共有されるべきは【悪】や【誤謬】(追記アリ

  • A)自分のして欲しいことを他人に施す
  • B)自分のされたら嫌なことは他人に施さない

両者の立場はともにダブスタを回避している点においては倫理的なものにゃんが、その中身はまるで違うものですにゃ。なぜかというと、Aの立場は自らと他者の間に【善】を共有しようとするものであることに対し、Bの立場は自らと他者との間に【悪】を共有しようとする立場といえるからですにゃー。


Aの社会はスバラシイ社会かもしれにゃーのだが、その【共有された善=共通善】を共有できない者にとってはきわめて抑圧的なものでありえますにゃ。宗教共同体なんかが典型例なのではにゃーだろうか。宗教共同体って、信者同士ではすんごく、きゃっきゃうふふ、していて楽しそうだけど、無信仰者はなかに入れずにつらいだろうし、それどころではなく具体的な不利益がもたらされることもありえるわけでしてにゃ。
この社会において、【善】はすでに与えられていて、倫理的葛藤があるとしたら、それは与えられた善、【共通善】に沿うことができるかどうかということですにゃ。


Bの社会は善意にあふれた社会ではなく、いわば相互の「好意的シカト」によって成りたっている社会であるといえるでしょうにゃ。都市的というか、自由主義個人主義というか。ヒトによっては寂しいかもしれにゃーが、マイノリティに居場所のある社会でしょうにゃ。
この社会においては、【善】は自分で判断して求めるものとなりますにゃ。何らかのコミュニティへの奉仕、学問・芸術への専心、政治活動や社会活動に身を捧げること、あるいは娯楽や美食、カネ儲けや色漁りを自らの善と定めることもいいでしょうにゃ。ただ、それらの善は自らにとっての善、あるいはせいぜい仲間内での善を超えるものではにゃーだろうけれど。


だから、Bの社会では善人は不満足ですにゃ。【善】というものは、広く共有されるほど、満足がでかいものですからにゃ。善が共有されにゃー社会では、善人ほど慢性的にフラストレーションがたまるのではにゃーかな。善が個人的・私的なものでしかにゃーというのは、悪徳だとすら感じられるのではにゃーだろうか。
もっといえば、
そんな社会は、享楽的で、堕落していて、頽廃的で、精神性がなく、物質主義的で、利己的で、醜悪で、腐っていて、消え去るべきものだと善人は考えるかもしれにゃー。

自由主義と共通善

しかし、自由主義というのは基本的にBの社会のことなのですにゃ。
ここで僕がおおざっぱに述べてみせたBの社会における、「個々人が定める【善】」とは、いうなれば愚行権のことですにゃ。たとえ愚行と言われようと、他者に危害を加えない限り、自らにとっての【善】を追求することができるのが自由主義のキモですからにゃー。


逆にいえば、自由主義は【共通善】を基盤とすることはにゃーわけだ。自由主義においては、【善】は各自で見出すべきものであって、社会で共有する(つまり、個々人に押しつける)ものではにゃーのだから。
だから、善人は自由主義にイライラするわけですにゃ。善人が主張するのは、勤勉であり、忍耐であり、克己であり、家族の大切さであり、自分を生かしてくれている大きな何かへの感謝であり、つまりは「善き生」であるのに、それを【共通善】とすることが自由主義社会では認められないなんて・・・・
だから

共通善を共有しない悪

善男善女の苛立ちはもっともかもしれにゃー。そこに善き意図のみを認めることにもやぶさかではにゃー。
しかし、【共通善】を設定し、それに従わにゃーものをぶち殺しまくったという歴史的事実はいくらでもあるんだよにゃ。魔女狩りとかナチとかが典型にゃんね。あるいは、今、北朝鮮の民衆のひとりが「首領様という共通善」を否定したらどうなるのか、を考えてみれば、【共通善】が設定された社会でそれを否定することがどんな不利益をもたらすかは了解されるはずですにゃ。


ではそれはなぜ悪とされるのか?
これは単純な話で、共通善を設定するならば、その共通善を受け入れないというだけで、「善に逆らうもの=悪」とならざるをえにゃーわけだ。以前に売春について論じたときにも触れたけれど、売春とは被害者のいない行為であるにもかかわらず悪とされてしまうのは、貞節という共通善に逆らうからだ、という考え方もできますよにゃ。


なににしろ、【共通善】の設定された社会においては、何の他者危害を加えていにゃーにもかかわらず、【共通善】に逆らったという理由だけで命の危険まで含むほどの著しい不利益を被らなければならにゃーわけだ。これでは自由な社会とはとてもいえにゃーので、自由主義においては【共通善】を設定するわけにはいかにゃーんだな。


