書き換え可能な神話としての自然科学

2008-11-17を元にネタ的な書き物をば。


上記エントリでの議論に興味を持たれた方、科学論に興味のおありの方には、以下のブログエントリのシリーズ記事をマジにお奨めさせていただきますにゃ。

一連のシリーズのまとめとして

まえまえからこのブログを紹介しようと思っていたけれど、科学ネタがちょっともりあがっているので良い機会だと思いましたにゃ。20世紀の科学哲学について手堅くまとめてあるし、ただのまとめではなくブログ主satsuki_327の堅実な見解もありますにゃ。全体的にsolidな言論であると僕は評価していますにゃ。他の記事もお奨め。クーンについては(その5)で触れられていますにゃ。


で、話をsivadのエントリにもどしますにゃ。
リンク先エントリから「アメリカの科学入門書SFAA」の見解を転載

  • 科学は証拠を必要とする
  • 科学は論理とイマジネーションの混合物である
  • 科学は説明と予測を与える
  • 科学は権威主義ではない
  • 科学は複雑な社会的行為である


この転載した各文の、【科学】を【神話】に換えても、神話の説明としてもだいたい成り立ってしまうのですにゃ。いや、マジなんですよ。神話ってのは現実をどう説明するかという体系にゃんからねえ。
もちろん、予測の確度は科学と比べるべくもにゃーけどな。
「神話は権威主義ではない」については受け入れられにゃーヒトもいるだろうけれど、ストロースのいう「真正性の水準」が高ければ神話は権威主義にならにゃーだろう。
神話の機能を説明していくのもオモチロイのだけれど、僕の能力を超えるし時間もにゃーのでパス。興味のある向きは、レヴィ=ストロースでも読んでくださいにゃ。

神話と意味 (みすずライブラリー)

神話と意味 (みすずライブラリー)


で、精度や確度以外で、神話と科学の違いってなんだろか。
もちろん、この問いに対しては、レヴィ=ストロースは「野生の思考と栽培された思考」という図式で説明をしているのだけれど、それはそれとしてもっとイイカゲンで科学好きが嫌がるような(w)説明の仕方ってにゃーかとネタ的に考えてみましたにゃ。
で、考えたのが*1

  • 科学は【書き換え可能な神話】である


神話って言うのは、その根拠となる事実と解釈が一体化しているものだと考えますにゃ。その神話で説明のできにゃー事実があると、その神話が変換されて別の神話をつくることになるわけですにゃ。事実(sivadのいうピース)が蓄積されることはにゃーのよ。

  • 神話においては、事実と解釈は一体化しており、極論すれば事実の数だけ変換された神話がある

わけですにゃ。
ところが自然科学においては、事実(=ピース)が蓄積されるにつれて、その説明をしていた仮説に不具合が生じ、仮説が部分的に書き換えられてしまうことは通常おこっていることですにゃ。科学者集団が総出でメンテにあたって、具合の悪いところはガンガンとっかえて常に改良を加えていくのが、科学という知の偉大なところですにゃ。
事実(=ピース)が蓄積されていき、あるいは部分の解釈が取っ換えられていき、もともとそこにあった(と考えられていた)絵柄が書き換えられてしまうということがおこっても不思議はにゃーだろう。それをパラダイム変換とかいうのではにゃーだろうか。
つまり
自然科学というのは、事実と説明が分離可能で、集められた事実に応じて説明を書き換えしちゃうわけだよにゃ。ここが神話と決定的にちがうのではにゃーかと。


このあたりの話は、以前にも体験によらない知識の重要さについて言っておく - 地下生活者の手遊びでいったことでもありますけどにゃ。
自然科学の人類史的な意義は、事実そのものの共有を可能にしたことではにゃーかと考えますにゃ。
このことは確かに圧倒的に重要なことではあるんだけど、それでも科学と神話は似たようなところはたくさんあるんですよにゃー。これはもちろん、昨日のエントリでいう「受け手」にとってのことなんだけれど。

*1:いや、言い出したのは同居人なんだけどさ、と正直にいっておく