天にまします我らの結果平等よ、あるいは地を這うAとB(追記アリ


「選択の自由」が排除する人々 - 過ぎ去ろうとしない過去のコメント欄
および
究極の不平等という平等の可能性 - よそ行きの妄想のコメント欄にカキコしましたにゃ。

hokusyuはルールから零れ落ちるもの、あるいは配慮 - 過ぎ去ろうとしない過去というエントリもあげていますにゃ。
そのあたりをいろいろと


「選択の自由」は欺瞞なんです。
中略
ちなみにぼくは機会平等だけじゃぜんぜんだめで、結果平等じゃなきゃいけないと思ってます。左翼なので。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080302/p1


機会の平等は、機会が完全に均等に保障されるルールが成立した時点で「終わり」です。まあ、機会の均等を維持していく努力は必要かもしれませんが、基本的にはルール成立の時点で敵対関係は解消され、全員が等しいルールのもとで「競争」していくことになります。
中略
たとえば、機会均等でも「最低限の」生は保証されるといいます。確かに、機会を均等にするためにはある程度の生活の保障がなければ不可能でしょう。しかし、それは結局ゲームに参加させるための手段であるか、あるいはゲームに参加できないものに対する「施し」なのです。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081102/p1


そうとういろいろとダメ理屈だにゃ。
検討してみよう。

参考書はこれね

不平等の再検討―潜在能力と自由

不平等の再検討―潜在能力と自由

「平等か自由か」、は偽問題

平等であることは、それ自身が内在的な価値を持ちますにゃ。リバタリアン的なアプローチは一見すると平等より自由を重視しているように見えるけれど、それは各人に自由を「平等に」保障することに眼目があるからであり、ある特定の変数に焦点をあてれば(以下、焦点変数という)、他の変数についての不平等は仕方にゃーということになるわけですにゃ。
「何で平等でなければいけねーんだよ」と公言する反平等主義を自認する者の主張においても、その主張内容を検討すると、ある特定の焦点変数においては平等を主張していることがわかるでしょうにゃ。
そして
ある特定の焦点変数を採用するということは、ある特定の倫理的・政治的立場を採用するということに等しいわけですにゃ。ここ重要。


「結果の平等か機会の平等か」、という選択は、焦点変数をどこに置くのかという問いの典型なんだけれど、後に検討するように非常に粗くて困った問いなのですにゃ。

平等は方法か目的か

平等というものを社会的・政治的に無価値なものだとみなす見方はさすがにあまり見かけにゃー。平等を価値あるものと見なす場合、おおざっぱにわけて

  • 1)平等そのものに価値がある。平等には内在的な価値、倫理的な価値があるという見方
  • 2)平等には方法として価値がある。富の増大、生産の効率性、社会秩序の維持などの有効な方法として価値がある

1と2は相互に矛盾はしにゃーので同時に成りたちますにゃ。多くの論者も、1だけあるいは2だけの視点で平等を論じることは多くにゃーだろう。そもそも、先ほど述べたとおり、平等それ自身をまるで無価値であるという前提で立てられた議論というのはほとんどありえにゃーだろう。


結果平等に反対する論者の典型として、
1)においてフリーライダーと努力を惜しまない者が平等であるというのは不道徳であり
2)において社会的に効率が落ちる
という立論があるでしょうにゃ。これはこれでわかる。


さて、ここで注意しなければならにゃーことは、ニンゲンというのは感情的・倫理的なサルであるということですにゃ。僕たちは、倫理的に正しいと感じる解は方法としても正しいと思いこみたい欲求があるんだよにゃ。あるいは、自分の主張する解は倫理的なものであるが、論敵の主張する解は方法論的なものであると思いこむパターンもありますにゃ。逆に、自分の解は現実的だが相手の解は夢想にすぎないとかいうのもあるかにゃ。
平等の問題を考えるとき、倫理的な直感と方法論的な有効性が乖離しているという可能性を常に考える必要があるのではにゃーかと考えますにゃ。これはなかなかムツカチイことで、僕もぜんぜんできにゃーんだけどね。


ここでhokusyuの議論を見てみると、「機会の平等」というものはあくまで方法である、しかも競争原理に仕える方法であると考えているのがただちに理解できますにゃ。そして、内在的・倫理的に価値のあるものこそ「結果の平等」であるとおっしゃっておいでなのですにゃ。

結果の平等、という無内容?

