パフォーマンスアートとして麻生邸見学ツアーを支持する(追記アリ

詳しくは麻生でてこい!!リアリティツアー救援会ブログ フリーター全般労組執行委声明 不当逮捕への抗議と62億円の豪邸の持ち主への要求を読んでもらうとして、


この「ツアー」、社会の「貧困」「格差」を解決すべき人物が、私たちとどれだけかけ離れた暮らしをしているのかをこの目で見て実感する、誰もが歩くことができる公道を、渋谷駅頭から麻生邸の前まで歩きながら、その土地だけで62億ともいわれる豪邸をくっきり目に焼き付けて帰る、という趣旨のものでした。


このツアーから逮捕者が出たとかいうことですにゃ。どうやら不当逮捕だというのはここでは前提としますにゃ。ま、警察権力による「見せしめ」逮捕でしょうにゃ。

  • つまりこれは警察の側のデモンストレーションであった

というあたりは明白かと。

この被逮捕者=被害者の言い分がへたれであることが批判の対象になっているようにゃんね。


今回の件で何が一番違和感があるかって、当の「被害者側」が一生懸命『これは政治行動じゃないんですよ〜。ただの“見学ツアー”ですよ〜。遠足みたいなもんですよ〜。』と自らの政治性を否定するかのような主張をしているところ。

もう馬鹿かと。


『ただ歩いてただけで逮捕』なわけないじゃん。 - 想像力はベッドルームと路上から


「政治性を自覚せよ」という主張に「もやっとしたもの」を感じるのだけれど、そこに関しては「歩いただけで逮捕」の意味するもの - 地を這う難破船言語化してくれているのでそれはそれとしておきますにゃ。
僕がこの出来事から連想したのは、なぜ、それがアートであるか――Chim↑Pomの『ピカッ』をめぐって - 地を這う難破船のほうなのですにゃ。


artistがartとしてやったことはartです。artistとは何か、自身の必然に即して活動する者です。


art概念については、とりあえずこういうふうにしか言いようもにゃーだろう。「だから「アウトサイダー・アート」が「art」概念においてある」のであり、同時にartが政治的でありうることはまったく否定できにゃーわけです。モダンアートの歴史に触れる余裕も能力もにゃーのだが、近現代の美術は常に何らかの政治的な意図を有していたというのはガチだろ*1
「自身の必然に即して活動する」ことが政治と何らかのかかわりを持つこと自身が必然であるといえますからにゃ。


個々人の「自身の必然」が生活・労働・自然環境・政治などのニンゲンが規定したりニンゲンを規定したりするすべてと何らかのかかわりを持つことの必然があるからこそ、アートは万人に開かれており、そしてまた全ての営みに開かれているといえるわけですにゃ。
よってアートにおける表現の自由という理念は、個人主義自由主義の社会においては独特の地位を占めることになるわけですにゃ。「自身の必然に即して」何らかの行動を起こすということは、アートと無関係なことではにゃーのです。


だから、アートへのDISりというのは、その表現者自身の必然(あるいは表現者が自身の必然だと思いこんだ何か)に対するDISりということになりますにゃ。Chim↑Pomについて言えば、作品を完成させてDISられることを選択して欲しかったというのが個にゃん的意見。まあ、今回に限らず、彼らの「作品」は、自身の必然というよりは、文脈の必然にのっかっているだけに思えるのですけれどにゃ。文脈の必然はテキストでやってほしいものだにゃ。


おっと話が飛んだ。
さて、アートが「自身の必然に即する」ものである以上、それは絵画や彫刻などに限定される必要はまったくにゃーわけだ。行為あるいは出来事としてのアートというものがありますにゃ。それが【パフォーマンス】ですにゃー。
wikipedia:パフォーマンスアートより引用すると


