NOBODY氏のポジショントーク
以前にも紹介したことのある、アドルノの「F尺度」において、理系大学生の権威主義的傾向が高いとされることに疑問を感じていましたにゃ。だってさ、アインシュタインとかファインマンなんかはシロウト目には科学者の理想イメージにゃんが、彼らに因襲的なものがあるとは思えにゃーもの。
それに、♀は数学が苦手か? - 地下生活者の手遊びで論じたように、数学あるいは物理学の専門家集団においては歴史学などの学問分野に比して性差別的傾向が著しく少なかったということも存じていますにゃ。
だから、自然科学者はリベラルな傾向があるのではにゃーかというのが僕のイメージだったわけですにゃ。無論、そうした自然科学者のイメージと反するワトソンやショックリーのこともまた取り上げたことはあるんだけれど、自由闊達な自然科学者というイメージは、そこそこ流通しているものだと思うのですにゃ。
というわけで、自然科学、それもハードサイエンスのヒトが政治的にわけのわかんにゃーことを言ってグダグダになっている状況に、僕としては興味津々。
国籍法改正に対するapjセンセイの愚昧ぶりを出汁にして、自然科学と権威主義・権力志向についていろいろと考えようというのが今日のお題ですにゃ。
世界を変えたいなら君には味方がいる - 地下生活者の手遊びの続きね。
「レッテル貼り」への過剰反応
- レッテルを貼る奴を見ると無条件に攻撃したくなる
国籍法関連の話題2つで、どうせあちこちでニセ科学批判と関連づけていろいろ書かれるだろうと思うが、面倒なので探し回る気はない。
ただ、1つだけ宣言しておく。類似のことを私は今後もやる、と。
何故なら、レッテルを貼る奴が嫌いだからだ。これは、私のもうちょっと奥深い感情というか情念のレベルの話だから、このことを批判されても受け入れるつもりはない。私の存在意義がそこにあるから。
とりあえず、ニセ科学批判者というレッテルはお断りしたっけか。ニセ科学と呼ぶのは、レッテル貼りじゃなくてレッテル剥がしだとも書いたことがある。
他人を右翼だの歴史修正主義者だのと呼ぶ奴は私の敵だ。だから、そんな主義者が本当に居るのかと反論する。
他人を左翼と呼ぶ奴も私の敵だ。お前がレッテルを貼ってるのは本当の左翼かと問い詰めに行く。
とりあえず、他人を○○主義者、と呼ぶ奴は、それがジョークでない限り私の敵だ。
自分で○○主義者を名乗る場合は、それを尊重するが……。
ツッコミどころだけで構成されている戯れ言なので、ここでは「レッテル貼り」に対する嫌悪についてのみツッコミますにゃ。
とにかくapjセンセイはレッテルを貼られることがお嫌いのようですにゃ。にゃんでまた、ここまでレッテルをお嫌いになるのでしょうかにゃ?
「多数派には名前がない」 より
こむつかしい ことばで「有徴(ゆうちょう)」って いいますね。医者にたいして、女医という。文学にたいして、女流文学という。医者は「無徴(むちょう)」で、女医は有徴です。「しるしがついている」ってことです。「ふだが ついている」と いっても いいですよ。無徴のほうは、特徴がないと いいますか、それが標準といいますか、「余分なラベルが ついていない」。
中略
こういうのをね、「だれでも ない ひと(ノーバディ)」って いうのです。自分が だれであるのかを 意識せずに いられる ひと。アイデンティティからの自由。これって特権なんですよ。
中略
こういった 「だれでもない」立場から 名前をもつ だれかを 非難するのは、とても かんたんなことです。だって、自分は だれでもないという安全地帯に 身を おいているのですから。属性が ないという権力! 属性からの自由という権力! なんという安全圏!
