一切合財怠けよう、恋するときと、飲むときと、怠けるときをのぞいては

タイトルは「怠ける権利」に引用されたレッシングというヒトのセリフ。昨日の続きといえば続き

「怠ける権利」というプロパガンダ

蟹工船がやけに売れ、共産党新規入党者が1万人を数えているそうで、パンク・イズ・ノーデッドならぬコミュニズム・イズ・ノーデッドと中指ぶったてて絶叫したい気分が蔓延している気配がそこはかとなくそぞろにただよう裏の苫屋の秋の夕暮れにゃんね。
蟹工船につづく二匹目のドジョウのつもりかどうかは知らにゃーが、以前人文書院から出ていた「怠ける権利」が平凡社ライブラリーで今夏復刊いたしましたにゃ。

怠ける権利 (平凡社ライブラリー)

怠ける権利 (平凡社ライブラリー)

ネットにおいても抄訳がありますにゃ。


原作者のポール・ラファルグはマルクスの娘婿だったそうで、この論文(というよりプロパガンダ)も大好評を博したとのことですにゃ。


一八八〇年、この「怠惰礼賛の書」が、先鋭な社会主義機関誌「平等(レガリテ)」に初めて発表された時も、ヨーロッパの先進的労働者および大衆に爆発的な人気を呼んだ。当時の学殖豊かな政治家ブラックによると、「マルクスエンゲルス共産党宣言を除いて、社会主義関係の著書では、これほどまで多様の言語に翻訳されたものはなく」、ロシア語からイディッシュ方言にいたる全ヨーロッパ語に翻訳され、秘かに読まれたものである、という。
訳者あとがき P205〜206


にもかかわらず、この「論文」を論じたものはほとんどなかったとか。
当時のフランスでは大恐慌の真っ最中。設立されたばかりのフランス労働党でラファルグは労働運動の再編成に活躍したけれど、この「怠ける権利」は選挙運動に有利に作用するどころか、教会やブルジョワ派の妨害活動の種につかわれて党内でもヒンシュクを買っていたということですにゃ。
で、義父のマルクスからもラファルグの言論は完璧にシカトされておりますにゃ。


まあ、仕方のにゃーことかもしれにゃー。啓蒙主義やジンケンまでぶっちぎりでDISりまくりですからにゃ


プロレタリアートが自らの力を自覚するためには、キリスト教や経済学、また自由思想家の道徳的固定観念を踏みにじらなければならない。本来もっている本能に立ち返り、ブルジョワ革命の形而上学的な擁護者たちが用意してくれた肺病病みたちの人権よりも何千倍も高貴で神聖な怠惰の権利を宣言しなければならないのだ。日に3時間しか無理に働かないようにし、残りと夜はのらくらしてご馳走を食べるのである。


http://www.geocities.jp/beringia2002/chap2.html より


とはいえ、この本をざっと眺めた上で、
「なんでこれが過激とされたりヒンシュクの種になるの?」
というのが正直な感想にゃんね。
まあ、少々煽っているのは認めるけれど、政治的文書なのだからそれも当然。これはホワイト・プロパガンダにしてカウンター・プロパガンダなんでにゃーのか?

19世紀のフランスと現代の日本

1880年代フランスの貪婪にして凶悪な資本主義がはびこっていた時代と現代の日本があまりにも似ているのでお笑いだよにゃ。まあ確かにガキに労働させることがなくなったことは確かに評価していいだろうにゃ*1


1857年ブリュッセルで開催された第1回貧民救済会議で、リール近郊マルケットで最も裕福な工場主のひとりであるスクリーヴ氏は満場の拍手の中、義務を成し遂げたという最高に高貴な満足感とともに、次のように語った。「われわれは子どもたちのために娯楽となる手段を多少ではあるが導入した。われわれは、子どもたちに、労働の間うたを歌うことや、数を数えることを教えているが、これは、子どもたちの娯楽となるほか、子どもたちが生活の糧を得るために必要な12時間労働を積極的に受け入れさせる」。12時間労働とは、何という労働か! このような子どもを虐待する者たち、キリスト教徒、博愛主義者を磔にする地獄がないことを唯物論者は残念に思う。


http://www.geocities.jp/beringia2002/chap2.html より


しかし、基本的な構図は100年以上前のフランスと今の日本では変わっていにゃーようだ。


働くがよい、プロレタリアート諸君、社会的財産とあなたがた自身の貧しさを増大させるために。働くがよい。もっとも貧しい者となり、さらに働き貧しくある理由をもつために。これが資本主義的生産の冷酷で無慈悲な法なのだ。


