というゲームがある。


もちろんこの世には別のゲームもたくさんある。
たとえば芸術が優れているかどうか判断するゲームは
少なくとも上記3つのどれでもないでしょう。


しかし、上2つは特に重要な分野で凄まじい成功を
収めているので代表と認められている。
3つ目をもっと積極的に認めようというのが本の大意です。


これら3つは、共通の自由哲学に基づいているから、
最終的決定というものはないとかetc.のよく
似たルールを持つが、同じではない。
むしろ相互をごっちゃにすることは禁じられている。


権力で金を奪ったり真理を主張したりしてはいけない。
金で票や科学雑誌のページを買ったりしてはいけない。
優れた科学者だからといって(必ずしもそれだけで)
大統領になったり大金がもらえたりする権利はない。


そうでなければならないのは、別々のゲームでなければならないのは
それによって実現したい価値がそもそも全然別のものだからです。
価値が知識についてくるというのなら自由科学以外の
ゲームはいらないか、少なくとも自由科学に従属することになる。


誰もそんなことは言ってない。少なくともローチは。


http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090804/1249327901#c1249359389


「権力を分配するための民主主義というゲーム」あるいは「資源を分配するための資本主義というゲーム」において、知識の自由が認められるわけではにゃーよね?
140年ほど前はもっとも進歩的な知識人が惨い黒人差別発言をしていたけれど、現在ではメリケンに黒人の大統領がうまれたと前回例示したけれど、これは知識が意見を変え、価値観を変えたという具体例を出したつもりですにゃ。「黒人の劣等性」を主張する差別的知見がことごとく科学によって葬られ、人種の優越性などといったものはないという知識が定着しつつありますにゃ。このことが民主主義政治における価値観に大きな影響を与えたことは否定しようがにゃーと思うけど。

  • 「知識の自由はない」というルール
  • 「誰にも最終発言権はない」というルール

この2つのルールは自由主義における「言論」に適用されるルールだと僕は読んだのだけれど。
政治も経済も言論によって成立する部分が大きく、言論においてはこの2つのルールは適用されるべきもののはずですにゃ。でたらめな知識に基づいて(=知識の自由に基づいて)、政策決定をしたり商品を売ったりすることは許されにゃーよね。政治行為にも経済行為にも、知識の自由はありえにゃー。


「権力で金を奪ったり真理を主張したりしてはいけない。
 金で票や科学雑誌のページを買ったりしてはいけない。
 優れた科学者だからといって(必ずしもそれだけで)
 大統領になったり大金がもらえたりする権利はない。」
ここは弱くにゃーだろうか?
「権力でカネを奪ったり真理を主張すること」も「金で票や科学雑誌のページを買うこと」も少なくともタテマエ上は認められるはずがにゃーのだが、優れた科学者がその科学における業績によって政治家になったりカネを儲けたりすることは忌むべきこととは考えられてにゃーだろう。歓迎すらされるかもね。


「権力を分配する政治というゲーム」においても、「資源を分配する経済というゲーム」においても、知識を軽視することは許されにゃーわけだ。まあ、もちろん「自由科学という真理を分配するゲーム」においても、権力や資源と無縁でいられるわけでもにゃーんだけどさ。政治と経済と科学が別のゲームだとすら僕は思ってなくてさ、これらは複雑にいりくんだ1つのゲームのサブゲームでにゃーの?
知識と資源と権力というのは、互いに互いの基盤となり条件となるような入れ子構造になると思うんだけど、あえてもっとも基底的なものはと問われたら、「知識」ってことになるんではにゃーのかな? 何せ「事実」そのものはニンゲンには不可知なのだけれど、なるべく事実に沿った判断があらゆる局面で求められるわけですにゃ。そして事実を知るために知識というものを僕たちは積み上げているからだにゃ。事実に対するニンゲンの認識が知識なのだから、資源も権力も、知識なしには存在できにゃー。


だから、政治と経済と科学という3つのサブゲームの中で、もっとも優越的地位を与えられるのが科学になるべきだ、と敷延されるのがローチの議論のオモチロイところになると僕は考えているのだにゃ。
そして、科学に優越的地位が与えられても、暴走のおそれはほぼないと見る。
というのも、事実とはそもそもニンゲンの外部にあり、そこに基づくことが規定されている知識というものも、ニンゲンの好き勝手にできるものではにゃーからだ。差別主義者の白人がいくら望んでも白人の優越性を示す科学的知見は得られず、国粋主義者が泣いてもわめいても南京事件まぼろしはにゃー。


そもそも「知識に自由はない」「誰にも最終発言権はない」というルールは(自然)科学における討議のアタリマエの基本ルールだろ? これを自由主義社会の言論全般に適用したのがローチの議論なんでにゃーの? だから、「知識に自由はない」「誰にも最終発言権はない」と改めて定式化する必要があったんでにゃーのかな?
ローチのいう「知識」が、自然科学の手続きから出てくるものである以上、ニンゲンの都合で勝手にできるものではにゃーという内在的な制約があるわけだにゃ。


全ての価値、というつもりはにゃー。しかし、事実判断に立脚する価値は、知識についてくるものになるはずだにゃ。
「知識の自由はない」からこそ、知識の優越性を認め、知識を基盤にして価値形成していくことが望ましい、というのがローチの議論から敷延されることだと僕は考えますにゃ。
そう読んだからこそ、ローチの議論はたいへんにオモチロイし魅力的でしたにゃ。


いちおう補足しておくけど、「知識を基盤にして価値形成」というのは事実と価値の形式的な二分法を否定しているわけではにゃーからね。価値形成にあたって事実をシカトすることはありえにゃーっていうだけの話。ここのところを突っ込まれてもさらなる泥沼にはまるのでとりあえずパス。