有徴・無徴というコトバに興味のある向きは、リンク先からさらにいくつかの記事をご覧くださいにゃ。個にゃん的には実に広がりのある概念だと思いますにゃ。
無徴と権力の関連については、他にも「同調圧力」だとか「世間様にさからうな」とか、いろんな言い方がなされていますよにゃ。管理教育における「よい生徒」とは無徴な生徒であり、議論における「一般人メソッド」とは、自分は無徴の存在であることを前提にするわけですにゃ。
このケースにおいて
ネットというところは、ある程度はリアル属性からフリーでいられるし、そこが長所のひとつですよにゃ(むろん、長所は短所の裏返し)。しかし、リアル属性からフリーでいられることが、ネットにおける属性フリーを意味するわけではにゃーことはアタリマエ。発言することによって、望むと望まないにかかわらず、何らかの属性が付与されていくのは必然ですにゃ。
にもかかわらず、ギャラリーの存在を知ったうえで発言し、レッテル貼り(属性付与)を拒絶するというのはどういうことなのか? そんなことは無体な要求としか言いようがにゃー。ネット言論において自分の望まない属性付与をされるってのは、たいていは悪意か能力不足だにゃ、発言をした者か属性付与した者のどちらかの。
今回のapjセンセイへの批判者が、そろって馬鹿だったといいたいのならそれはそれでいいんだけどにゃー。
先ほど引用したapjセンセイの愚昧なるダンスにおいては、具体的な反論ができなくなって、「レッテルを貼る奴」というメタのレッテルを貼って逃げ出し、「余分なラベルがついてない」ことに異様に執着するところを見せたわけにゃんが、それによって「属性が ないという権力! 属性からの自由という権力! なんという安全圏!」の確保という動機が見えてきたのではにゃーのだろうか?
不当なレッテル貼りに抗議するのならともかく、あらゆるレッテル貼りそのものを頭ごなしに拒絶するってのは、この動機以外は僕には考えつかにゃーな。
つまりは
- apjは自分に【NOBODY】というレッテルを貼って、そこからポジショントークをしている
で、このような、いわば【無徴の権力】への固執がapjセンセイにあらわに見られるのはわかったけれど、問題は、このような【無徴の権力】への固執という傾向がapjセンセイの個人的な特質に還元できるかどうか、ってとこなのではにゃーかと。
自然科学と無徴
疑似科学批判者がしてはならないこと - 地下生活者の手遊びにおいて、
- 自然科学はその内的論理によって価値中立であるだけでなく、社会的機能(外的論理)においても価値中立が要請される公的原理である
と述べましたにゃ。
この自由民主主義政体において自然科学に要請される価値中立というのが、【無徴】と実に親和性が高いのだにゃ*1。自然科学における知見は「自然の鉄則」「属性フリー」なものとして提出されるわけですからにゃ。
- 自然科学→属性フリー→無徴
という連鎖がおこるのは必定ではにゃーだろうか。
さらに、無徴とは多数派(NOBODY)の権力の源泉であるという理路を受け入れるのならば、自然科学から権力につながるラインを確認できるということになりますにゃ。
自然科学が価値中立を要請されるものであることに異議はにゃーです。しかしそれに、多数派(NOBODY)の権力の源泉たる【無徴】がからんでくると、実に始末に悪いことになりそうなのですにゃ。どうやって切り分けていくのか、僕には今のところさっぱりわかんにゃーのだ。
- 【科学における価値中立】と【多数派(NOBODY)の権力の源泉たる無徴】がごたまぜになって分離不能
というわけで、分離不能なのは僕の頭がワリイからだけなのかもしれにゃーのだが、まあとにかくapjを出汁にして理系から権力志向にいたる道筋のひとつ、あるいは自然科学そのものがこの社会で持つ権威主義的性格が僕としては見えてきた感じですにゃ。
自然科学とアドルノのF尺度については、一周まわってつながって - Apeman’s diaryのコメント欄に
Apeman
アドルノらの研究当時とは科学技術(者)の社会における位置とかも違ってますので、そのまま適用可能なのかどうかは見当が必要ですが、“自然科学=きっちり再現可能なので高級、人文・社会科学=グダグダ”みたいな科学観の背後にある世界観がマッチョなそれである、というのはありそうに思うんですよね。
という発言がありますにゃ。確かにありそうなことだと僕も思ったのだけれど、他の理路も考えてみたというところにゃんね。もちろん、両者は矛盾しにゃーです。
ついでに相対主義
ついでにいっておくと、相対主義も無徴と相性がよさそうにゃんねえ。
こたびのイースト氏のダメダメ発言も、【無徴という権力】へのすりよりという見方もできるのではにゃーだろうか。あれは「ポストモダン系リベラルはNOBODYです」っていうことなんでにゃーのかな?
科学も相対主義も、それぞれ無徴と仲良しこよしになっちゃいがちですにゃー。
どうしよう?
そんなこんなで、僕は「反・反科学」「反・反相対主義」などとねじくれたことを言っているというところもありますにゃ。
最後に
NOBODYって、「どうでもいい奴」「つまらない奴」って意味もあるんですよにゃー
*1:極論すれば、あらゆる権力の理想とは、無徴であることといえるかもしれにゃー。ホロコーストとトリアージは呪われた双子(追記アリ)(再追記アリ) - 地下生活者の手遊びで論じた、「自然の再出現としての権力」にもかかわりのある話ですにゃ