中略


生産物を皆に分配し、万人の祝宴を開くために危機(恐慌)という機会を利用するかわりに、飢えで疲弊しきった労働者は、工場の門に駆けつけ、頭を打ちつける。憔悴した姿、痩せた身体、哀れな言葉で、労働者は工場長に訴えるのだ。「シャゴーさま、シュネイデルさま、わたくしどもに仕事を与えてください。わたくしどもを苦しめるのは、飢えではなく仕事への情熱なのです!」。そして、かろうじて立っているこれら労働者は、仕事が山ほどあるときよりも半分以下の安値で、12時間労働、14時間労働を求めた。こうして、産業の博愛主義者たちは、より多くの商品を製造するために失業を利用するのだ。


http://www.geocities.jp/beringia2002/chap2.html より


これは近未来の幻視なのかもしれにゃーな。恐慌がおこって、労働力をさらに安値で叩き売りする僕たちの近未来の図。

「資本教」より

リンクしたとおり、抄訳はネットにもあるけれど、書籍版の訳の方が読みやすいし、他にも「資本教」「売られた食欲」などのカコイイ煽りが読めるので書籍をお薦めしておきますにゃ。
「資本教」から「労働者の教理問答」を少し引用しますにゃ


問 神はどのようにおまえを罰するのか。


答 失業を科すことによってです。そうするとわたしは破門され、パンも葡萄酒も火も取り上げられます。妻子も飢え死にすることになるでしょう。


問 どのような罪を犯せば、失業の破門をうけねばならぬのか。


答 なんの罪でもありません。「資本」の大御心から失業は給わり、われわれの脆弱な知性では、理由がわかりません。


問 どこでおまえは祈るのか。


答 いたるところで。海上で、地上で、地下で。畑で、鉱山で、工場で、商店で。われわれの祈りが容れられ、報いられるためには、「資本」の足下にわれわれの意志、自由、尊厳を捧げねばなりません。鐘の音や機械の汽笛をきくや、われわれは駆けつけねばなりません。そして、ひとたび祈祷にはいるや、まるで自動人形のように、腕や脚、手や足を動かし、息を切らせ汗水たらし、体中を凝らせて、神経をすりへらさねばなりません。
われわれは心をつつましくし、工場主や現場監督の常軌を逸した仕打ちや罵詈雑言にもおとなしく耐えねばなりません。というのも、彼らは間違っているように見える時でも、常に正しいからです。
工場主が給料の切り下げをやり、超過勤務をやらせる時、われわれは感謝しなければなりません。なぜなら、彼のやることはどんなことでも正しく、われわれの為になることだからです。工場主や職場長がわれわれの妻や娘に手を出す時、われわれは誇りにせねばなりません。というのも、われらの神、「資本」が男子労働者の生殺与奪権や女子労働者の初夜権を彼らに授けているからです。
不平不満を口にしたり、怒りで血をたぎらせたり、ストライキを打ったり、反抗したりするより、われわれは苦しみに耐え、食べ残しのパンを食べ、溝(ドブ)水を飲まねばなりません。
それというのも、「資本」はわれわれの無礼を懲らしめるために、大砲や剣、牢獄や強制労働場、ギロチンや処刑隊で工場主の身を守らせているからです。


問 おまえには死後、報いはあるのか。


答 はい、たいへん善いことがあります。死後、「資本」はわれわれを座してくつろがせてくれます。寒さにも飢えにも苦しまぬでしょう。今日のパンや明日のパンを思いわずらう必要もなくなるでしょう。墓穴の永遠の休息を楽しめることでありましょう。