「子供の死」と「死んだ子供」

さて、では
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090804/1249327901#c1249347911
で指摘された代替可能と代替不能について。


歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念というものであって、決して因果の鎖というようなものではないと思います。それは、例えば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史的事実に対して、どういう風な態度をとるか、を考えてみれば、明らかな事でしょう。


母親にとって、歴史事実とは、子供の死という出来事が、幾時、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起こったかという、単にそれだけのものではあるまい。かけ代えのない命が、取返しがつかず失われて了ったという感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。若しこの感情がなければ、子供の死という出来事の成り立ちが、どんなに精しく説明出来たところで、子供の面影が、今もなお眼の前にチラつくというわけには参るまい。
歴史事実とは、嘗て或る出来事が在ったというだけでは足りぬ、今もなおその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない。母親は、それを知っている筈です。母親にとって、歴史事実とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言えましょう。


死んだ子供については、母親は肝に銘じて知るところがある筈ですが、子供の死という実証的な事実を、肝に銘じて知るわけにはいかないからです。そういう考えを更に一歩進めて言うなら、母親の愛情が、何も彼もの元なのだ。死んだ子供を、今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実があるのだ、と言えましょう。愛しているからこそ、死んだという事実が、退引きならぬ確実なものと在るのであって、死んだ原因を、精しく数え上げたところで、動かし難い子供の面影が、心中に蘇るわけではない


小林秀雄 「歴史と文学」より 現代仮名遣いになおし、適時改段


ここでは2種類の「歴史事実」が語られていますにゃ。
すなわち「子供の死」と「死んだ子供」


「子供の死」は客観的かつ実証的な事実であって、ローチもそれが「知識」となりえることを認めるでしょうにゃ。しかし、「死んだ子供」とはまず母親が「肝に銘じて」知るものであり、客観的でもなければ実証的でもにゃー。「死んだ子供」はローチによれば科学によって知識として確立されるものではにゃーわけだ。
この「死んだ子供」こそが、小林秀雄のレトリックでいえば「肝に銘じて」知る知識であり、レヴィ=ストロースのいう「真正性」において立ち現れてくる知識なのですにゃ。


にゃるほどローチは「科学の――自由な社会生活の――基本原理は、我々はお互いを殺し合うのでなくて、お互いの仮説を殺し合うということである」と言っていますにゃ。これは確かに知識を代替可能な攻撃目標にして、代替不能である諸個人を守るためなのだといえるでしょうにゃ。知識から属人的なものを排除することで、諸個人を守っているともいえるわけですにゃ。これはこれでわかる。
だけどそのような保護では救われにゃーこともある。


どこかで読んでうろ覚えのことなのだけれど
内乱だか戦争だかで今さっき子供に死なれてしまった父親が、死んだ子供を抱きかかえ涙を流しながら、目の前のジャーナリストにむかって、
「俺の子供が死んでしまった。伝えてくれ、あんたの国に。世界に伝えてくれ。俺の子供が死んでしまったよ」
と言っていたというルポを読んだことがありますにゃ。


この父親が世界に伝えたかったのは、「死んだ子供」という彼にとって退っ引きならぬ事実であって、「子供の死」という実証的事実ではにゃー。
性犯罪の被害者は、被差別マイノリティは、「死んだ子供」を他者に伝えることを望んだこの父親のように、自分たちが「肝に銘じて」知った事実、自分たちにとって「退っ引きならぬ」事実を事実として他者に伝えたいからこそ発言する。事実は伝えられ、共有されなければならにゃーからだ。それが未来における被害者をひとりでも減らし、そして自分も救うことになると信じているから。
それはたぶん「迷信」であり、オカルトでしょうにゃ。
だけど
これこそが公共性であるとも僕は思うのだにゃ。これこそカントのいう「理性の公的使用」なのではにゃーのか?


「死んだ子供」のように、個人の存在とあまりにも深く絡みついた「事実」が公共性を持ちえるということが、代替可能とか不可能とかいう言葉をつかって言いたかったことですにゃ。
そして
ローチは「死んだ子供」を知識として認めにゃーわけだ。


ローチの議論の整合性からすれば、「死んだ子供」を知識として認められるわけはにゃーことはわかりますにゃ。だから「文句がある」という言い方をしましたにゃ。そしてローチの議論に魅力をおぼえているからこそ、「死んだ子供」を知識として認める「真正な社会」とローチの自由科学との橋渡しを考えているのだにゃ。

蛇足というか

さて、蛇足というかにゃんというか。
「子供の死」という客観的で実証的な知識を扱うのが、科学としての歴史学ですにゃ。しかし、その基となるのは「死んだ子供」という母親にとっての退っ引きならぬ事実ですにゃ。
そして
「死んだ子供」という退っ引きならぬ事実を直接に扱うのが、ルポルタージュあるいは文学や芸術、つまり「表現」のはずですにゃ。創作活動ってのは、科学で扱う事実とはまた別の事実を扱うものだと僕は思っていますにゃ。科学では、「子供の死」を扱うことができても、「死んだ子供」を扱うことはできにゃー。「死んだ子供」を扱うことができるのが、創作表現とかルポルタージュですにゃ。


創作というものが、「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」を表現するためにあることは僕もわかりますにゃ。自分たちにとっての「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」を大切にするのもよーくわかる。
でもさー
他者にとっての「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」も大事にしようよ、というのが、僕がずーっと言っていることでもありますにゃ。表現を大切にするのであれば、「死んだ子供」を大切にしてほしい。