結果の平等、と一口にいっても、その焦点変数が具体的に何なのかは大きな問題となりますにゃ。

  • 結果としての【所得】の平等なのか?
  • 結果としての【富】の平等なのか?
  • 結果としての【厚生水準】の平等なのか?
  • 結果としての【効用】の平等なのか?

・・・経済学者だったら、この【 】の中に他にもいろんな焦点変数をいれることができるでしょうにゃ。所得の平等と富の平等はぜんぜん違うモノですにゃ。富の著しい不平等をともなう所得の平等も、あるいはその逆も考えられますにゃ。結果の平等を主張する場合、いったいどの焦点変数において平等を主張しているのかがはっきりしにゃーと、その主張に対して判断しようがにゃーんですね。
焦点変数が必ずしも単一である必要はにゃーだろうが、何らかの焦点変数が示されにゃー限りは「結果の平等」の判断基準がないことになり、つまりは「結果の平等」の存在が成りたたにゃーことになっちまうのですにゃ。
そして
何らかの焦点変数における平等は、他の焦点変数における不平等を意味することも多かろうと予想されますにゃ。まあこのあたりはhokusyuもわかっているっぽいけどにゃ。


もちろん、「機会の平等」においても、どの焦点変数において機会の平等を主張するのかという問題が生じにゃーってことはにゃーです。
ただ
機会の平等と結果の平等では、焦点変数の重みがだいぶちがってくるんだにゃ。
なぜ焦点変数の重みがちがってくるのか?

2つの「機会の平等」


「選択の自由」は欺瞞なんです。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081030/p1


もしカンペキな機会平等が実現したとして、それはつまり自分の能力以外に
結果の不平等を帰することの出来ない世界ですから、そうしたときに僕らの道徳はどうなってしまうの?
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081030/p1 コメント欄


機会の平等は、機会が完全に均等に保障されるルールが成立した時点で「終わり」です。まあ、機会の均等を維持していく努力は必要かもしれませんが、基本的にはルール成立の時点で敵対関係は解消され、全員が等しいルールのもとで「競争」していくことになります。
中略
機会を均等にするためにはある程度の生活の保障がなければ不可能でしょう。しかし、それは結局ゲームに参加させるための手段であるか、あるいはゲームに参加できないものに対する「施し」なのです。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081102/p1


hokusyuの批判している「機会の平等」というのは、【降りる】ことが許されにゃーものらしい。うんうん、強制参加のゲームだとしたら確かに「「選択の自由」は欺瞞」にゃんねえ。
hokusyuの脳内世界というのは「もしカンペキな機会平等が実現したとして、それはつまり自分の能力以外に結果の不平等を帰することの出来ない世界」であり、「全員が等しいルールのもとで「競争」していく」世界にゃんね。
hokusyuの脳内世界には
「おれ、めんどうだからいち抜けた」
「仕事以外だったらなんでもしまっせ」
「ぐうぐう」
「ちんぽろすぴょーん」
とかいった連中の住む場所はにゃーらしい。
「能力の格差」しかhokusyuは触れてにゃーんだよね。嗜好の多様性には興味がにゃーのかな?


生活保障がなんで論証抜きに「ゲームに参加させるための手段」になっちゃうのかにゃ?
もしかして、ニンゲンをネズミ程度に思ってるんでにゃーのか? 
資本主義に欲望を注入され排除におびえるだけの存在がニンゲン、つまりは餌と電気ショックで学習をするネズミであると考えるのならば、hokusyuの憂いは正当だ(げらげら

  • 機会の平等には、「降りる」自由がある【機会の平等A】と、強制参加の【機会の平等B】がある

実質的に降りる自由があるってのは、降りても食うには困らないし、「降りるのやめた(=ゲームへの再参加)」もできるということだにゃ。
で、強制参加の機会の平等Bってのは、実のところは強制参加ではにゃーんだな。金持ちであれば参加は自由にゃんからな。よって、万人にとって平等なのは、機会の平等Aのほうだにゃ*1
僕の主張しているのは、機会の平等A、降りられる機会の平等のほうですにゃ。降りても食うのには困らにゃーっていう状況から生まれてくるものもあるだろ。例えば、同人ゲームなんてのはその典型なんでにゃーのかな。「東方」とか「ひぐらし」ってオモチロイんだろ? カネにもなってるし。 ギリシア哲学なんかもヒマ人の暇つぶしをベースにして、二千年以上あとの東の果てのバルバロイが読んで驚愕する現代性を備えたモノがでてきたわけで。
そして食う分以上にカネを稼ぎたければ、趣味としてガンガンやっていただきたい。そこから生まれるものもあるだろ。これは説明不要だよにゃ。