パフォーマンスアートは時間、場所、パフォーマーの身体、パフォーマーと観客との関係という、四つの基本的な要素を含むすべての状態において成立しうる。

  • その作品の行われる場所は美術館、ギャラリー、カフェ、劇場、路上など非常に多様である。
  • また行われる時間や長さも多様である。1回限りのものもあれば、何度も演じられるものもある。一瞬で終わるものもあれば、映画並みに長いものや果てしなく続くものもある。
  • パフォーマーは演劇とは違い、普通はキャラクターを演じず、芸術家自身としてパフォーマンスを行う。
  • 即興の場合もあれば、練られた脚本に従って練習を入念に行い演じられるものもある。そのストーリーは一般的な起承転結や物語りに属しないものもあるし、そもそもストーリーが全く存在しないものもある。また観客は一方的に見るだけでなく、参加や助力を頼まれたり、場合によっては危害を加えられることもあるなど、パフォーマンスに巻き込まれることが多い。


中略


パフォーマンスは大勢の人々に直接訴える方法であり、同時に人々にショックを与え自分達の芸術観や文化との関係を見直させる方法でもあった。


な、この記述からすると*2

  • 麻生太郎邸拝見「リアリティ・ツアー」はパフォーマンスアートとして成立している

自身の必然に即した行動であり、観客参加型であり、「場合によっては危害を加えられ」ており、大勢の人々に直接訴える方法であり、人々にショックを与え自分たちの政治文化を見直すことにつながっているではにゃーか。
Chim↑Pomより断然オモチロイぞ。


さて、これをアートと考えれば


自分にとって面白いことを自分が面白いように勝手にやる、その本質的に孤独な営為を現代社会は「art」概念において規定し社会に位置付けました。なのでartistとは必然的に蛮人であって、たとえば自身の活動についての説明責任は本来的にない。ワタシつくる人アナタ解する人。そして縁なき人。むろん縁なき人で悪いということはない。


artistは自分が面白いと思うことを勝手に追求してまったく構わないのであって、倫理性は「自分が面白いと思うこと」に対して示されればよい。つまり、社会のコードから切り離された自分自身の――まさに芸術的判断に対してのみ。


http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20081027/1225064294


「歩いていただけです」でいいんでにゃーですか?
パフォーマンスに引っ張り込まれて、面白いから歩いていただけ、で十分ではにゃーだろうか。
アートが「本質的に孤独な営為」であることと、時に第三者を引っ張り込んだり群れたりすることは矛盾しにゃー。「社会のコードから切り離された」個々人がナイーブだとか世間知らずとか責めてもせんなきことであり、そうした彼らに警察権力が立ちはだかるのもアタリマエといえますにゃ。


それが人間にとっての芸術ということであり、近代以降にあっても、概念としての「人間」において芸術は欠くべからざるものであったということです。特権的領域において人間の人間である所以は担保されてきた、ということです。あらゆる人を「人間」と規定する近代市民社会にあって、人間の人間である所以を担保する芸術は、万民へと開かれました。それに伴って特権的領域自体が大衆化し、対するにアバンギャルドが云々、と続きはしますが、岡本太郎ダダetc思いきり端折って結論するなら、人間の人間である所以を担保する特権的領域それ自体は今なお機能しているし、その度重なる更新を経た最先鋭として現代美術すなわちcontemporary artは位置します。前衛概念の不可能と共に。

  • ニンゲンのニンゲンたる所以を担保する特権領域を路上に持ち込もう! 権力者の豪邸の近くに持ち込もう!

重ねて言うけど、Chim↑Pomより断然オモチロイではにゃーか。

追記

リンク先が間違っていたので訂正した
ついでに、参照記事をリンク

*1:ダダイズムがネオダダになってイズムが抜け落ちるなどという事態は確かにある。しかしそれはアートの脱イデオロギー化という政治スタンスを表しているわけで、非政治的ということにただちになるわけではない。自己言及的なものは非政治的になどなれないともいえる

*2:この記述には特に異論がない