P97〜100

ニンゲンの幸福について

このプロパガンダの特徴は、労働神聖視を徹底してDISってるところですにゃ。マルクス主義の労働神聖視*2にはついていけにゃーところが僕にもあるしにゃー。


革命の一原則として、彼らは労働の権利を祭り上げたのである。フランスのプロレタリアートよ、恥を知れ! おもうに奴隷だけが、このような下賎な地位に耐えうるというものだ。


怠ける権利 P22


さきほど引用した箇所にも、労働時間は一日3時間にしようという話がありましたよにゃ。
江戸時代の日本人は一日数時間しか働かなかったという話ですにゃ。レヴィ=ストロースによると、人類のスタンダードにおいて(つまり、歴史的に人類史の大部分、地理的に地球の大部分において)、ニンゲンは一日3〜5時間しか働かず、それ以外はもっぱら遊んでいたということにゃんね。


まあ、こういう社会は平均寿命は50歳そこそこだという反論が聞こえてきますにゃ。
然り。
でもさ、50年の人生で労働時間が一日5時間だと大目に見積もったとするにゃ。睡眠時間を7時間として、余暇時間は1日平均12時間にゃんね。こういう社会には通勤通学の時間はにゃーからな。
それと、現代の日本人のよくあるパターンとして、労働時間が10時間・通勤に往復2時間・睡眠時間を削って6時間とすると、余暇時間は6時間しか残らにゃー。例え90年生きたとしても、余暇時間はたいしてにゃーかもね。長生きすればいいってもんでもなさそうだにゃー。QOLっていうんですかにゃ。


なんにしても、僕はユルイほうがいいにゃー。


で、この「怠ける権利」は思想家にはシカトされてきたんだけど、芸術家には注目されてきたと役者訳者あとがきにありますにゃ。
例えば、詩人にしてシュールレアリズムのイデオローグであるアンドレ・ブルトンシュールレアリズム小説のジャン・フェリ、ダダイストマルセル・デュシャンなどが影響されているようですにゃ。
特に、平凡社ライブラリー版訳者あとがきにはデュシャンのことが大きく語られていますにゃ。
デュシャンは「怠ける権利」における「一日三時間以上は働かぬこと」を座右の銘とし、生涯にわたって本当に実践したということですにゃ。そのおかげで幸福な人生であったと最晩年になされた対談で断言しているとのことですにゃ。


彼は、「生活のために働くこと」をしなかったから、幸運な人生であり、大きな不幸や悲しみにとらわれたこともなく、「神経衰弱」に罹ったこともないと断言する。ここで言う、生活のために働くことをしないとは、自分の人生に重荷をおわせ、負担をかけすぎないということである。負担をかけすぎるものは、「妻、子供たち、別荘、車」であって、早い時期に幸いこれに気づいたから、幸運であったというのである。
P219


ここまでくると、問題は労働神聖視だけでかたづかにゃーな。
若い頃に、生きていくためには働かなければならない、と考えて絶望したという西脇順三郎を思い起こしたりしましたにゃ。なんかデュシャンと西脇っていろいろと似ているような気がするにゃ。


自分のことをかんがみるに、恐慌が来るといわれている今のような状況は、僕が独身だったら大歓迎していたはずだにゃ。
「みんないっしょに地獄行きー。にゃははははは。BGMはクイーンね♪」
ってな感じで。
しかしガキがいると日和見でいけにゃーよ。将来の心配をしちゃうもの。子育ては暇つぶしとしては最強だし、面白いことも多いんだけど、こういう局面では妻子持ちってのは本当にダメダメにゃんねえ。にゃるほど妻子持ちには銀行もカネを貸すわけだにゃ。
ま、なるべくこれからの世の中のグダグダっぷりを楽しみたいとは思っているけどにゃ。働く権利を主張して、労働力をたたき売ることだけは避けたいと思っておりますにゃー>ラファルグ先生ならびにデュシャン先生。

*1:ま、第三世界のガキどもを搾取しまくりが僕たちの現在であることも事実にゃんが

*2:マルクス主義における労働ってのは、ニンゲンによる自然の認識と自然への働きかけだから本当は意味が広いんだけど