というわけで、機会平等においては焦点変数はそれほど問題にならにゃーのよ。例えば、ベーシックインカムの給付金額次第で機会の平等BがAになりうるんではにゃーかと*2

結果平等と共通善

結果の平等を得るためには、特定の焦点変数を採用する必要がありますにゃ。特定の焦点変数を採用するということは、特定の倫理的・政治的立場を採用し、これを経済的政策として強要するということにゃんね。

  • 結果平等のために特定の焦点変数を採用する=共通善を定める

ということにゃんね。結果平等って、共同体主義の経済版だと思うんだよにゃー。


一方、機会の平等A(降りられる機会の平等)においては

  • おまえにとっての善はおまえが定めろ

はい、これが正しい意味での「自己責任」ですにゃ。
で、
おまえにとっての有用性はおまえが定めろ、となると「市場」というものがどどーんと前面にでてくるわけでしてにゃ。善というものは極私的なものであるのと同時に、単独で存在できるものでもにゃーわけで、個々の善(経済学の用語では効用とか選好とかかにゃ?)は討議・コミュニケーション、あるいは市場を通して普遍性を獲得していくことになるのでしょうにゃ。


また、機会の平等B(強制参加の機会平等)が貧乏人奴隷化であることは認めますにゃ。そして、AとB、降りられる機会の平等と強制参加の機会の平等は確かに地続きだ。そこも認める。
結果の平等は天上におられやがりますけどにゃー。

追記 11/4 22:30ごろ

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081102/p1
で愛泥コールされましたにゃ。


2008年11月04日 id:flurry
hokusyuさんは「一意な幸福の基準のもとで平等になるように」なんてことは言ってないと思われますので、id:tikani_nemuru_Mさんやid:zaikabouさん辺り?は注意されたほうがよいかもです。ポイントは「配慮」でしょうか。


2008年11月04日 id:mojimoji
要は「法は脱構築できるが、正義は脱構築できない」ってことかと。/センの議論も、そのように読むべき。


mojimojiのブクマコメもセンに触れているので、僕のエントリを考慮したものでしょうにゃ。


さて、どんなシステムを制御するにしても、出てきた「結果」をフィードバックするのはアタリマエですにゃ。機会平等だろうが結果平等だろうが、出てきた結果をフィードバックしなければならにゃー。何らかの目的をもってシステムをいじるのであれば、結果からフィードバックしなければならにゃー。
だから、【正義】を行うためには(配慮をするため、でもいいけど)、結果からのフィードバックは必須だにゃ。


何度も言うけど、

  • 結果平等だろうが機会平等だろうが、結果を参照するのはアタリマエ

これが前提だにゃ。


まず、僕の批判の論点を「法は脱構築できるが、正義は脱構築できない」という視点から捉えなおすと、「結果平等って【法】だろ?」 となりますにゃ。もっといえば、機会平等だろうが結果平等だろうが、何らかの焦点関数から平等を帰結させ、そこから社会をデザインすることは【法】なんでにゃーのか?


つぎに、【配慮】と結果の平等を直接につなぐ理路があるわけではにゃー。
というか、機会の平等にしろ結果の平等にしろ、何かについての平等というのは何らかの倫理的立場を前提とするわけで、結果の平等だけに【正義】が独占されるということなどありえにゃーというのがエントリで書いたことのはずだにゃ。
あえて言えば、配慮された機会の平等として、降りる自由のある機会の平等Aを主張したのですにゃ。


さらに、平等という概念は何らかの焦点変数なしには成立しにゃーのだから、平等を持ち出すことそのものが、「一意な幸福の基準のもとで」という前提を含意することになるのだと論証したはずなんだけどにゃ。
結果を参照し配慮する、ということが言いたいのであれば、結果の平等などと言いだすべきではにゃーのだよ。繰り返すけど、機会の平等とて結果を参照し配慮したものでありえるのだにゃ。hokusyuが機会の平等をDISって結果の平等を持ち出した以上、「hokusyuさんは「一意な幸福の基準のもとで平等になるように」なんてことは言ってないと思われます」などという戯れ言は通用しにゃーだろうに。

*1:Bのほうで金持ちにも強制労働させるっていうのも平等だけど

*2:このあたりはちょっと粗いかな?