ちなみに、【共通善】というのは集団によっては明文化されてにゃーことも多く、恣意的な【共通善】の設定とそれに従わない者の排除という形で、いじめ パワハラ などが行われていることも多いのではにゃーかと思ったりしてますにゃ。
あと、教育現場では、校則とか校訓とかいった形で【共通善】が示されるのだけれど、そうした【共通善】由来の排除というのもあると思いますにゃ。ただし、教育現場においては【共通善】まったくなしで教育を行うというのもなかなかにムツカシイものがあるのではにゃーかとも考えられ、今のところ整理がつきませんにゃ。
もひとついっとくと、今の日本における最大の【共通善】は、たぶん天皇制でにゃーかな? まあ、この【共通善】はふわふわしていて厄介にゃんが。

自由主義において共有されるべきもの

というわけで、自由主義においては【共通善】を設定するわけにはいかにゃーわけですにゃ。善男善女には不服だろうけど、【共通善】を受容しなければ著しい不利のある社会に、思想・信条の自由があるとはいえにゃーわけよ。
しかし、もちろん自由主義が無秩序の社会を目指すというわけでもにゃー。自由主義においても、共有されなければならにゃーものがある。それが、【共通悪】とでもいうべきものだにゃ。たとえば利己的な他者危害が悪であるということは、共有されることになりますにゃ。「してはならないこと」は明文化され共有されなければならにゃーわけだ。

  • 自由主義においては、「してはならないこと=悪」が共有される

そして、この「してはならないこと」の共有は、その社会の成員にとっては義務となりますにゃ。ここに反すると法的(=強制的)に排除されることになる。


イースト氏がいうように、絶対的真理などというものは自由主義においては認める必要などにゃーよな。別にポストモダン系リベラルでなくとも、自由主義とはそういうものだにゃ。
しかし、自由主義においても、「してはならないこと」は共有されなくてはならにゃーのも道理ですよにゃ。利己的な他者危害などは、自由主義社会においても、法的に(つまり強制的に)排除されるわけだにゃ。まあ、アタリマエのことですよにゃー。

真理は存在しなくても

さきほどまでの話は、倫理的判断におけるものでしたにゃ。倫理における【共通善】とは、諸学問においては、いわば【真理】に相当するものといってよいでしょうにゃ。
そして、諸学問の中でもsolidな自然科学においても、自然科学仮説は事実そのものでも真理でもありえにゃーということは、科学論における基本的な前提となっていますにゃ。絶対的な真理なんてないということは、自然科学においても前提であるといってよいわけですにゃ。
このあたりをうけて

  • ニンゲンは事実そのもの、あるいは真理には到達できない

しかし

  • 対象にする事象によっては、ほとんど確定的だといいえるところまで近づける
  • 事実に近づく体系的な方法論をもった専門家集団を基本的に信頼する

そして

  • これらについては、文系も理系もない*2


と、自覚せざる自然科学教がまねく歴史修正主義 - 地下生活者の手遊びにおいて発言したけれど、これにちょっと追加したくなっていますにゃ。
「対象にする事象によっては、ほとんど確定的だといいえるところまで近づける」
の前に、以下のような1文をいれたい。

  • 真理を確定できなくとも、何が間違いなのかを確定することはできる


たとえば、水という物質について、そのすべてを知りつくすことはニンゲンという有限存在にできることではにゃー。すべてを知ることなどできにゃーけれど、「水はニンゲンのコトバがわかる」などという与太が間違いであることは断言できるわけですにゃ。進化の機構についてはまだまだわかってにゃーことも多いけれど、創造科学が戯れ言であるといってしまうことはできますにゃ。南京事件の正確な規模や詳細について確定的に語ることは困難だろうけれど、それが「なかった」「まぼろしだった」などというのは大嘘だということは確定しているわけにゃんね。


自由主義社会において倫理における【共通善】が幅をきかせることはにゃーように、【唯一絶対の真理】などというものは各学問においても通用しにゃーし流通もしにゃーだろう。こういう状況を島宇宙とでもポストモダンとでも、好きなふうに呼べばいいだろ。
「唯一の真理はない」、は受け入れるし、「特定の真理を強制されるいわれはない」、というのもおっけー。「真理なんて解釈ゲーム」ってのもいいだろ。
ただし、明白な間違い、端的な誤謬、完全なトンデモはあるんだよ。いくらでも。

  • 真理は確定できなくても、間違いは確定できる

間違いは間違い。解釈ゲームでもなんでもにゃー。
南京事件を話題にしたことのイースト氏の言い訳は、「絶対の真理はない」から「絶対の間違いはない」を直接的に引き出してしまったのと同じだにゃ。わざとやっているのではにゃーとしたら、単純に形式論理における混線。端的に間違い、頭が悪い。

デタラメはデタラメとして遇するのがポストモダン(w

イースト氏によれば、南京事件まぼろし論にも場が与えられるべきということにゃんが、もちろん指摘されているように馬鹿ウヨ論壇でも2chでも場は与えられているし、少なくとも僕の知る限りでは法規制せよなどということを言っているお方もいにゃー。
ニンゲンには愚行権があるし、馬鹿はお互い様なので、馬鹿そのものを責めても仕方にゃーしブーメランにもなるしにゃ。
とはいえ
デタラメはデタラメ、流言飛語とかトンデモはそれなりに扱うのもアタリマエ。
デタラメを垂れ流したら馬鹿にされ、叩かれるというだけのことですにゃ。
これだけの実にアタリマエのことがわかんにゃー馬鹿がうようよしていますよにゃ(げんなり


島宇宙だのポストモダンだのとかいう状況で【共通善】を振りまわされるのが、実にうざったいことであるのは僕もよくわかるんだにゃ。【共通善】ってのは抑圧的だしね。
しかし
島宇宙だろうがポストモダンだろうが、「してはならないこと」を共有しにゃー限り社会は成りたたず、そこでは弱者が食い物にされるだけですにゃ。統制は弱者のためにこそ必要だという側面がありますからにゃ。
だから、自由主義においても「してはならないこと」は共有されなければならず、その受容は成員にとっての義務であるといえますにゃ。


同様に、学問や議論の場において、【真理】をふりまわすことのうざさは僕もよーくわかりますにゃ。うんうん、ポストモダン系リベラルに賛成。
ただし、議論の場において「明らかな間違い」なんてものには一切の敬意を払う必要なんてにゃーわけだ。公共圏(=議論の場)は誰でも参入してよいけれど、参入に際してはクリアしておくべきことはいくつかあり、そうでなければ議論の場から排除されてもしかたにゃーこともある。
例えば、英語圏掲示板で発言するなら、英語ができなければ排除されるのはアタリマエだよにゃ。日本語の掲示板で日本語ができなければ、これも相手にされなくてもしょうがにゃーよな。困ったことに、自分では日本語ができるつもりでも、まるで日本語がなってにゃー馬鹿なんて珍しくもにゃーわけだ。ある話題について発言するのであれば、そのことについての最低限の知識を仕入れておくのはアタリマエだと僕は思うのだけどにゃ。


水からの伝言」「創造科学」「南京事件まぼろし論」レベルの戯れ言については、
「字が読めるようになってから来い」
としか言いようがにゃーんだよ。


真理の共有なんて無理だけどさ、何が明らかなデタラメなのかについては、論者の中で共有すべきことなんでにゃーのかな? 人前でものをしゃべるのであれば、その程度の責任くらいはたさにゃーとね。発言に責任をもつつもりのにゃー奴に対して、聞く耳をもつ必要なんてどこにもにゃーし。

さいごに

イースト氏批判に対する反論に、「真理などない」とか「すべては解釈ゲーム」だとかいう愚昧で何もわかってにゃーことをいう馬鹿がまだいるので、書いてみましたにゃ。フランスからの手紙―ある哲学研究者の東浩紀批判 - toremokoの日記のコメ欄で書くとも公言したし。


自由主義社会においては、【善】【真理】は共有されず、また、共有されるべきではにゃーが、【悪】【誤謬】はそれこそデータベース的に共有されるべきであると考えていますにゃ。
実際に、流通する誤謬は他者危害に用いられることも多いのですよにゃ。水からの伝言がらみのビジネスとか、アトピービジネスとか。南京事件まぼろし論も他者に対して攻撃的な文脈(ヘイトスピーチ)で語られるものですにゃ。
そして、自由主義社会における【善人の不満】をどうするのかは実にムツカシイ問題なのでしょうにゃ。ここの取り扱いの困難さの認識については、イースト氏に同意しておきますにゃ。


これは、リスク管理の主体は誰であるべきか?(追記アリ - 地下生活者の手遊びで論じたこととも関連のあることですにゃー。

追記 29日14:45ごろ

馬鹿がコメント欄で踊っているので、そちらもご笑覧くださいにゃー>みにゃさま